2014年6月23日月曜日

無責任に

無責任に生きるのは簡単だけど、たぶんやっぱりそれなりに損する部分がきっとどっかにあるんだろう。
今はそれを見つけるように頑張るべき時期なんだろう。

うん。

2014年6月17日火曜日

每天進步一點點,幸福快樂到永遠。

相変わらずドイツ語が楽しい。
これがすごく楽しくて、ほっといても勝手に毎日少しずつやっちゃうんで、ジャグリングを始めたばっかりの頃を思い出すような思い出さないような。チェコ語も少しはやりたいんだけど、やっぱりなんか優先順位的にドイツ語が勝っちゃって、チェコ人のみなさまには申し訳ない。ヘレナ先生。
あとフィンランド語もぼつぼつやりたいんだけど、なんか、あれだ。ぼつぼつやろう。
もはや私は早稲田に、語学をやる以外に特に通う用事がない、みたいになっている。
今日は初めて、「マイナー言語研究会」なるものにちょっと顔を出してみた。
といっても発足は本当についこの間。
それをたまたま図書館の近くの掲示板でみつけたんで、とりあえず行ってみた。
まだ始まったばかりでなにもわからないといえばなにもわからないのだけど、直感的に感じたこととして、特に代表の方が、あっ、俺と自然に言語について話せる人だ。と、非常に心持ちが良くなった次第であります。少人数のゆるサーって、またいい。気がついてみると、卒業したら図書館入れないんだよね。カード買おうかな。
まぁ大学は、一応取らなきゃいけない単位はひとつだけあるんだけれど、まぁ、きちんとそれさえ行けば、いずれ卒業できるし。卒業してからなにしよう、と考えるのもまた楽しい。自分の思ったように大学を「編集」して、切り取って、はっつけて、なるべく最大限興奮しながら過ごすようにするのが、若い時間をフルパワーで過ごすコツ。



【うまくなること】

うまくなってるっていうのは、一週間ごとにみても、やっぱりうまくなってる、っていうことなんだろう。そのはずなのだ。
上に上がっていくグラフがあったとして、そのどの部分を切り取っても、やっぱりうまくなっているっていうことが大事なんだ。じゃないと、いつまでたっても人より早くはうまくならないのだろう。

每天進步一點點,幸福快樂到永遠。

っていうのは、シルクドゥソレイユのKAで京劇をやっていた星合(しんほあ)という大好きな友達が言っていたことなんだけれど、やっぱり、毎日、進歩があるっていうのがすごく面白いことで、ぼくはこれの意味が正しく取れているのかどうか、よくわからないんだけど、毎日少しづつ進歩していくことで、幸せで楽しいことが永遠に続く、っていう、そういうことなんだと思ってる。
ぼくはこれがすごく気に入っている。


2014年6月16日月曜日

TRASH(FUNNY BONES公演感想)

今年の4月に書いていたものをなんだかiPad 放置していたので適当に加筆修正して載せる。

TRASH(FUNNY BONES公演感想)
    
