2020年12月31日木曜日

絵を描きながらオーディオブック

「絵を描きながらオーディオブックのオバマさんの自伝を聞く」というのをやっている。

これはいいね。

日頃から、英語をやりたい、フィンランド語をやりたい、イタリア語をやりたい、ドイツ語をやりたい etc.... と言ってばかりはいるけれど、じゃあそれをやっているのか、と言われると、実際、やっていない。やってないんですよ。まあ、そういう「やった、やらない」を繰り返して、徐々に上手くなっている部分もあるんだけど、本気で語学をやりたい。と、今は、思っている。

「やることを決めてそれを淡々と毎日やる」ということが一番効果的なのをもう知っているので、それを実行したいよね。それぞれ、やりたい言語があったら、1日1時間はそれに向き合う、ということが、本当に、大事や、と思う。

あと、自分が本当に楽しいと思っているかどうか、っていうのが、それだけがいい言語学習かどうかの判断基準だよね、とも思う。

ながいつぶやき(2) 「整っている」という呪い

この原稿は、2020/12/30に書いている。これを公開する一日前である。こうやって、あ、書きたい、と思ったことがあったら、それを即刻書くのがいい。そして明日公開すればいい。公開するときに、何か付け足したいことがあれば付け足せばいい。書きたいと思うことがあったらすぐに、その場で、iPadでもiPhoneでも、パソコンでも何でも取り出して書き始めるのがいい。

整っていなきゃ、という呪いがある。僕はいつもこれに縛られている。これを治療したい。なんならこれについて一冊の本を書いてもいい。書かないけど。

何かを始める前に、「きちんと整った形で、整然としたものを出さなきゃ」とか思うんである。僕はこれを病理だと思う。人間社会で暮らすうちに培った、不自然な考え方だと思っている。本来いのちは流動的で、つまり僕らは野良猫で、あっちに行きたいときにあっちにいく、というような、奔放で、無軌道で、無秩序な、ただ欲にだけ指示を仰ぐ行動をするのが一番楽である。だから、僕はここを、そういう「やりたい」と思ったときにやりたいことをそのまま残す、記録の場所として、使いたいと思う。たぶん読んでいる皆さんも、なんかほぐれていくんじゃないか、って予感が既にしている。

ぐちゃぐちゃしてるなあ、というものをまず外に出して、それから整える、という順番であるべきだ。そしてその「出す手段」は本当に、何でもいいはず。まとめたきゃあとでまとめるんだから。ととにかく、躊躇しないってことが大事ですよ。

2020年12月30日水曜日

ながいつぶやき(1) 千夜千日

定期的に毎日のブログ公開をしたくなる。

今まで何度か、毎日のブログ更新をしている。ジャグリングについて、(あんまりジャグリングについて書いてなかったけど)2年ぐらい毎日書いていた時もあったし、コロナ禍初期にも、ちょっと書いている。

今回は、また、書く筋肉を取り戻す、ということをしたくて。でも、どのサービスを使おうか、どういうやり方にしようか、ということで、もう、妙蓮寺の本屋の2階にあるコワーキングスペースで、かれこれ3時間ぐらい悩んでいる。で、この、悩む時間、これね、これを放逐したい、とおもっていたりする。さっさとやればいいのである。まずは1000日ぐらい続けて、それで判断すればいい。結局さあ、どんなプラットフォームであろうが、別に人は面白ければ読むわけだし、面白くなければ読まないわけだし、そもそも面白いことを書きたいのか、別にそうじゃないんじゃないかもとおもうわけだし、まぁ、面白いことは書きたいけどね。

なにが大事かと言ったら、とにかく僕が好き放題何かを書いて、それを、人が読める場所に置く、ということなのである。で、こういうので大事なのはとにかくスピードで、そのスピードで大事なのは直感で、直感において大事なのは、「本当は全部どうでもいい」と思うことである。たかがインターネット上のサービス選びぐらいで悩むのがバカなのである。それよりは失敗しにいった方がいいじゃない、恥かきにいった方がいいじゃない、もう、全部よく定まってないところも書いたらいいじゃない、ということなのである。「誤字脱字があるのが惜しい」とか何とか言ってくる人がいても気にせず明るく走ってればいいのである。

5秒遅れることが命取り、と心得よ。

というので、とりあえず毎日書く、というのはやるとして、本気で、毎日、書くとしたら、どんなことを、書くべきか、というのを、毎日書きながら探っていきたいね。

※※※

Twitterでは収まりきらない、「今言いたいこと」を書く場所として、とりあえずここを定めたいなと思った。決定。長い文章で呟きをする場所、ですね。そういうことにします。

※※※

フィンランド語、全然やってないじゃん、という。

でも、僕はこれについてフィンランド語を仕事にしたいな、という気持ちでいる。なんか、本気でやらなきゃ意味ないじゃん、習得遅いし、と思って、なんでも仕事にしちゃえば、本気になるんじゃない? と思っているんである。

2020年10月28日水曜日

いまのことをかけ(15)

 少しあいたけれども。自分がストレスを受けることについて考えている。怒られるのが極端に嫌いである。指導されることも好きではない。あなたはなんの権利があって僕にものを言うんだ、という気分になる。もちろん自分が悪いことがあれば、謝るし、それについて反省もするんだけど、なんだか僕は、普段から、実は、誰かに怒られやしないか、と内心冷や冷やしているから、それで、逆にいざ怒られてしまうと、なんで僕はこんなに気をつけているのにやっぱり怒られてしまうんだろう、と悲しくなっちゃうんだろうね。人を怒らせたくもないし、イライラもさせたくないのにね。

※※※

最近は、自分の中で、早起きして、自分と対話をする時間を持つ、ということがはっきりできているので、ここに毎日いろいろと書くことが少しバカバカしく感じ始めている。

別にそれほど公開することもないじゃないか、と思うんだろうね。

要するに、自分と向き合うきっかけとして、公開する日記、といういち手段を選んだだけであって、別にこれに拘泥することもないのである。

2020年10月24日土曜日

いまのことをかけ(14)もん

 今日も早く起きた。

このまま励行したいね。

久々の友達と会い、綴方行く。白楽まで歩く。なんだか、付き合いの長い友達ってのはいいもんだね。

2020年10月23日金曜日

いまのことをかけ(13)

 実は一日抜けているのだが、まぁ、しょうがない。

今日はいつもよりも意識的に一日を過ごした。

時間を自分で設定する。

これが続くといいな。

2020年10月22日木曜日

いまのことをかけ(12)

昨日は朝翻訳に取り組み、昼、埼玉から友人くる。

遅くまで起き、今日も遅くまで寝て、桜木町に来て少しだけ仕事する。

誰と一緒にいるかで、景色も、自分がどういう人間であるかという認識も、とにかくすべて変わるよな、と思う。

2020年10月21日水曜日

いまのことをかけ(11)「気持ち」にもいい代謝

昨日のこと。

朝は部屋掃除。昼はだいごさんくる。近所のニュータンタン麺を食べにいく。だいごさんは初ニュータンタン。知ってるかなと思っていたが。

途中からふじくんが合流。少し家で話して、一緒に自転車で妙蓮寺まで。

妙蓮寺で、いつもの、生活綴方。店番の日。今日は作家・川内有緒さんのイベントがある。偶然だがこの日、僕が店番。有緒さんはあいかわらず。といっても、3日ぐらい前に会っているのだが。

19時30分からスタートのトークイベントには、たくさんのひと。

イベントも楽しかったし、そのあとの打ち上げ、小上がりでおでんを食べたのも楽しかった。

もう、落ち込んでない。嬉しいな、ということがたくさんあった。新しい人ともたくさん出会い、そして、期間をおかずしてまた会う、という繰り返し。

「気持ち」にもいい代謝があるね。

2020年10月19日月曜日

いまのことをかけ(10) 雨音が聞こえる室内はいいな

 雨音が聞こえる室内はいいな。

コワーキングスペースの「本屋の二階」で、昼から数時間、ウェブ上で発表される原稿を書く。昨日は朝4時半まで手紙を書いていた。あまり身体が健康ではないことを感じる。マテ茶、ハマる。原付で走ってたら、後ろの原付乗りに「後ろ見なさいよ」と怒られる。しゅん。雨の日はよく見えない。

