最近自分に訪れた変化がある。
それは、「こんな人がいたら俺はきっとむちゃくちゃ悔しいだろうな」という人間像を理想とするようになったことだ。
主に知性の面において。
今まで何か考えていたわけでもないから、変化というより、最近追加された「指針の立て方」、といったところだけれど。
これは、すごくいい。
自分がカッコイイと思う人、というのは、そりゃあ、否応なしにカッコイイ。
いい大学に行っている、ということを明かすことをためらう人は多いと思う。
というか、いや、このことをためらうということは、裏を返すとそれが、「イヤミととられるかもしれない」と思っているということ、それは、その発言をする相手がそう受け取るであろうと思っていること、さらに進めてみると、それは「相手を下に見ていること」なんじゃないかなとも思う。
だが、それってなんか違うんじゃないか。
たとえどこに属して勉強していようとも、その個人が熱心に自分の興味を追っているかということとは、一切関係がないんじゃないか。
それで、実際問題になってくるのは、どれだけ大きい相手と戦っているか、じゃないか。
どれだけ大きい知的な目標があるか、でもいい。
この表現芸術の良さをどうしてもことばで表してみたい、というものでも、それは学問とは呼べないかもしれないけど、追求するべきこと、としては同じ地平にある。
今自分の大学時代を振り返ると、「勝負相手」が矮小すぎたという気がするのである。
早い話、知性や生活のあり方がクールじゃなかった。
「自分は何に興味があって、これのことを知りたいからこういう場所で勉強をしている」ということが明確であれば、全然、恥ずかしがることなんかない。
そしてそれが、クールなものごとであるなら、なおのこと、何にも恥ずかしくはない。
むしろそれを徹底していないのならば、それを恥じるべきである。
いい大学に通っていようと、自分が何に興味があるのかもよくわからないようなのは、それこそ恥ずかしい。
実際に興味がわかっていてそれを追求しているのならば、大学の名前なんか上も下もないもんだと思う。
あまりに大学の名前に付随する「余計な安堵感」が多すぎる。
いやほんとに、肩書きとかどうでもいいよなぁ、と今は心底思う。
"いい大学"に行ったからこその発言とか、そういうのでなく、もう、本当に、いや、どうでもいいよなぁ。
自分がクールであろうとする、ということは、恥ずかしいことではない。
おしゃれをするのだってそうだ。
一部の日本人はおしゃれな人を見てすぐ「チャラい」とか言うけれども、いいじゃないか、ほっとけば、と思う。
服を選ぶのが外見のおしゃれなら、自分の興味を選ぶのは、内面のおしゃれである。自分がしたいおしゃれをすればいい。
外見でおしゃれをするのは別に得意じゃない、と思うのなら、内面のおしゃれをすればいい。
どういうものがおしゃれか、クールか、というのは自分で決める。
たとえば、最近私は、真に血の通った芸術は、最高におしゃれな、自己の内面の飾り方であるなぁ、と思う。
俺はこういう人間でありたいんだ、ということを自分で決めて、自分でそれを突き通す。
そいう堅い意志がないと、本当にいいものを生み出す芸術家になんてなれない。
その人は、語るべきものを持っているか、ということが一番「セクシーかどうか」を決める。
ものを知りたい、という好奇心から読書や、実験をする、というのは普通である。
普通であるのに、日本では、どこか「お勉強」という考え方が離れないから、お勉強は「先生のいうことを聞くという行為」だという一般通念が強勢である。
もちろん、勉強っていうのはそういうんじゃない、もっと自由で際限のない喜びをもたらす行為だ、というのはわかりきっている人もたくさんいるけど一方で、日本でそういう意識が一般的ではないのは間違いないと思う。
イタリアに行って得た一番の気づきは、この知性に関することであった。
「君はなにを勉強してるの?」
とよく聞かれた。
当時の私にはうまく答えられなかった。
自分の通っている学部の名前を言ったが、それは違うのである。
だが、イタリアで見たヨーロッパの学生は、少なくとも自分が興味を持っているものを、はっきり言う人が多かった。
別にそれは自慢でも、見え張りでもない、ただフラットに、「ああ、俺とんこつラーメン、好きでさ」ということをいうくらいの、「僕は電子工学をやってるよ」というさらっとしたものだった。
ああ、それでいいんだなあ、と思った。
好きな食べものと同じくらい、この世界には、興味を持って追求したいことがいっぱいあるはずである。
「無い」なんておかしい。
それを明るく「私はこれが好きです!」と笑顔で言える自分であればいいな、と心から思った。
「まぁ、一応、国際教養学部っていう学部で…一応英語で授業だったけど…」とかもじもじしながら、ふにゃふにゃ、「ああ、一応、早稲田で…」とか、あ〜あ、何やってんだよ、と思う。
とにかくイタリアに行って、これだけは恥ずかしかったな。
大学教育を受けたくらいなら、やっぱり「セクシーな知性」を身につけるとはどういうことか、くらいはわかっている人間でありたい。
もうすぐ24歳になってしまうけど、今これに気づけていて、もっと早く気づきたかったな、という思いと、ああ、今気づいてよかった、と思うのと、両方である。
『アルジャーノンに花束を』は、茂木健一郎さんがツイッターで言及していたアメリカの作家による長編小説で、これは読みたいなと先から思っていたので、借りてきた。
表紙から想像されるストーリーとはまるで違って、これ、表紙ピンクやめろよ、と思った。もっと中立的な表紙はなかったのか。この絵を描いた人は一体中身を読んだのだろうか。やれやれ。
内容は、穏やかなSFである。だが描写は極めて現実的。宇宙船とか、変な生き物とかは一切出てこない。だが「人間の頭をよくする」という現実にはほぼありえないであろう手術を軸にしているので、やはりSF(サイエンス・フィクション)だ。
白痴の青年が手術で天才になって、世界の誰も手にしたことの無いような知性と教養を手にしていく。しかし、同じ手術を受けたねずみが、やはり賢くなったのちに次第に能力が今度は低下していくのを観察し、自分の運命を徐々に悟っていく、という話。
星をつけるなら、4.5/5で、とてもいい。
これを書いた人、ダニエル・キイスさん、よくもまぁ、ここまで人間が、こいういう状態だったらどうなるか、ということを深く集中して描けるなぁ、と思う。たぶん、実際こう感じるだろうな、ということが、とてもよく描かれている。全然、感情がデフォルメされていない。
漫画とか、だいたいそうだけれど、絵面どころか感情もデフォルメされているものがおおい。
コピーのコピーみたいなもの。
それはそれで面白けりゃいいんだけど、それと別で、「古典作品」を読むことの意義には、「デフォルメされていないもの」を受け取る、ということがあるのだと改めて確認した。