    長らく、といっても5、6年間のことだが、私はこのファニーボーンズというコンビの演技が好きである。初めて彼らの演技を見たのは、六本木だった。本当はドイツからはるばる来ていたGet the shoe というコンビを見るために行ったのだったが、ついでに他にもやっていた大道芸を見たのである。そのうち一組がファニーボーンズだった。
    ファニーボーンズは、英国出身のクリスと日本人のけーぼーのニ人組。パントマイムやジャグリングもするが、それらは技術を見せるためというよりは、コメディの手段として使われる。だいたいどの演目も最終的にコメディになるような、「笑い」をベースにしたショーが彼らのスタンスだ。演劇の要素も強く、ジャグリング中心の大道芸では出せない、観客との一体感が魅力である。中でも彼らの面白おかしいパフォーマンスを際立たせるキャラクターが、「東京ゾンビーズ」。詳しくは実際に見ていただきたいのと、楽しみをフイにしたくないので説明は最低限にしておくが、簡単に言えば、大きなゾンビが演目中に登場するのである。これが本当に面白い。5、6回はこの演目を見ているはずだが、未だにゾンビーズが出てくると目がキラキラしてしまう。『TRASH』は、彼らにとって初めての舞台ソロ公演。大道芸では見慣れているファニーボーンズが、舞台上でどういうことをするのか、非常に楽しみであった。
    場所は池袋駅から徒歩10分ほどのところにある、シアターグリーン。こじんまりとはしているが、綺麗ですっきりとした劇場である。舞台と客席の距離が近い。劇場の小ささというのは、特にジャグラーだとよく感じるのだが、演じる側が多少やりづらい。だが臨場感が増す。場合によっては、ただ広いだけの劇場と比べると、かえって魅力的である。あまり広いと動画で見るのとそう大差がなかったりする。実際に足を運んで観劇するなら、「ひと」を感じられる距離感がいいな、というのはよく思う。
    劇場に入ってすぐ、薄暗く照らされた、ゴミ置き場に模した舞台装置のかわいさが目を引いた。早速、「ファニーボーンズらしさ」を感じる。
    内容は、大道芸の方を見慣れている私からすると、ほぼ「いつも通り」であった。このことは、またゾンビーズや、お馴染みの演目が、こんな近さでゆったりと見られる、という期待でもあったし、一抹の物足りなさでもあった。だが大いに楽しんだのには変わりがないので、見に行って本当によかった。
     序盤は、スカイダイビングをネタにしたコメディ。ファニーボーンズらしく、オチから本筋に入るまでが鮮やかであった。彼らの演技には隙が無いな、といつも思う。長年同じ演目で演じ続けて来ている蓄積のおかげもあるだろう。アドリブがあるにしても、大体、冗長すぎず、かといって一瞬で流すのでもなく、適当な長さでうまくまとめる。これは見る側が思うほど簡単ではない。クリスのジェスチャーやけーぼーのコミカルな演技は、言葉無しで少々複雑なことでも伝えてくる。
    欲を言わせて頂けるのであれば、もっと新ネタを見たかったと言えば見たかったのだが、しかしあれだけうまいこと全てのネタをつなぎ合わせ、最後まで雰囲気を損なわず、飽きさせることなく一時間以上も演じ続けるだけでも脱帽である。非常に力のあるパフォーマーだと思う。
    さて、ファニーボーンズの魅力とは、一体なんなのだろう。一番に思い浮かぶのは、彼らの所作である。クリスの変顔、けーぼーの小ネタ。決して、「技術」にあるのではないな、と思う。むしろ「技術」は当たり前のものとして、如何に自分を見てもらえるかということが、彼らの関心であろう。だから決して、ファニーボーンズの演技を見て、「うわぁ、スゴイ」とは思わない。たとえばテープを使ったパントマイムのアイデアの素晴らしさに嘆息することはあるが、彼らが鍛錬した技術そのもの、とは言えない気がする。彼らが舞台で演じている様子を見ると、彼らが、好きになる。彼らの「技」を好きにはならない。この点において私は、ジャグラーの多くが、少なくとも日本のジャグラーの多くが、ダンサーのように「自分を見せる」ことを不得手とする原因の説明の手がかりを見出す。
    なぜかというと、ジャグリングは、「じぶんとモノとの関係」だからである。すなわち、ジャグリングの練習をするということは、特別意識をしない限り、「モノについて考えること」なのだ。それに対して、ダンスはどうか。ダンスは、つまり「舞い」は、「じぶんの肉体をどう扱うのか」ということとして考えられる。パントマイムにしても、おそらくそうだろう。もしかすると、「じぶんと、自分の想像力との関係」かもしれない。
なんにしても、今起こっていることが、観客の反応を通してしかわからない、という点に、大きな違いがあるような気がする。
そういうわけで、ジャグリング「で演じる」ということと、ジャグリングを「見せる」ということにはまた、大きな隔たりがあるなあと思うものである。