自信がついたり自信が無くなったり、いろいろである。

自分自身の変化で、世界が全て変わってしまって見えること、ってありますね。これは、要するにちょっと鬱っぽいということなのだろう。

というか僕には多分躁鬱っけがあって、とても悩んでいる人からしたら大したことはないのだろうが、それでも、調子が結構悪い時と、とてもいい時でかなり差がある。まぁ、だからどう、ということもなくもう29年間も過ごしてきたから、本当に、どうでもいいんだけど。

自分のことを把握したがっている。本を読んでは、自分のことに当てはめ、人と話しては、自分の行動に照らし合わせる。

やはり、誰かに怒られる、誰かを不快な気持ちにさせてしまった、と感じることがとても苦手なんだ、と思う。たちどころに自信が無くなってしまう。これは、みんなそんなものなのだろうか、それとも僕が極端に弱いのだろうか、そういうことは、よくわからない。

わからないけど、とにかく、しょんぼりしてしまって、身体に力が入らないようなことが、よくある。

2020年10月18日日曜日

いまのことをかけ(9)本当はそもそも勇気がいるのだ

今日も、書くことでなにかを、呼び起こそうとしている。自分が考えるための文章を書いている。人が読んだところで、大した益にならないことはもちろん予想がつく。
それでも「このことは、実はみんな関係があることなのかもしれない」という一縷の望みがあるから、こうして公表されるような場所に置いてみることになる。
あとは、こういう話を、いったん自分の外に置いてみないと、とにかく、抱えきれないぐらいになってしまっている、というところが一番の理由だろう。



やさしい言葉をかけるなんていうことが自分にできるのか?
という気分になっている。

オレは、どうしようもないくらい不遜で、上から目線で、自分が発する言葉など、誰かの優しさにはなりえないのではないか、という気分になっている。

もちろん、そんなのは嫌だ。嫌だが、そんなふうに思われているんだ、と突きつけられたときに、「自分には断じてそんなことはない」と断言できるだろうか。そりゃあ、ずっと寄り添う、なんてことはできないと思う。いつまでも、適切に、喜ばれるように。それは、できない。たぶん、僕には。
しかし目の前に困っている人がいて、その人に対して、倒すか、支えるか、という二極のバロメーターがあるのならば、いつでも、「支える側」である人間でありたい、と僕は本気で思う。
生ぬるい「一見やさしい」お世辞やねぎらいや褒め言葉ではなくて、本当に必要な真実を伴った言葉で人を支える、力になれる人間だったらといつも思っている。
しかし極力真実を言うことは、基本的に「やさしい」行動ではない。ときにそれは攻撃的である。でも、なんの真実も含まれていない、うわべだけのやさしいことばは、もっと攻撃的で、残虐である、と僕はおもう。それは、この世で最も攻撃性を持つ「無関心」に等しいとおもう。
(でも僕が強い言葉を向けられるとき、それは相手に僕が向けた一抹の「無関心」に起因していたのかもしれない)

僕は、自分から積極的な嘘をつくのがとても苦手である。
別に正義感があって、とかそういうことを言いたいのではない。本当に。
その、とにかく苦手なんだ。嘘をつくのが。目があっちゃこっちゃ泳いで、しどろもどろになってしまう。わらってごまかす、というような結果になってしまう。
だから、どうせバレるので、なるべく本当のことを言うように努めている。

しかしだ。

「なるべく人の役に立てる人間でありたい」と思っていることにまったく偽りはないのに、もしかして、その「嘘をつけない」自分の態度が、まるきり人を傷つけるような力としてしか作用していないのではないか、ととても不安になることがある。



今、もうひとつ思ったことがある。
それは、「思う」ことと「言う」ことには、とても大きな隔たりがある、ということである。
なにかを言ったり、書いたりすることによって、それを受け取った人から不快感を示され、嫌われることがある。
さて、その「思ったこと」を、表現した、すると、それを受け取った人が不快になった、という過程の中で、このとき、一番の原因はなんだったのか。

それはすべて、「それをそのように表現した」ということに尽きる。

「表現がなされた」ということがすべての原因である。
けっして、「そう思っている」こと自体が悪いのではない。
「僕がこのように思うことには、正当性がある」と文句をいっても、それは的を外している。
そう思っても、それを表現しない人がいる。
そう思っても、それを別のやり方で表現する人がいる。
思うことが同じでも、その表現の仕方に差異があり、そして、「表現を受容する」以外の形で、人は他人の考えには触れられない。
結局のところ、その「思うこと」がどのように外界に表出したか、ということでしか、他人の反応は生まれない。
(でも、だからこそ、嘘をつく、ということは、実はとても切実で大事な能力なのかもしれない、といま頭をよぎった)

これはとても面倒なことだ。
人と付き合う以上、いつでも、何を、どのように表現するか、ということにいちいち結果が伴ってくる。

これは、ちょっと、やっぱり、怖いことだな、と一瞬、ひるむ。

そして、そんなもの、自分の力でなんかほとんどコントロールできないように思えるよ。
他人の反応というのは、いつだって不可知だ。うまく行かないことのほうが多いくらいだ。

しかし僕は、その面倒くささを避けて、「それとは関わらない」ことを選ばないようにしたい。

自分の取ったろくでもない行動によって嫌われることだっていっぱいあるのだが、それでも、それを避ける、という結論に至らないように、すんでのところで自分を踏みとどめている。

でも、みんなそんなふうにして、人と関わっていく、という勇気を出しているのだろう、と思う。

僕はただ、諦めないでいよう、と改めて決意をする。
人と関わるということは、みんななんでもないことみたいにやっているけど、誰にとってだって、本当はそもそも勇気がいるのだね。

やはりこの文章は書いてよかったな。
ありがとう。

2020年10月17日土曜日

いまのことをかけ(8)みんなが何かしらでつながっている

 無印の黒糖バウムをコーヒーで流し込んで、書き始める。

・朝目覚めたときに、ぱっと起き上がりたいな、と思っている。

・昨日、大船の本屋さんポルベニールブックストアまで行ってきた。作家の川内有緒さんがいらしていて、書店員見習いをやる、というイベントがあったのである。本屋自体もいつ行こうか、とずっと考えていたから、ちょうどいいタイミングだった。午後4時少し前に入ったが、店内には、僕以外にもうひとり。僕ら二人に向けて、『バウルを探して 完全版』のパネル写真を紹介してくれる。その後だんだんと人が増えていったのだが、書店の関係者がすごく多い。なにかでつながっている人がとても多い。ヨーヨーのユッキーのお姉さんもいらした。(有緒さんの著書『パリでメシを食う。』にユッキーが出てくる)昔ユッキーと練習していた時期があったことを伝える。みんなが何かしらでつながっていることがすぐに分かる場であった。有緒さんも、すぐ話をふってくれるから、色々とつながっていくのである。いいね。

・今日は新宿の方に行って、トレードショーを見に行く。

いまのことをかけ(7)対面で話すことの正しい力学であって

 朝、インタビュー。依頼されて行うインタビュー、ってあまりない。どうすればいいんだろう、とも思うのだが、ふつうに話せばいいはずだ、と思って、あまり気をはらないようにした。


昨日ちょっと言われたことがあって、そのことについてずっと考えている。これは、悲しい、というのとは少し違うのだが、うーん、まだ、こころの整理が追いついてないみたい。しばらく自分の中で落ち着かせてから、冷静に返事をしようと思っている。

容易にひとにメッセージが伝えられることは、いい面もあれば悪い面もあるな、とおもう。そんなつもりじゃない、ということまで伝わる。ということも、ある。人を前にして、そこでは言えないこと、というのがある。これは、別にそこに嘘がある、ということではなくて、それこそが、対面で話すことの正しい力学であって、面と向かっていると言えないだろう、ということ、は、それはそれでいいのである。

