2018年2月3日土曜日

なんとなく感じたことなんだけど

 「サーカス」という言葉には、少なくとも日本の限定された集団の中では、どこかノスタルジックで、ミステリアスで、ロマンティックな響きがある。
 僕はそれが、嫌いなわけじゃ一切ないんだけど、(むしろ好きなんだけど)別に特段愛するところではない、というのがなんとなく今日わかった。
 というか、ジャグラーとして、やはり僕が愛しているジャグリングは、「サーカス」という言葉でくくられた途端に、何か付属物みたいになってしまって、違うんだよね、と思った。
 つまりおでんに例えると、僕は具体的な、大根の味の染みかたや形や柔らかさに偏愛があり、また大根を愛する人たちが無意識に持っている共同体意識みたいなものが好きなのであって、サーカスという「おでん全体」について語る動機は、それほど持っていない、ということであった。

 ジャグリングのアイデアを出すのが好きだし、ジャグラーが好きだし、奔放なジャグラーたちの生き方がジャグリングに現れているところなんかも、その個人との付き合いを含めてたまらなく面白いし、そういう、もっと具体性を持った、直感的にニヤけてしまうような、身体的快楽を伴ったものが好きなのだ。
 僕はジャグリングをやっている人間だから、ジャグラーを見ると、否応無しに脳みそだけじゃなくて、身体的な反応(ミラーニューロンの反応なのかもしれないけれど)がある。俺も「ジャグリングがやりたいぞ」とうずうずする、そういうヴィヴィッドな欲望の中にこそ、僕がジャグリングの周りに居座り続ける理由がある。