2014年6月15日日曜日

イギリス

http://www.nationalcircus.org.uk

 イギリスのロンドンで、プロが使えるスペースがあるらしい。
気になる。

2014年6月14日土曜日

そして虚しい、ジャグリングで「書く」

そして虚しい、ジャグリングで「書く」

 ここのところ、ジャグリングで何かを書くということについて考えさせてくれるような出来事ばかりでなかなか面白い。
 今日はダミアンナオミさんの話でした。
 両国パフォーマンス学会に行って来たのですが、その中で、ダミアンナオミさんというウィップパフォーマンスをしている方が、「頭でっかちにならないで、まずは道具を持って、使って」という話をされていました。(だいぶ主旨ははしょってます)
 ジャグリングで「書く」ということは、本当に無力です。
 いくらこれこれこういうジャグリングが理想だ、と言おうが、全然違ったスタイルのものすごいジャグリングのビデオを見たら、そんなものはいっぺんに吹っ飛びます。無化されます。
 いくら、こうしたら上手くなる、だの、こうしないと変なクセがつく、だのごたごたと言っていても、毎日5時間練習している人がいたら、そういう文章は、そういう人には無関係なことです。
 とにかく、ジャグリングは「やること」。考えることなんかではない。道具を取ったもん勝ちだし、道具をさわっていない時間は、ジャグリングをしている時間ではない。
 「それでも考えちゃうんだけど」っていうところに、雑誌の焦点はあるわけで、別に僕はそれでいいので、やります。
 でも、やっぱり「やる」ジャグリングの力には到底及ばないな、というのが、普通に考えた結果です。ジャグリングはやるもんだ。
 こういうところで書き散らしているのも、はっきり言えばほとんど時間の無駄なわけです。
でも、それでも書いちゃうんだ。
 「書いちゃう」っていうことには、そういう力がある。「書かずにはいられない」時の「書く」には、顕微鏡で見ないと見えないくらいだけど、先につながる「何か」がある。勿論、実行にしか力はないです。だから、もし「書く」か「書かないか」選べるんだったら、極力「書かず」に、「やった」方が良い。それこそが、「現実主義」です。でも、やっぱりそれでも、「書かないと」やっていけない、この気持を抑えられない、そういう時にのみ、「書く」ということに、面目躍如の可能性がほんの少しある。
 そこにきて思い出すのが、養老孟司さんが今月号の雑誌「kotoba」で言っていた、(というか随所で彼はこういうことを言っているが)著作というのは、思考の排泄物だということ。本屋なんか、「精神病院の待合室」(一字一句までは正確に引用していない)みたいなもんだと。僕はこれに実に共感できる。やっぱり養老さんは面白い。この、「書く」ときに感じる、というか書き終わった後に時折感じる虚しさとか、結局、書いたって大してかわんねえんだよな、みたいな「何したんだ俺」という感じは、これで全て合点がいく。要するに、自分が考たことの、顕示でしかない。
 それで養老さんは、排泄だから、書きたいと思った時に書いちゃうのは、健康ということで言えばいいことだ、と言って笑う。
 これで、Twitterが流行るなんていう事にも、実に合点が行く。日本以外であまり流行らないのは、たぶん他の国の人たちは、そういうところに吐露する以外に、思考を吐き出すための場所を持っているからだと思う。イタリア人だったら、間違いなく、対面したときに話す量。たぶん、青木が一週間で話す分の量+書く量=イタリア人が一日に話す量なんじゃないかと思うほど、彼らは、話す話す。

 そうそう、それであとの出来事は何かっていうと、エミール・ダールやウェス・ペデンのビデオを見たことです。
なにより、自分のジャグリングが超絶へたくそであることに久々に気づいて愕然としたし、生きるっていうのはこういうことなんだ、というくらいエネルギーの溢れるビデオを見せてくれたウェスもすごかったし。とにかく自分のエネルギー不足を感じて、なにちまちま「正確に書く」みたいなことにこだわっているんだろう、というような気分になったわけです。
 あとは、生のジャグリングの舞台演技を見たと言うこともありました。

 やっぱりね、「ライブ」(Live)の勢いには、書くなんていう行為は、勝てないね。
 古典が持っている力、本が持っている力、書くものが持っている力って言うのは、書かれたものそのものが持っている力であって、自分自身の力では無いと思ったほうがいい。だから何百年も生きるんだ。そんなに長生きなものなんだから、どっかに「生きもの」と違うことがあるんだ。
 自分が今欲しているのは、「生きもの」として、今やりたいことなんだ。
 「文章」は、思考のくず。その程度。それが、たまたま、いいものだと、力を持っちゃうことがある。でもそれは、本当は、あんまり、作者とは関係が無い。作者がなんと言おうと、それはそれとして、書かれたものは書かれたものとして、一人歩きを始める。
 でも、パフォーマンスは違うんだ。
 パフォーマンスは、自分が生きている間しか、そこにない。
 そこに、きっと何かの「保存の法則」があるんだ。
 短い寿命しかないもののもつ爆発的な力みたいなものが。


