久々にこちらに戻ってきた。
ええとね、ツイッターで、見たんだ。フヅクエ、というカフェを経営してらっしゃる方が書いていた。
今こそ日記をつけるタイミングだ、と。
一週間前に書いたことが、遠いと。
あー、確かに、書いておけばよかったな、と思う。
まぁ、ひとまず今日から書いていく。
今日もほぼ一日中家にいた。朝7時くらいに起きて、本を読んだり仕事をしたり。
一度外出し、髪を切りに行った。
それと、スーパーのATMに用事を済ませに行ったりはしたか。
でも、そんなもの。あ、そうだ、パン屋にでも行こう、と思って、バイクでパン屋まで行ったが、10時から15時までの営業で、そのまま帰ってきたのだった。
そうだな、ほんのすこし前の22日まで、大学時代の友人と4人で出歩いてたな、ということをまず書いておこう。ギリギリでそういうことができた。
まぁ、もうすでに危ない、ということは言われていたんだけども、特別な罪悪感や危機を感じる、と言うこともなかった。まぁ、クラスター感染、と言うことは散々言われていて、友人の1人が数日前にリスクの高いところにいたと言うので、家から追い出されたような形になっていたが。
それでさ、今少しだけ怖い想像をしている。
それは仮に明日、関東を大地震が襲ったらどうしよう、ということである。
こんなことは、怖くなってしまうから言いたくないし、人によってはこれを読んだだけで、生活するのが嫌になってしまうかもしれない。
でも、これは厳然たる可能性として横たわっている。
2011年を体験している僕らはわかっているはずである。
だからさ、僕はこうも思うんだ。
日常に「戻る」という思いを抱くのはやめておこう、と。
別に悲観論ではない。
ただ、「災害はあってはならない異常だ」みたいには、絶対に考えないようにしよう、と言うことである。
およそ自然を相手取って、「あってはならない」ことなんてない。
無差別にただ「起こる」のが自然災害である。
それを身体的に受け入れられるように、精神を整えておく。
次は、新しい日常のあり方が立ち現れてくるんじゃないか、と本気で思う。
でもかといって、3.11の後散々心が動かされたけれども、なんだかんだで「日常に戻った」というような思いもあり(もちろん、「なんともなくなった」なんてことは断じてないのだが)結局後で、「思いつめすぎだったね」というようなことを、言う、かもしれない。
でもやっぱりなぁ、もうね、少なくとも「もとどおり」にはならないんだよ。
今は少なくとも、そういう気分でいる。
さて以下は、これから毎日、後で忘れそうな、今の日付でどれぐらいの意識でいるか、ということを書いておく。
・2週間ぐらい前までは、まぁ、言うても5月ごろには終わっているだろう、というなんとなくの楽観視があったと思う。
・少なくとももうこの数日では、「ああ、これは夏まで続くんじゃないかな」と言う気がすごくしている。そして、もう一ヶ月も経ったら、「頼むから今年中で終わってくれ」くらいの意識に変わっているかもしれない。
・5月の京都のジャグリングイベント、なんらかの形でできるんじゃないか、と言う気がしている。
・7月のEJCに関しても、そういえば、2週間ぐらい前まで、「まぁとはいえ夏のイベントは流石に影響を受けないだろう」と思っていたように思う。
2020年4月7日火曜日
2018年2月3日土曜日
なんとなく感じたことなんだけど
「サーカス」という言葉には、少なくとも日本の限定された集団の中では、どこかノスタルジックで、ミステリアスで、ロマンティックな響きがある。
僕はそれが、嫌いなわけじゃ一切ないんだけど、(むしろ好きなんだけど)別に特段愛するところではない、というのがなんとなく今日わかった。
というか、ジャグラーとして、やはり僕が愛しているジャグリングは、「サーカス」という言葉でくくられた途端に、何か付属物みたいになってしまって、違うんだよね、と思った。
つまりおでんに例えると、僕は具体的な、大根の味の染みかたや形や柔らかさに偏愛があり、また大根を愛する人たちが無意識に持っている共同体意識みたいなものが好きなのであって、サーカスという「おでん全体」について語る動機は、それほど持っていない、ということであった。
ジャグリングのアイデアを出すのが好きだし、ジャグラーが好きだし、奔放なジャグラーたちの生き方がジャグリングに現れているところなんかも、その個人との付き合いを含めてたまらなく面白いし、そういう、もっと具体性を持った、直感的にニヤけてしまうような、身体的快楽を伴ったものが好きなのだ。
僕はジャグリングをやっている人間だから、ジャグラーを見ると、否応無しに脳みそだけじゃなくて、身体的な反応(ミラーニューロンの反応なのかもしれないけれど)がある。俺も「ジャグリングがやりたいぞ」とうずうずする、そういうヴィヴィッドな欲望の中にこそ、僕がジャグリングの周りに居座り続ける理由がある。
2018年1月26日金曜日
歳をとるとバク宙ができない
