2014年6月6日金曜日

エリックのインタビューを終えて

 書くジャグリングの雑誌:ponte の編集長として、 またなんでもやる下っ端として、ていうか単に「創作意欲が湧いた一個人」として、ジャグラー、エリック・ベイツにインタビューをした。

 インタビューというものの経験がほとんどなくて、毎回どうしたらいいか迷っている。インタビューのなんたるかなど、全く分からない。まずもって、日本語でインタビューをしたことすらほとんどない。よってそんなことを英語で行うと、毎度必ず、恥をかく。編集してあるからまだ読めるものの、インタビューを行っている最中は、もう、あっぷあっぷだし、次に何を言うか一生懸命考えながら同時に言っていることを聴くような有様だから、よく大事な内容をスルーしてしまっていたりする。後で聴き直して「なんでここにつっこまないんだよ」ということに気づくことなんかざらである。それでもあえて慣れない言葉でインタビューをやってみようと思えるのは、それだけ、アーティストがジャグリングを語ることばの中に光るものを見つけられるからだし、なんだかんだで楽しいからだし、あとは却って、英語やその他のことばで聴く方が、自分で勝手に「素敵」に解釈することが多いから、かもしれない。これはもう、アホな私のせいとしか言いようがない。語学に対する気持が気持ばっかりだから、英語がろくに身に付かない。

 エリック・ベイツとのインタビューで、インプロを音楽に合わせてたくさんやる、ということがあった。
 これを聞いてあとから思った。
音楽に合わせてジャグリングをする。これは要するにジャグリング以外のものが自分に与える印象を、ジャグリングに変換してみる作業、と言える。
 だったら、必ずしもその「ジャグリング以外のもの」が、音楽である必要はないんじゃないだろうか。たとえばこれを、音楽ではなくて、絵画からインスピレーションを得ながらやったら、また違ったものが生まれて来るんだろうか。ただしかし、普通は、ジャグリングは、音楽と一緒に提供するものなので、音楽でインプロをするのががあくまで「基本」ではあるけれども。
 ここに関しては、もう既に、ダンスやその他表現芸術の分野で、理論化が進んでいるのかもしれない。もしかすると、ジャグリングの世界で「新しい」と騒がれていることは、もれなく、他の世界で「古い」とされていることなのかもしれない。
 でも同時に、その至らなさこそが、ジャグリングのいいところなのだ。
 理論化などほぼ全くされていない。
 ほとんど誰も、「自分の通った道筋」を「整備された道」にしないことが、ジャグリングの自由さと、同時につたなさを創り出しているのだ。
ジェイ・ギリガンが言っていた「ジャグリングがまだ若い芸術である時代に生まれられてよかった」というのも、こういうことだ。

編集で徹夜しちゃったから、今日はきっと眠くなる。

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