 それでやっぱり、俺は「書く」も好きなので、書くジャグリングの雑誌:ponteは、ますます力を入れて活動する予定です。へへへ。
 それは、少なくとも青木には「雑誌を作る」ということもひとつの「Live」だからである。
 結構面白いので、読んでみてください。
 それでは練習に行ってきます。(ダッシュ)
  ポンテ。
http://jugglingponte.com


関連リンク
第二回両国パフォーマンス学会(2014年6月14日終了しました)
ダミアン ナオミさんのスタジオのブログ

書くことなんてほぼ0だよ

今少し酔ってる。
書きたい。

書くことなんていうのは、本当に微々たる力しかないんだな。
ジャグリングのことなんか語る時は、特にそう。
エミール・ダールの作品を見て驚いてしまった。
ジャグリングってこんなにすごいことだったんだ、と驚いてしまった。
自分がいかにジャグリングのことを忘れていたか思い知った。
ジャグリングは、やっぱり「すること」なんだ。
書くことなんかじゃないんだ。
それはね、俺の先生が言ってくれたんだ。


ジャグリングは、することなんだ。
ジャグリングは「鉄の壁」だ。
書くって言うのは、それを爪でひっかくだけの行為だ。猫が壁に爪をたてるのと同じなんだ。傷つくのは自分のほうなんだ。


いっくら上手い文章が書けたって、ジャグリングの世界ではヒーローになんかなれやしないんだ。
ジャグリングは、上手くなきゃしょうがないんだ。
ジャグリングは、ジャグリングそのものは、いたって雄弁だ。

ジャグリングが語れないことを、俺は書くしかないんだ。

それで今ウェスのTHROW JOYを見たら、ますます血がたぎってしまった。
最高。






2014年6月6日金曜日

エリックのインタビューを終えて

 書くジャグリングの雑誌:ponte の編集長として、 またなんでもやる下っ端として、ていうか単に「創作意欲が湧いた一個人」として、ジャグラー、エリック・ベイツにインタビューをした。

 インタビューというものの経験がほとんどなくて、毎回どうしたらいいか迷っている。インタビューのなんたるかなど、全く分からない。まずもって、日本語でインタビューをしたことすらほとんどない。よってそんなことを英語で行うと、毎度必ず、恥をかく。編集してあるからまだ読めるものの、インタビューを行っている最中は、もう、あっぷあっぷだし、次に何を言うか一生懸命考えながら同時に言っていることを聴くような有様だから、よく大事な内容をスルーしてしまっていたりする。後で聴き直して「なんでここにつっこまないんだよ」ということに気づくことなんかざらである。それでもあえて慣れない言葉でインタビューをやってみようと思えるのは、それだけ、アーティストがジャグリングを語ることばの中に光るものを見つけられるからだし、なんだかんだで楽しいからだし、あとは却って、英語やその他のことばで聴く方が、自分で勝手に「素敵」に解釈することが多いから、かもしれない。これはもう、アホな私のせいとしか言いようがない。語学に対する気持が気持ばっかりだから、英語がろくに身に付かない。

 エリック・ベイツとのインタビューで、インプロを音楽に合わせてたくさんやる、ということがあった。
 これを聞いてあとから思った。
音楽に合わせてジャグリングをする。これは要するにジャグリング以外のものが自分に与える印象を、ジャグリングに変換してみる作業、と言える。
 だったら、必ずしもその「ジャグリング以外のもの」が、音楽である必要はないんじゃないだろうか。たとえばこれを、音楽ではなくて、絵画からインスピレーションを得ながらやったら、また違ったものが生まれて来るんだろうか。ただしかし、普通は、ジャグリングは、音楽と一緒に提供するものなので、音楽でインプロをするのががあくまで「基本」ではあるけれども。
 ここに関しては、もう既に、ダンスやその他表現芸術の分野で、理論化が進んでいるのかもしれない。もしかすると、ジャグリングの世界で「新しい」と騒がれていることは、もれなく、他の世界で「古い」とされていることなのかもしれない。
 でも同時に、その至らなさこそが、ジャグリングのいいところなのだ。
 理論化などほぼ全くされていない。
 ほとんど誰も、「自分の通った道筋」を「整備された道」にしないことが、ジャグリングの自由さと、同時につたなさを創り出しているのだ。
ジェイ・ギリガンが言っていた「ジャグリングがまだ若い芸術である時代に生まれられてよかった」というのも、こういうことだ。

編集で徹夜しちゃったから、今日はきっと眠くなる。