2020年10月15日木曜日

いまのことをかけ(6)それが気持ちいい、と思えていれば、最高じゃん、と思う。

 少し早く起きて文を書いている。

「仕事をする」という言い方を改めたくて、いろいろ自分の中で試行錯誤している。

「仕事」という言葉に誇りを持っていたり、これはとても気持ちのいい響きだ、と感じている人もいるだろう。それは知っている。僕自身にもそういう時がある。

ただここでは僕が、今、この、2020年10月15日木曜日午前8時33分に感じていることを書く。

「仕事」という語を使う時、多くの場合それは「嫌なこと」を、それ以外の「嫌じゃないこと」と隔離する意図で使われている感じがする。しかし誰だって嫌なことなんてしたくないじゃないか。わざわざ「さあ、これから嫌なことをするぞ」と自分に言い聞かせてから始めるなんて、愚行じゃないか、と思う。対外的に、これから何するの、と言われて「あ、仕事しようかなと思っている」と言うのは構わない。ここでいう「仕事」はあくまで記号で、記号として機能しているうちはまだいい。しかし「仕事だ」と言って残念そうな顔をしたくない。「仕事」を、とにかく、諦める理由の言葉として使用する症状が蔓延しているのは、どう考えても、社会的損失じゃないか。そこに、自分の力で抗うことを密かに諦めている匂いがする。そこに自分の健康との断絶があるようにも感じる。どうも、ここに流れているのは、気持ちのいい流れじゃないな、という感じがする。気持ちよくない流れよりは、気持ちいい流れの方が、いい。いいよね。

「仕事」という語には、絶対、本来、そんな風ではなかったと思うんだけど、自分ではいかんともし難いことにペースを乱されている感じが付きまとう。他人にペースを握られる、ことを意味しているような節がある。他人にペースを握られると、不安になり、心配になり、鬱々とし、やるせなくなり、怒りが湧く。

自分の裁量で管理する「仕事」がいいんだろうね。他者が制限をかけるのであれば、先回りして、自分から制限を設置しにいく方がいい、ということを思う。それが気持ちいい、と思えていれば、最高じゃん、と思う。

※※※

久々に加藤典洋さんの『言語表現法講義』冒頭を読む。ああ、俺は、この本と、この著者に出会って、文章を書くということに対する態度を一変させたのだった、と思い出した。

「わかったら、何がわかったのかを、考えなさい。」(『言語表現法講義』p.204)


2020年10月14日水曜日

いまのことをかけ(5)やりたいことは山積である。

朝から教習所へ。小型二輪の免許、受かる。嬉しい。教習所では、僕以外に4人が試験を同時に受けた。そのうち、話しやすい感じのオーラを出していた3人がいて、試験が始まる前、緊張するねー、だのなんだの、ワイワイ話していた。やはりみんな乗る直前、ガクブルだったのだけど最後はみんなで受かって、いえーい、と歓喜。そのうち二人は、今日免許センターに行って交付をする、というので、僕も一緒に行った。(二人は電車、僕は別で原付で向かったが)着いたら、もうずいぶんお腹が減っていたので、下のカフェで昼を食べる。いろいろと話す。13時ごろ受付をして、免許を受け取ることができたのは、3時すぎ。いったん家に帰り、そうだ、これは見せに行こう、と思ってタネマキに行く。

やっと安心。別に絶対に必要なわけでもなく、自分で取りに行ってるんだから世話ないもんだが、やはり、一回試験に落ちて、結構まいっちゃっていたので、受かることができてよかった。まぁね、心配事は少ない方がいいですよ。

しばらく放心していたが、また戻ることにしよう。

やりたいことは山積である。

2020年10月13日火曜日

いまのことをかけ(4)なんか毎回驚いてない?

 坂口恭平のアルバム「隕石たち」を流しながら書いている。

一年、本当に早いな、と思う。今年ってあったっけ?ってさ。

1月に撮影された映像を見る。この時はまだ2月以降、世界がどんな風になっていくか知らないんだな、と思う。それで、気がついたら10月である。

それでこれは最近よく言っているんだけど、僕らってさ、なんか毎回驚いてない?

もう29歳になったけど、いまだに僕は新鮮に驚いてるよ。

※※※

昨日は昼まで、なんでかわからないのだが落ち込んでいた。本当に理由はなんでかわからない。突然、部屋にいて、孤独になった。

天気もいいし、何か具体的に悩んでいることがあるでもないし、でも、突然「俺のことは誰も助けてくれないんじゃないか」というような気分になった。

でも、そういうこと、誰しもあるよね。

いかにも暗そうな人「だけ」がとても暗い悩みを抱えてるわけでも、明るい人が「実は」とても深い闇を持っているわけでもなんでもなくて、もう、人類、みな平等に、道路に空いた穴みたいな感じで、突然、ボコン、と落ちるんだよ。

その時に、焦る裏で、「まあでもこういうのはよくあることだから」と思えるかどうかだよな。

あと、「自分には不本意だがやらなきゃいけないこと」があまりに多いと、とても悲しくなるので、そういう時は気持ちよくグレる、ということも大事だよね、と思ったりしている。


2020年10月12日月曜日

いまのことをかけ(3) それこそがまさに「自分に厳しい人」だからね

 これは、なにも誰かに向かって言っているというのでは決してないのだけど。

「自分に厳しい」態度にアテられてしまうことがある。

自分に厳しい、というのは、たとえば、自分が許せない、という気持ちである。極力多くを「自分の意思」の責任とする、という態度のことである。そしてここに「厳しくない態度」が介入すると、全体のバランスが崩れてしまう。それはその人なりのエコシステムであって、というか誰しも多かれ少なかれ持っていることで、ただその大きさが違うだけ、ということではあるんだけど、やっぱり、特にその気持ちを大きく持っている人に対して、「もう少しだけでも気楽になったっていいのではないか」と思うことはある。

しかし、実際にはそういうことを言ってもダメなんだよね。
どこか一箇所、たとえば睡眠時間にしても、仕事のことにしても、なんでもいいけど、もっと楽にしてみたら、とパラメータをいじるよう助言したところで、それはその人の中では「そこを楽にしたらすべてが瓦解しうる」要素になっているのであって、もちろん気持ちは嬉しい可能性だってあるんだけど、そこで素直に「ありがとう、そうする」とは言えないはずのである。なぜなら、それはその一箇所だけの問題ではないからだし、あと、あくまで是非の判断を下すのは自分でないといけないしね。(それこそがまさに「自分に厳しい人」だからね)結果、安易に声をかけたところで、それは受け入れられないことが大半である。

純粋に、この人の助けになれたらなー、と思うんだけど、何もできないなぁ、と感じることって多いよね。まぁ、僕自身がその人の助けであれたらいいな、と結構本気で思っているからこそ、そういうときにやるせなさを感じるのだし、そういう気分はそれ自体、悪くはないけれどもさ。

だから黙って見ていて、もし本当に辛くなったときは、いつでもそこにいる、と思ってもらえている、っていうのが、なんか一番いい距離なのかもしれないし、それはとてもいい関係だ、嬉しいよな、ということを思った日でした。

※※※

昨日はギリヤーク尼ヶ崎さんの大道芸をみた。横浜の大桟橋で行われる、というので、今見なければ次いつ見られるかわからないな、と思って、行った。

彼の踊りそのものにハッとするものがあったというよりは、その佇まいに迫力があった。もう90のおじいさんで、生物としての物理的な力は弱いはずなのだが、この人は全然油断をしていないんだろうな、と感じた。

はじめに車椅子でぐわああー、と登場して、立ち上がり、観客の手を引いてニコニコしながら愉快に歩き回る、というところがあったんだけど、そこにひとつの真骨頂があった気がする。なんというか、福の神が、金色の雲の上を案内している、みたいな、神々しさがあった。

手を引かれている人たちも、なんだか嬉しそうだった。


2020年10月11日日曜日

いまのことをかけ(2) - 「あ、今が気持ちいいな」

少し焦っている。やっておきたいこと、があとからあとから、どんどん後ろに積み上がっているから。こういう状態は、「流れていない」から気持ちよくないのだ、と思うようになってきている。あ、いまやったら気持ちいいだろうな、というタイミング、ってあるね。しかし「でも…」が一言でもつくと、そこから先は、もういかに「やらないか」ということに思考が巡っている。「いまやったら気持ちいい」というタイミングを逃さないで、飛んできた蚊を潰すような勢いで、逡巡をしない、その場の反射神経に任せる、ということかもしれない。