祖母が入院している。
思うのだけど、人は歳をとると、たとえばバク宙ができなくなる。
それは両親を見ていてさえ思う。
人は歳をとるとバク宙ができない身体になる。
今僕は26歳だ。
バク宙ができる。
ブレイクダンスをやろうと思ったら、すぐにでも練習を開始できる。
そして僕はいつか歳をとってウィンドミルができなくなる。
そのことを言葉で想像することは容易だが、いつの時点から、どのようにしてできない身体への変化を始めるのか、それについての具体的な知見は、持とうにも持てない。
いつまでが期限なのか知りたいと思っても、賞味期限のように身体のどこかに書いてあるわけでもない。
僕はそのことについて、「ふうん」と思う。
毎年毎年、僕は初めてその歳になる。
毎日毎日、僕は歳をとる。
今も、キーボードの一打一打に自分の人生を使っている。
バク宙ができなくなるまでの残り時間で、自分の考えを述べている。
でも僕は、歳をとることを、残念だと思ったことがない。
「それは君がまだ26歳だからだ」と人は言うだろう。
しかしこれからも僕は、自分が、あらゆる可能性を若い時代に置き去りにしながら成長していることについて、決して後悔の念を込めて口には出すことはしない。
80歳を越えた祖母には、どうあがいても、バク宙をする力がない。
僕はそのことをただ、「人は歳をとるとバク宙ができなくなるのだ」と、考えている。
思うのだけど、人は歳をとると、たとえばバク宙ができなくなる。
それは両親を見ていてさえ思う。
人は歳をとるとバク宙ができない身体になる。
今僕は26歳だ。
バク宙ができる。
ブレイクダンスをやろうと思ったら、すぐにでも練習を開始できる。
そして僕はいつか歳をとってウィンドミルができなくなる。
そのことを言葉で想像することは容易だが、いつの時点から、どのようにしてできない身体への変化を始めるのか、それについての具体的な知見は、持とうにも持てない。
いつまでが期限なのか知りたいと思っても、賞味期限のように身体のどこかに書いてあるわけでもない。
僕はそのことについて、「ふうん」と思う。
毎年毎年、僕は初めてその歳になる。
毎日毎日、僕は歳をとる。
今も、キーボードの一打一打に自分の人生を使っている。
バク宙ができなくなるまでの残り時間で、自分の考えを述べている。
でも僕は、歳をとることを、残念だと思ったことがない。
「それは君がまだ26歳だからだ」と人は言うだろう。
しかしこれからも僕は、自分が、あらゆる可能性を若い時代に置き去りにしながら成長していることについて、決して後悔の念を込めて口には出すことはしない。
80歳を越えた祖母には、どうあがいても、バク宙をする力がない。
僕はそのことをただ、「人は歳をとるとバク宙ができなくなるのだ」と、考えている。
歳をとるのはずるいよね
歳をとるっていうのは本当にいいことだ。そして、ずるいことだ。
僕は今カフェにいて、そのカフェは、前に働いていたところからほど近くにあるので、いろんな思い出がある。
勤務中に、さっと抜け出してきて、ここで本を読んだり、パソコンをぱたぱた叩いたり、ぽかぽかした陽が当たる路地の往来を見たり、とにかく好きなことをしていたこと。
韓国人の友達Sさんに、このカフェで韓国語を習っていたこと。
一緒に働いていたYくんも、やっぱりここに来ていたのだ、とこっそり知っていること。
そういったひとつひとつ、きちんと重みのある出来事たちが、自分は頑張らなくても、勝手に積み重なっていくのだから。
シエナ、というイタリアのとある町に僕は留学していたんだけど、その町は、留学しているときは、まさかこれからの生涯で何度も訪れるようになるとは思っていなかった。
もちろん可能性としては予感されていたわけだけど、それは食べたことのない果物の味を知らないことと同じで、実際の質感をこころの中に如実に現出させることが不可能な事柄だった。
26年生きる、というのはそういうことだし、僕は今、例えば56年生きることを、そういう、食べたことのない果物の味程度にしか想像することができていない。
僕はね、今、30歳を超えるのが楽しみでしょうがないんだ。
僕は今カフェにいて、そのカフェは、前に働いていたところからほど近くにあるので、いろんな思い出がある。
勤務中に、さっと抜け出してきて、ここで本を読んだり、パソコンをぱたぱた叩いたり、ぽかぽかした陽が当たる路地の往来を見たり、とにかく好きなことをしていたこと。
韓国人の友達Sさんに、このカフェで韓国語を習っていたこと。
一緒に働いていたYくんも、やっぱりここに来ていたのだ、とこっそり知っていること。
そういったひとつひとつ、きちんと重みのある出来事たちが、自分は頑張らなくても、勝手に積み重なっていくのだから。
シエナ、というイタリアのとある町に僕は留学していたんだけど、その町は、留学しているときは、まさかこれからの生涯で何度も訪れるようになるとは思っていなかった。