この日記も、そういう感覚で、いま、本当は原稿に取りかかりたいのだけど、今書いておけば今日の分のノルマは達成だよな、と思って、流れが途切れるところまで書いている。空が少し青くなってきた。日がさしてきた。洗濯物が回る音がする。ここ数日雨で洗濯ができなかったが、今日こそ干したい。外で干すか、乾燥機にかけるか。いや、今日は、乾燥機だな。ものすごく気持ちよく晴れているけど、これに騙されちゃいけない。

昨日の夜は、きぞはるさん、ぼぶそんさん、ダイゴさん、僕の4人でオンラインで話した。話はずいぶん長くなり、僕が抜けたのは話し始めて4時間半ぐらい経ってからだった。

今日は、ギリヤーク尼崎さんをチラッと見に行こうとおもっている。90歳の身体で踊る姿を、見られる機会、はこれからそう多くないだろうと思う。

幸い天気もいいし。

そのまま公園で仕事をしてもいいかもね。でも、少し雨も降るらしい。やはり、中に入ろう。

こういうとき、判断基準が「楽しいかどうか」だけになればいいのだが、今は溜まっている仕事があてそうもいかない。つまり、「仕事をためない」ということがまず第一段階である、ということになる。でもそれも、流れができて、「あ、今が気持ちいいな」とわかったときに一気にやり終えてしまえば、溜まることがない、それが故に、次に流れが来たときも躊躇なく乗れる、ということなんだと思う。

2020年10月10日土曜日

いまのことをかけ(1) - よーいどん、とゴールテープが必要なのね

 今日は台風の日だというのに、これから二輪の検定だ。一本橋を渡っている最中に突風が吹いて落ちた場合、やっぱり僕の技術不足ということになるんだろうか。検定を受けたらもうお昼だけど、台風が激しくなるのはちょうどお昼過ぎだという。教習所で待機しないといけないのだろうか。

うーむ。大変だ。

メルマガの原稿が続々集まってきている。予想通りというか、それぞれの特徴が出ていて面白い。何より、「お題をもとに書く」というのがいいんだろうなと思う。ある程度の方向は決まっていないと、創造性っていうのは発揮しづらいものだよ。この「日記」も、ある意味ではお題である。「いま頭に浮かぶことを書け」というお題なのだ。それから、脱線はしていけばいい。「なんでも書いていいよ」っていうのはね、非常に書きにくいんである。「なんでもいい」というのは、実はとてもやりづらいものなんである。「なんでもよくない」お題が必要だ。これは、生きる上でもそうだ。

よーいどん、とゴールテープが必要なのね。

だからこの日記は当面、「いまのことをかけ」というお題でやっていこう。

今、というのは、まさに今、その、投稿画面を開いたその瞬間、ということである。

2020年10月9日金曜日

Good afternoon, good evening, and goodnight!

 僕はこれから、若い時にしか書けない文章を書くのだと思うのだけど、まあとにかく書いておく。あとで見返すと、はー、と恥ずかしい気分になっちゃうかもしれないし、あ、あとで、というのは、その、10年後とか、20年後ですよ。まぁ、とにかく書いておく、で、また、毎日投稿するつもりでいる。日記ですね。個人的な日記を書こうという気持ちです。たまたま、以前仲の良かった人のブログを覗きに行ったら、しっかり毎日書いていて、ああ、これは負けてられないね、と思ったのである。なので、この「考える雑記帳」に関しては、その「負けてられない」を満たすための場所になっていくだろう。

今まではFacebookにそのまんま投稿していたりしたけど、どうだろうね、それをやるべきかどうか。まぁ、こうやって書いてるだけでもある程度の役割は達成していて、別にそれはそれでいいんだけど、それだと「流れ」が発生しないので、流れのことを常に感じながら、やるべきことをその場で判断していこう。

今日の気づきは、朝、それなりに片付けをしてから机に向かうこと。どうしても家で働いていると、「何はともあれ、やらなくっちゃ」と思って、とりあえず机に向かっちゃうじゃないですか。あー、整理されてないなぁ、でも、それどころじゃないなぁ、って。あれ、もしそれが日常の中で習慣として根付いていることであれば、つまり茂木健一郎さんとか坂口恭平さんみたいに根付いている人にとっては「いきなり始めること」っていいんですけど、そうじゃなくて、その日その場の気分で、なんとなく焦って「何はともあれ手をつけよう」という、「覚悟のない」スタートにおいては、むしろ足を遅くさせるんですよね。だから学校の入学式とか、朝の会とか、なんだ、つまり「儀式」っていうのは、実は人間の身体にとって重要な意味を持っていて、心の向きを切り替えるための、つまりスムーズなコースインのための大事な役割があるんですね。

だから、儀式って、「効率」と真逆のように見えるけれども、実は全体的にはかなりクリティカルな意味を持っているんですね。

それで日々の習慣として、「とにかく俺はいきなり始めるんだ」という、それをやったら流れていくなー、という確信があってやってることなら、全然、汚くてもいいと思うんですよ、部屋が。なぜならもうその先が見えてるから。何が大事で何が大事じゃないか、自分でわかってるから。でも、ただただ「ああ、時間がない」みたいな気分で始める「いきなり」って、なんか、先が見えなくて不安ですね。だから結局遅くなるし、楽しくないし、詰まるし、不幸だし、ぼんやりした何かが憎いし、嫌なことばっかりなんですよ。

最終的には、いきなりトップスピードで入れるのがいいと思う。茂木さんみたいな。でも、それは、あくまで、そういう風にする、と自分で覚悟があって、それからのことですね。

いいですね。こういうことに気づく時というのは。

僕たちって、何か、日々いろんなことに気づいていますね。けど、もう、たちどころに忘れていきますね。それはもうとんでもない勢いで、気づいては忘れ、気づいては忘れていますね。たぶん僕は上記と同じようなことを、随所で、今までも書いてると思いますね。絶対。

しかし僕はもうそういう事ばっかり繰り返してきたので、(皆さんもきっとそうですよね)もう「今回こそは忘れないぞ」とか力まないようにしたほうがいいですよ、僕は。どうせ忘れるし、緊張感を伴うことって、長続きしないし。

日記は、なんか気付いたら、開いて書いてる、みたいな状態がいいね。

で、別に日記、起きたことを書くだけじゃなくていいしね。

とにかくその日、どこかのタイミングで、まあ、僕は今「後回しをやめよう」キャンペーンをやってるので、どんなに忙しくても朝が望ましいですけど、朝、書いて、何か書きたいこと書いてを発表して、もう恥ずかしげもなく、Facebookとかにも載せちゃって、どんどんみんなから反応をもらったり、みんなに読んでもらったり、僕が何を考えているのかまずは透明にしていくの、って、楽しい流れの始まりな気がしているのですね。

なぜならこれは、ひとつ、勇気を伴うこと、だからですね。これを毎日やってたら、たぶん、今まで開いてなかった扉が開くだろうね、という確信は、もうあります。なぜなら、これは「今までの自分だったらできなかったこと」だからです。

あとは、人が頭の中をずるずると毛糸を出すみたいに出してるのを見ると、なんか、それを読んだり見た人もそれをやりたくなるからです。まぁ、先に出した、人のブログを読んで自分も何かやりたくなったという、この日記のきっかけだって、同じことですね。

それは、リズムなんですね。他人がリズム良く楽器を叩いてるのを聞くと、自分も体を揺らしたり、楽器を持って参加したくなる、あの感じです。あの感じをやりたい。僕は、いつでも、広場に行ったらなんか太鼓をポカコポカコと陽気に叩いてる、そういう男でありたい。

アウトプットのことについてこのところ考えていたことを思い出した。ああ、そうか、これが野放図なアウトプットですね。この日記が。日々いろんなことを受け取っていて、それを別のものに変換して放出する機械な訳ですね僕は。そのことを忘れるとすぐ鬱っぽくなるんですね。まぁ、これは誰でもね。たまるから。だから、その実践の場としてここがあるんだ、そうかそうか。で、あわよくばみんなもそうやって、たまらないように流していこうぜ、って、誘ってるわけだ。ははぁ。そういうことね。

これこそ僕が今までやらなきゃいけないことだったんじゃないか、という気分ですね。ホントに。今までは、「えー、いいのかなぁ」とか「俺は人に影響を与える能力があるなんて思っちゃいけないんじゃないか」とか殻にこもった、楽しくない言葉を無意識で自分に対して発していたような気がするんですが、そういう憂慮する気持ちを超越した、その裏から始まる、トゥルーマンが扉を開けたあとのトゥルーマンになりたいな、ってことですね。29歳はそういう歳なんですね。

はい、ですから、僕は、扉を開けて振り返り、カメラ(とあなたの目)を見てこう言います。

Good morning, and in case I don't see ya, Good afternoon, good evening, and goodnight”

深い海に飛び込むような気分だね。

2020年9月28日月曜日

あーハイハイ才能ありますね

今から書くことは、別に特定の何か/誰かに対して思っていることではない。(本当に)

ただ、今はそういう気分だ、というだけ。


※※※


・「あーハイハイ、才能ありますね、よかったね」


っていう気分になることってあるね。

それはもう、何を見てもそう思っちゃうのだ。

一流のアーティストが、一流のミュージシャンと組んでます、とか、そういうのを見るだけで、「あーハイハイ」が始まっちゃう。動画を見ても、「ハイハイ、うまいですね、ハイハイ」である。もはや誰のことを考えても、自分よりも常識を知っていて、的確に動けて、集団に溶け込めて、必要な時に必要なことのできる人であるような気がしてしまう。それに対して自分は、なんだ、なんか、いちいち欠陥があるじゃないか、という気分になっちゃうのだ。


で、僕は知ってるんだけど、こんな気分になる原因は、寝不足、疲労、脱水、空腹のどれかである。絶対。絶対に。


「あー、俺は才能ないな」とか思い出すと、何にもアウトプットできなくなる。

しかしそうしているうちにやらなきゃいけないことがどんどん溜まっていって、さらに「あー、俺は計画力までないな」と余計なことでまで落ち込むようになる。


それを解決しようと思ったら、その問題や、精神自体を見つめすぎちゃいけない。

自分の身体の方をモニタリングしないといけない。

きっと、脱水、空腹、疲労、寝不足、どれかを感じる。あるいは全部を感じてる。


・でもこういう時って、自分のことを省みて、じっと耐えて何か研鑽するのに適している時期だったりもする。ちょっと落ち込んでいる時ぐらいの方が、自分が思っているよりもちょうど良かったりするんだよね。


・佐藤オオキさんが「やる気を上げるのではなくて、やる気を下げないように工夫している」というようなことを言っていた。これよ、これ。


・パソコンっていやーねえ、と思うこと、あるよね。

これでなんでもできてしまうから僕としては確かに助かってるんだけどね。

でも、バックライトで視覚を、ヘッドホンで聴覚をやたらに刺激して、それが、今日みたいな一年で最高の気候、みたいな日に、なんの意味があるものかと思うよ。俺はさっさと散歩に行って、ウクレレ弾いて、無事仕事をそっちのけにしたよ。こういうのはいいね。


・今日は久々に、「あーやってらんないな」と本気で思っている。

原因は正直、わからない。たぶん、溜まっている仕事が多いから、と、変な生活リズムで疲れているから。あと、何も生み出してない感じがするから。だから、せめてもの悪あがきで、こういう風に、気持ちについての文章を書いて、最低限の「生産量」を確保してる。人は生産してないとすぐ悲しくなって死んじゃうからね。

2020年6月30日火曜日

2020年6月29日

もっともっとテキストを吐き出していたいのだが、なんか全然そんな風になっていない。一説には、UBER eatsばかりやっているせいだ、という話がある。

モギケンは、常々「ToDoリストは頭の中に作れ」と言う。

「それじゃあ忘れちゃうじゃないか」と思うのだが、いや、だからこそ、覚えるのだろう、と思う。忘れちゃったら終いだ、と思っているから、必死で覚えておこうとするのだろう。

僕はそういう軽やかさで日課を遂行したいな。日課を、紙になんか書かずに、身につけようと思っているんだよ。

今1000日間のディアボロは、そういうような感覚が身についている。
もう終わるけど。

僕はもっと色を吐き出していたいと思っている。
別にインターネット上にあるからといって、それが高品質である必要もなし、誰が読むものでなくてもいい。
ただ、キャンバスに絵を描くように(俺キャンバスに絵を描いたことないけど)ただその時の気分が外に出ていればそれで良いじゃないの。

最近のこと箇条書き。

  • 最近、また坂口熱が止まらない。
  • 最近、‪Uber Eats‬が止まらない。そんなに生活がそれ一辺倒、という感じでもないのに、‪Uber Eats‬だけで月16万円稼いでいる。うーむ。
  • 最近、自分が何者であるのか、ということの認識がなんか違ってきている。

2020年6月27日土曜日

いきなり、フルスピードで創造性を発揮する

創造性を発揮することが人間には必要だ。
いきなり、フルスピードで創造性を発揮することが必要だ。
のんびりと計画して創造性を発揮する、というのは、勢いが足りない。
創造性を発揮するとは、それは、自分が支配したい箱庭を現出させるということである。

2020年6月18日木曜日

からだがわがまま

運動から1日をスタートさせたい。
いつもは、起きてなるべく頭がはっきりしている間に翻訳などの仕事を終わらせよう、と思う。
でも、なんだか、からだがわがままを言っていて、「俺を早く動かしてくれ」と言っているんだよね。

そっちの方を聞いてあげたいなと思う。

「やる気がない」をどう捉えるか


あー、やる気がないなぁ、と思う時はある。
よくある。
いざ仕事を始めても、眠いなぁ、と思うのである。

そこで是非とも、「やる気はないけどしゃっきりやっている」という状態をなんとか保てないか、ということを考えている。

気持ちはそこまでワクワクしていない。でも、しゃっきりした意識で物事を進めている。

まぁ、多分、夜よく眠ることが最良の手立てだと思う。

2020年5月20日水曜日

33.「コロナ感」のようなもの(てーてん観測・フィンランド語学習記)

久々にこっちにも書きます。
と言っても、それほど書くようなこともない。
ただ言えるのは、「コロナ感」のようなものは、個人レベルでは薄れてきたということ。最初に思っていたほど、devastatingな感じにはならないのかもなー、とも思い始めている。もちろん、自分では見えないところで社会は蝕まれていて、もうしばらくしたら、とんでもないことになっているのかもしれないし、一方で、デトックスみたいになって案外みんなスッキリしているのかもしれないし、とも思う。
にしても、「ポストコロナ」ということを聞くと、なんかそれは違うんじゃないかい、という気もする。個体の認識としてはそれも自然だと思うんだけど、集団として経験するのは、「ポストコロナ」か「ウィズコロナ」かと言ったら間違いなく「ウィズ」の方だと思う。つまり、コロナとは永遠にではないかもしれないが、ずーっと付き合っていくことになるのだろうと思う。それが何か要請してくるのならば、それに合わせて生きていくだけなんだろうな、と思う。

そして、最近はめっきり坂口さんにハマり直している。
完全なる私淑である。
でも、これがいいんだ。
長いこと僕には先生と呼べる人がいなかったからね。

※※※

しばらくフィンランド語学習は停滞中。申し訳程度に教科書をパラパラめくる。これだとダメなんだけど、イマイチ言葉の勉強の仕方、ってわからないんだよね。口を開いて機械的に何かを勉強したいんだけど、どうしたらいいかしら。
けど、まぁ、少し意地でやるのも大事だよなー、と思う。
しばらくただ受動的に流し込んでいるだけの時期にしようと思っている。
あと、5、6月を「基本的な文の型を覚える時期」「基礎単語をそのまんま覚える時期」にしようと思っている。
しかし、単語を原型で覚えても、フィンランド語は特に格変化が激しいから、素直にすぐ使えるようになる気がしないんだけど、まぁ、なんとか、ジグソーパズルを、端からではなくて、自分が好きなピースから埋めていくような感覚でやるしかないかな。

-iPadの設定をフィンランド語にした。
-Selkouutisetを1日3回聞くことにした。

2020年5月12日火曜日

32.面倒とはなんなのかな(てーてん観測・フィンランド語学習記)