もちろん可能性としては予感されていたわけだけど、それは食べたことのない果物の味を知らないことと同じで、実際の質感をこころの中に如実に現出させることが不可能な事柄だった。
26年生きる、というのはそういうことだし、僕は今、例えば56年生きることを、そういう、食べたことのない果物の味程度にしか想像することができていない。
僕はね、今、30歳を超えるのが楽しみでしょうがないんだ。
いろんなテイストがあるのだ
大学時代の先生のフェイスブックのポストなんかをみていて、ああ、いろんなテイストの文章があっていいのだなぁ、と思う。
別に自分が好きな類の文章や、自分が書けるタイプの文章だけではなくて、それ以外がある、ということの豊穣。 それ以外、があるからこそ自分が際立つ、というのではない。 それ以外はそれ以外に確固とした固有の価値がある、というそのことがいいのだ。
それ以外、を、自分の価値観を際立たせる道具というか、「それ以外」に分類してはいけないのだ。
それ以外、は、自分以外にもちゃんと意識のある人間があること、僕以外が哲学的ゾンビではないこと、そこに、自分以外の一つ一つの26年分の、そしてそれ以上の、それ以下の、それぞれの一回しか経験できないそれっきりの人生があるということを思い起こさせてくれる、そのことが言われのない喜びをもたらすのだ。
別に自分が好きな類の文章や、自分が書けるタイプの文章だけではなくて、それ以外がある、ということの豊穣。 それ以外、があるからこそ自分が際立つ、というのではない。 それ以外はそれ以外に確固とした固有の価値がある、というそのことがいいのだ。
それ以外、を、自分の価値観を際立たせる道具というか、「それ以外」に分類してはいけないのだ。
それ以外、は、自分以外にもちゃんと意識のある人間があること、僕以外が哲学的ゾンビではないこと、そこに、自分以外の一つ一つの26年分の、そしてそれ以上の、それ以下の、それぞれの一回しか経験できないそれっきりの人生があるということを思い起こさせてくれる、そのことが言われのない喜びをもたらすのだ。
行き場のない「話したい欲」を
今日はずいぶん億劫な気分だ。
外に出ても気分は晴れない。こういう時、自分は、誰かに話しかけたいのだ、ということも知っている。でもそれは、誰でもいいから話しかけたい、とか、ああ、あの人に会いたい、とかそういう気分ではないのも知っている。
人からそういう気分が移ることもある。
人はSNSでその気分を払拭しようと、いいね!をつけあい、誰かからメッセージがきていないか、ひっきりなしに確認してしまうのかもしれない。
僕は、チェブラーシカに出てくるワニのゲーナを思い出す。
チェブラーシカに会った時、ゲーナは寂しそうだった。
でもチェスの駒をバラバラに散らかしてしまいたくなるようなさびしさは、ひょっとすると人生において大事な時間なのではないか、という気もまたするのだ。
だって、その方がはるかに自然だもんね。
外に出ても気分は晴れない。こういう時、自分は、誰かに話しかけたいのだ、ということも知っている。でもそれは、誰でもいいから話しかけたい、とか、ああ、あの人に会いたい、とかそういう気分ではないのも知っている。
人からそういう気分が移ることもある。
人はSNSでその気分を払拭しようと、いいね!をつけあい、誰かからメッセージがきていないか、ひっきりなしに確認してしまうのかもしれない。
僕は、チェブラーシカに出てくるワニのゲーナを思い出す。
チェブラーシカに会った時、ゲーナは寂しそうだった。
でもチェスの駒をバラバラに散らかしてしまいたくなるようなさびしさは、ひょっとすると人生において大事な時間なのではないか、という気もまたするのだ。
だって、その方がはるかに自然だもんね。
2016年9月8日木曜日
二人のシンガポール人と会うことについて
今日は昼からシンガポールから来てくれた友人と一緒にラーメンを食べたり、カフェに行ったり、美術館に行ったりなど。ピッツァを締めとして食べたのだが、これがまたいい時間だった。
なぜだかこの二人は日本にいることがとても自然に感ぜられた。
一方で、変わったのは自分の方かもしれない、とも思う。
ひとところにとどまる、ということが当たり前であるような今までの自分のなかでの揺るがなかった基本的立場が、いつの間にかなくなっている。
おおいに隠されていた古いビルが、あるときそこを通りすぎたら綺麗さっぱりおおいが取れてさら地になっていた、という感覚に少し似ている。
中で何が起こっているかというのはさして重要ではなくて、実はそれがなくなっていた、ということを認識する瞬間にはじめて驚きと新鮮な感覚が流し込まれる。
つまり二人に会ったことは、「何度か通ったことのあるそのビルの前を通り過ぎること」で、そうか、誰が世界のどこにいたって別に何も不思議ではないんだよね、という、その感じなのである。
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