そろそろまた、毎日書くのも面倒だねえと思っている。
そこで「面倒」とはなんなのかについて分析してみる。

面倒だ、というのは、つまり「これをやるよりももっと他やるべきことがあるはずだ」という焦りである、と僕は思う。
でも逆にいうと、これは「もっと報酬性を感じられることをしたいな」ということなのだ。
だからそれはまだ一応、「生産性」を志向しているのだ。
面倒だ、と無気力だ、とは違うのだ。
そして今僕は大概のことを「面倒だ」と思っているので、まだ希望があるだろうな、と思うのだ。
けど、その「面倒さ」というのは同時に、「短期間で報酬が欲しい」という欲も表してもいるのだ。
てね、まぁ、何をいっているんだかね。

相変わらずずーっと家にいる。
今日は翻訳をそれなりに。
サイバーセキュリティ一本と、もう一つの方。
昼、少し外に出てピンカーを読む。
夜、ふじくん家に呼び、『ストレンジャーシングス』を2本見る。

久々に、ビールと梅酒、飲む。

※※※
・selkouutisetの記事をフィンランド語と英語と日本語で出力して読み比べてみている。
確かに単語を読んで識別する能力は少し上がるかも。
でもちょっとハードルが高すぎるかなぁ。
調整していこう。記事一本に絞るとかね。
あんまり簡単すぎても燃えないんだよなー。

2020年5月11日月曜日

31.(てーてん観測・フィンランド語学習記)

今日もジャグリングのイベントに出演。
遠くから。
朝から仕事をして、備えようと思ってたんだけど、なんだか全然落ち着かなくて、うまく行かず。

でも、発表の方は、思っていたよりはうまくいったかな。
乗り越えていく、感じ。

終わってもなんだかぼーっとしてしまった。気が抜ける。

「自分の思い通りにならないこと」について考えている。
たとえば計画したことができない、だとか、人から思っていたような反応をもらえない、だとかね。


※※※
・ニューエクスプレスフィンランド語 第1-6課 復習
また、録画勉強法を再開。やっぱり、形になるやり方で勉強をしないと、ペースがつかめないのだ、と思った。
なので、そういう形を模索していく。

2020年5月10日日曜日

30.(てーてん観測・フィンランド語学習記)

朝は結局9時半だったね。
文字起こしの仕事をする。
14時から京都のジャグリングのイベントに出演、のようなことになっていたのでつなぐ。
途中15時からになり、機材トラブルで、始まったのは、15:37くらい。
終わったのは4時。
向こうの様子が見えないので、なんだか変な感じ。
そのあと藤くんくる。
キャベツニンニクパスタ食べる。
ストレンジャーシングスも一本だけみる。

あれえ、もうトルコ人のエゲを泊めてから一年近く経つのか。
http://mailbox.jugglingponte.com/2019/05/383.html

だが、一年、ってそういう単位を作っちゃうから長い、とかいうんで、まぁ要するに、時間がそれなりに経った、ということなんだよな。

※※※
またユーチューブの動画を見ているが、もう少し自分に関わりのある内容のものを見つけたいな、と思っている。

2020年5月9日土曜日

29.明日から8時に起きて(てーてん観測・フィンランド語学習記)

少し出かけた。
近所のカフェに行った。
けんとくんもいる。
お店の夫婦の娘さんと犬もいる。
サーモンとアボカドのパスタを食べて、幸せな時間だったなぁ。

部屋を掃除した。
明日、みみずくんの主催するピンとくるくる浄土というイベントに出演するからだ。
部屋の中から配信するので、どうも、綺麗にしとかないと落ち着かない。
だいぶスッキリした。

今日は机を部屋の中で移動させて仕事をしていた。
これ、効き目ある。
陽の当たる方に机を移動した。
普段は、陽の当たりづらい方に机がある。
なんかな、でもこの大きい机をいちいち動かすの、骨が折れるんだよな。
骨は折れるが、動かすことで掃除もできるし、机の上もリセットされるし、まぁこれがいいのかもしれぬ。
骨は折ったほうがいいってことかな。

そして、ちょっと今の所日課が変わりつつあるんだよな。
これをまた、修正しなければ。うむ、うむ。
明日から8時に起きて、朝はトーストとコーヒーを摂って、朝は風呂に入って英語でサピエンスを20分間読んで、それから9時に仕事を始めて、14時までには終わらせよう。そうしよう。

※※※
今日からしばらく、一週間の間に取り組むYouTubeのビデオを一本決めて、フィンランド語に関してはそれを見たり書き写したり真似したりして、表現の仕方を練習することにする。
車はどんどん運転しないとね。

今見てるのは、これ。
お姉さんがゆっくり話してくれます。
https://www.youtube.com/watch?v=cgzBhqnt9Qo

2020年5月8日金曜日

28.文法書と実用は、免許と車(てーてん観測・フィンランド語学習記)

2020年5月6日(昨日)の話。

雷、すごかったな。
夜になって急にめちゃくちゃに雷が鳴った。
人生でこれほどの嵐は体験したことがない。
ちょうどふじくんが一緒にいて、勉強を終えて『ストレンジャー・シングス』を見ていたのだが、なんだかおどろおどろしさがマッチしていた。

2020年5月7日の話。

打って変わってむちゃくちゃに晴れていた。
洗濯物がよく乾いた。
訳あって少し出かける。
相変わらず、ブラック・ミラーとリック・アンド・モーティを見ている。
リックアンドモーティはひどいアニメだな。
まったく。
褒め言葉である。


※※※
最近は、yleのかんたんなニュースをGoogle翻訳で英訳して並置して読んでいる。
まぁでも、もう少し、実戦に近い練習をしようかな。
文法書と実用は、免許と車に例えるとちょうどいいかも。

2020年5月6日水曜日

27. ナスがうまい。(てーてん観測・フィンランド語学習記)


昨日遅かったので起きたのも遅かった。
リセットするつもりで風呂に入る。
朝はパン。ファミマで買ってくる。
エスプレッソマシンの調子が良い。

ひるごはん、野菜とひき肉を炒める。
野菜たっぷり。ナスがうまい。

夜はキーマを作る。

今日もまたやたらにNetflixを観た。
本は、『マインド・ザ・ギャップ! 日本とイギリスの〈すきま〉』 (NHK出版新書)を読む。
注文したの、4月13日だった。
一ヶ月近くかかりようやく手をつけたんだな。
ほとんど忘れていたからな。
読み始めたら、2時間くらいで読んでしまった。

現在翻訳中。

※※※
今日はあんまりフィンランド語触れず。
なにかやることを具体的にしないといかんな。
トレーニングブックにしよう、
というわけで今日寝る前に気合で一課進める。

2020年5月5日火曜日

26. そして生活はつづく(てーてん観測・フィンランド語学習記)

日記も少しお休みした。

今日はNETFLIXで映像をたくさん観た。
Black Mirror を4エピソード、Rick and Morty を4エピソード観た。
どちらも最高に面白い。
5年もやった少林寺拳法のことを思い出して、映像を見た。
本も読んだ。
『そして生活はつづく』と『日本の弓術』だ。『ホモ・デウス』も進めた。面白い。
800pある"THE BETTER ANGELS FOR OUR NATURE"も読んでる。本は一日2、3冊読むぐらいが精神安定上いい。

身体をすっぽかして、頭の刺激になりそうなものばかりやたらに摂取してる。
時おり罪悪感を感じる。
でもこういうのを「堕落」だとか感じないで生きるのが一番健康にいいんだろう。
きついなーと思ったら、自分に対してぶすっとして、無愛想で、無関心になっていいよね、別に。好きなだけセルフ不良やったって、いいよね。
本読んで映画見てりゃいい。
自虐とか他人への攻撃とかしてもいいことない。
怒りは怒りのままその当人に表明しても意味ない。
作り出すことで変換する。
とにかく、作ったり読んだり観たりするのがいい。創造行為は世界への反乱なのダ。
ツイッターやってもしょうがないし、フェイスブック下まで見てもしょうがない。

手に負えないもんは、手に負えませーん、って素直にスルーするー。
本当にやんなきゃいけないことなんて、ほとんどない。
安い蕎麦屋の天ぷらの中身くらいしかないんじゃなイカ。
作りたいものを作り、読みたいものを読み、聴きたいものを聴き、観たいものを観て。
それでも大事だと思うことは勝手にやってる。

だんだんニュースを見るのが億劫になってきた。どうせまた次元の違う、滑稽な大人に瞬刻腹を立てたのち、明るい気分になるまで時間を無駄にしなきゃいけないんだろ。
距離感の程よい、新聞を買っている。
だから正直現在、あんまり世の中の、特に政治のナウい趨勢に詳しくない。
でも全然今のところ困ってない。

地震速報とか、神奈川県知事からのメッセージ音とか、この音の精神的負担は大きい。
僕は怖がりなので、一旦悲惨な光景が頭をよぎると、人一倍最悪の事態を想定してしまう。毎回、僕はこれで死ぬかもしれない、と一度覚悟を決める。今日も一回死んだ。窓を勢いよく開け、窓際に腰掛け、次は何がくる、と靴下履きながら身構えてたよ。

インターネット、ちょっと離れて思った。

誰からも「そうそう、そのままでいいんだよ」とは、言われたくない。一貫性も求められたくない。慰められたくもなく、怒りを向けられたくもなく、愚か者を見たくもなく、生産性の高い素敵な時間の過ごし方の見本を見たくもなく、「こんな時だからこそ」とか勝手に落ちてもない気分を努めて明るくしようとしてくる言葉も見たくなく、「ここはみんなでひとつになって」とかnaïveな発言も見たくなく、「本当に大切なこと」なんか他人に教えて欲しくなく、思いやりを装った、その実は知性の高さの競い合いにも参加したくない。
「みんな気づいてないみたいだけど、実は僕は賢いので、これに気づいていてですね…」っていう高慢な語り口にどうしても見えてしまう。顔と声を奪われた、編集を経ていないインターネット上の言葉は。「共感」や「優しさ」や「思いやり」に見せかけた、立場の差の証明なんじゃないか、と感じるんだ。

…だって自分が書いててそう思うんだもの。

しかし僕と同じように、時々そういう反発的な気分になってる人が書く、マイナスのオーラも入れたくない。

うーん。つまり、「悪い『気』」を摂取したくない、という問題なのかもしれぬ。


全然関係ないが、昨日若い女性二人組の仏教系の宗教の人たちがドアこんこん叩いて勧誘にきた。
「コロナは日蓮さまがメッセージを具現化した」とか、なんとか、お経唱えると全部良くなる、とかおっしゃっていたが、あの人たち自身は、どこまでその話の論理的な妥当性を信じてるんだ?知性を全部封印したようなおとぎ話レベルの言説を、平気な顔でひょうひょうと言えるのはなぜなんだ?
僕だったら絶対あんなの、ちょっとコモンセンスからかけ離れすぎてて、真顔で言えないよ(笑)
逆に、僕にはない特殊な条件を持ってるんだろう。
まぁ、サークル活動みたいなもんで、一応、そういう話だ、っていうことにすることで、ある共同体の人たちと一緒に居られる資格が得られて、それがあの人たちにとっての癒しなんだと思う。だって、「真の解答があるんだけど、私はまだそれにたどり着いてないだけ、一刻も早く、そのdefinitive answerにたどり着きたい」っていう気分は、悪いもんじゃないだろからね。

でも俺は、「真の解答がある」ことを担保として、それを知る過程を共に過ごし、研鑽する共同体があったとしたって、そんなことするぐらいなら、自分の手で、一人で闘うよ。永遠にわからないし到達しないから苦しい、っていう方を、選ぶよ。

※※※
フィンランド語は癒しなのでやってる。
まぁ、癒しじゃなかったら語学なんてやる必要ないかな。
お気に入りの言葉を聞き、読み、知らない世界に思いを馳せることが癒しじゃないんなら、多分それは語学をやるときじゃない。
もっと楽しいことは他にある。

今日はセルコウーティセットという、外国人向けの簡単なニュースのサイトを読んだり見たり聞いたりした。
https://yle.fi/uutiset/osasto/selkouutiset/

Uutiset selkosuomeksi

簡単なフィンランド語のニュース、ということかな。
いいなあ、いいなあ。フィンランド語は、いいな。
僕が今一番癒される言語である。

2020年5月1日金曜日

25.アメリカの大学生になったつもりで(てーてん観測・フィンランド語学習記)

今日もそれなりに早く起きる。
日銭の仕事なし。
思い立って、天気もいいので、家の周りを歩きに歩いた。
隣町まで行った。
ほとんど初夏のような陽気で、家の周りには林もあって、その中を歩くと草木の匂いがほんのりと香り、実に気持ちがいい。

エスプレッソマシン用のカプセルが初めて届く。
美味しい。
カフェにも行けないので、エスプレッソが家で飲めるのは嬉しい。
カプセルは一個80円で、結構高いのだが、まぁ、外にふらふら出ていた頃、カフェに行ったら、一杯200円のベローチェのドリップコーヒーを、安い安いと喜んでいたのだから、まぁいいよな。

そして、スティーブン・ピンカーの、"BETTER ANGELS OF OUR NATURE - WHY VIOLENCE HAS DECLINED"という本が届く。
Twitterで紹介されているのを読み、これは一読せねば、と思った。
本当は邦訳で読むつもりだったが、なんだか5000円ぐらいと値が張ったので、原書を探してみたら、新品で2000円しなかったため、こちらを購入。
しかし本文およそ800p、脚注だけでも100pあり、一体読み終わることができるんだろうか。
まぁ、アメリカの大学生になったつもりで、いっぱい読むかな。





※※※
・ニューエクスプレスフィンランド語 第19課
いよいよ次で終わる。
これを書いてる時点ではやっていないのだが。
毎日やっている。自分でもとても意外だ。
コロナさまさま、とも言える。

2020年4月30日木曜日

24.そしてどんどん使いたい(てーてん観測・フィンランド語学習記)

目覚ましをセットせずに寝ている。
これが、気持ちいい。
そして、意外に早く起きる。

いきなり思い立って、コーヒーマシンをネットで探す。
近所に買い手を探している人がいたので、連絡する。
すぐさま交渉が成立し、取りに行った。
思い立ってから3 時間後には手に入っていた。
ううむ。
こういうインターネットは、いいな。

外でもジャグリング、ちょっと。
風が強かった。
天気、よかった。

コロナ禍が終わるのは先の話になるとは思うが、でも、少しずつ、なんというか、アダプトしてきている感じは、ある。
慢心してるのかも。

※※※
・ニューエクスプレスフィンランド語 第18課
もうすぐ終わるなぁ。
比較級、最上級をやる。うーむ。
まぁ、英語のスピードに比べたらむちゃくちゃ早いよな。
早く一通り終わらせて、復習したいな。
そしてどんどん使いたい。

23.しょうもない、益にもならない(てーてん観測・フィンランド語学習記)

朝公園に行ってジャグリングする。
一度帰って、風呂に入る。
ふじくんが来るも、すぐに公園に向かう。
ホアさんもちょうど出てきたので、ホアさんも一緒に行く。
少しジャグリングをする。
家に帰る。
英語と、イタリア語をやる。
少しゲームをする。
少しドラマを見る。
ふじくん、帰る。
なんだか、また、YouTubeとFacebookでしょうもない、益にもならない映像を延々と見てしまう。


※※※
・ニューエクスプレスフィンランド語 第17課
主に、täytyyのこと。
フィン・ウゴル語族と全然関連づけられる情報がないので、なかなかすっと頭に入ってこないが(今日も、ティエトコネ…ティエトコネってなんだっけ…と音だけ思い出せる状態になった。ティエトコネはパソコンだった。)まぁ、それがむしろ楽しい。フランス語とかだと、なんとなく意味の予想がついてしまうので、新鮮味が薄いし、本当に一から言語を学んでいる気がしないんだよね。

2020年4月28日火曜日

22.人間の自然な動き方って(てーてん観測・フィンランド語学習記)

昨日翻訳をダラダラとやっていたので、寝たのが朝8時だった。
12時まで寝た。
起きたらご飯(トースト)を食べて、風呂に入り、(朝風呂『サピエンス』)ストレッチ、10分だけやる。
お腹周りの肉が目に見えてついてきた。
今日は日銭稼ぎなし。

手紙を出す用事があったので、道路を挟んで向かい側のポストに行こうと思った。
しかし道路を渡るのが不意に嫌になり、別の方向に歩きだした。

歩いて歩いて、今まで徒歩で行ったことのないようなところにたどり着き、やがてローソンが見えてきた。ローソンの中にはポストがある。そこで投函。
すんなり帰らず、歩き続けることにした。
ローソンの向かいには竹林が見える。
そちらの方へ。

人間の自然な動き方っていうのはやっぱりこっちだ。
計画して、準備を整えて、さぁ出発、という「ノリ」は似合わない。
「歩きたい」と思うことが即行動であるがいい。
つまり「歩きたい」と思った時には、すでに歩いている。

今まで知らなかったのだが、自宅のすぐ近くには、たくさんの畑があった。
ほーほけきょ、とウグイスも鳴いて、その声は澄み切って遠くまで響いていた。

そのまま山を上がっていくと、ふじくんの家があった。
そうか、ここに住んでいるのかぁ、と思った。

一度帰宅し、ジャグリング道具を持って公園に行った。
1時間ちょっとぐらい、ジャグリングをした。
動画も何も撮らずにジャグリングをした。
好きなだけ、好きなように動く。
これ以上に楽しいジャグリングの楽しみ方もない。
動画なんか撮るのがいけないんだ。

※※※
・ニューエクスプレスフィンランド語 第16課
まだやってません。これを書き終えたら動画を撮るつもり。
今日Facebookで、ラウラさんというフィンランド人の知り合いが歌をシェアしてくれた。その流れで、フィンランド語でメッセージを送る。初めてのフィンランド語でのちゃんとした会話である。まぁ、あとで見返したら「あちゃー」となるのは目に見えているんだけど、それはそれで面白いだろうと思ってここに残しておく。

とにかく、「フィンランド人がこういう時にどういうことを言うのか」というサンプルが無数に必要だ。僕がしたいのは、単純に「日本語でならこう言う」ということを「訳す」作業ではないのだ。
まだ一ヶ月も経ってないから、焦らず、でも、毎日少しずつ。

21.自分が読者になる時(てーてん観測・フィンランド語学習記)

色々書こうと思ったのに忘れてしまったなぁ。
久々に「ジャグリングの郵便箱」を見返したら、旅行の最中につけていた日記、その時その場所にいないと書けないことを書いていた。
手前味噌だけどさ。

第162回 【フィンランド編突入】29/45日目 ヨーロッパ・ジャグリングの旅 2018

ここから続くフィンランド編を読んだ。
文章を書いていて注目すべきタイミングのひとつは、自分が読者になる時、でもある。

今日は少し事情があって、知り合いの引越しを手伝いに行ったので久々に遠出をした。
思っていたよりは人がいた。
しかし電車に乗る時の距離の取り方が普段と違う。

これが"元に戻る"っていうのはどういう時なんだろう。

昼に東京に行って、夕方には戻ってきた。
帰るなりすぐにシャワーを浴びた。
久しぶりにカップ麺を食べた。

しばらく仕事をしたりしていたが、少し疲れて寝た。

眼が覚めると、炊いておいたご飯は少し冷めており、納豆と卵と一緒に漫然と食べた。

なにをやっているんだかはっきりしないまま、今、朝の5時である。

※※※
・ニューエクスプレスフィンランド語 第15課
現在完了の作り方。olla+過去分詞。過去分詞に単数、複数、があるというのがやや新しいが、考えようによってはイタリア語にもあるし、むしろイタリア語は男女単複考えれば4つある。というか、やっぱりこれはちょっと形容詞のようにして捉える方がより応用が利く気がするんだよな。



2020年4月27日月曜日

20.まだまだ先は長い(てーてん観測・フィンランド語学習記)

昨日のことを書いている。
朝8時起き。
朝風呂サピエンス。
『読書の日記』も少しずつ読み始めているのだが、野球の話になるとそこをすっ飛ばす。
僕は野球の話が苦手なんだな、と思った。
実に。
「まぁこれぐらいはみんな知ってるよね」というようなむじゃきな疎外を感じるからだ。
サッカーの話でもややそれを感じるが、やはり日本にいると、野球の方がより疎外感を感じる。
そしてその疎外をしてくる主体が、結構大きいのだ。
それが嫌なんだろうな。
昔から集団スポーツは苦手だ。

本自体は、よい。

なんだか1日イライラしていたかもしれない。
夜、カールスバーグ飲む。

※※※
・ニューエクスプレスフィンランド語 第14課
ようやく過去形。
まだまだ先は長い。

2020年4月26日日曜日

19. 走っている人(定点観測・フィンランド語学習記)

朝、8時おき。

今日は久しぶりに外を走った。
唐突に走り出したくなったので、走った。
駅の向こうの公園まで行った。
20分ぐらいで着いた。
土曜日だということもあり、人がたくさんいた。
久しぶりにこれほどの人数の人間を見た。
走っている人も多かった。

公園はとてつもなく大きいのだが、なんだか窮屈にも感じた。

今日はぜんぜんうまくいかない日だったな。
早く寝て、早く起きたいよ。
これをやらないと気持ち悪い、ということを全て午前中にでもやっちゃえばいいんだよね。
明日からは頑張ってね。

※※※
・ニューエクスプレスフィンランド語 第13課

少しマンネリ化してきた。そう、ここが踏ん張り時である。
ここで辞めてしまう原因、一番は「やる気の出ない自分に嫌気がさしてしまう」ことだと思う。やる気が出ないことそのものではないのだ。
やる気、というのがあってもなくてもできることに絞って毎日続けるのがいい。
やる気を出さないとできないようなことは、まいにち続くわきゃないと思う。
続けている人がいたらすごいよ。
でも、きっと心に大変な負担を強いるんじゃないかと思うよ。

文法事項としては、目的語っていつも分格(パルティティーヴィ)なわけじゃないんだ、とか、だんだんややこしくなってきた。
でも、独学でここまで一つの言語を理解したのってちょっと初めてなので、すごく嬉しいんだ。俺は緻密な言語学習がとことん、得意じゃないんだ。集中力が本当にないから。でも、今回は、すごくうまくいっている。いいぞいいぞ。
それぞれの格の持つオーラを、英語の前置詞みたいに人に説明できるぐらい理解したいな。
油断しないように、ただ伸びをするように、毎日楽に、平然と、いや、漫然とでいい、やり忘れないのがいちばん。

動詞現在形の活用はほんの少し慣れてきた。
覚えよう覚えようと頑張らなくても、huone(部屋)、kirja(本)、kirje(手紙)
、kieli(言葉)、syödä(食べる)、juoda(飲む)、何回も出てくるものは、今こうやってランダムに思い出すだけでもするする出てくる。 joulupukki(サンタクロース)とかね。だから、やはり構文を分析し、口に出して、シチュエーションを想像して、自分でそらで組み立ててみて、と毎日一緒に時間を過ごしていると、忘れられなくなるもんだよな、と思っている。


PS:最近柔軟もしている。

2020年4月24日金曜日

18.ねこの日(定点観測・フィンランド語学習記)

8時起き。
今日は割とすんなり起きる。
枕元にあるパソコンをすぐに開いて翻訳の仕事チェック。
一本増えてる。今日中に3本終わらせよう。とか、言っておきながら、まぁ、いつも通り、思ったようには進まないんだ。なんでだろうね。

昼ごはんにパスタを食べ、実家から届いたパスタソースを使い切る。まだ麺類はいっぱい残っている。

村上春樹の新刊が今日発売であった、と思い出し、家からそれほど遠くない「生活綴方」という書店まで原付を走らす。その向かいの石堂書店で村上春樹の新刊を買い、生活綴方では、fuzkueの店長の日記第一弾を買う。この日記をつけるようになったきっかけを作った人。
とんぼ返りですぐに家に帰ってこようと思った。
原付を停めてある公園に差し掛かった時に、いくつもあるベンチの前で、座っている人たちみんなから見えるように、こ汚い猫がぶすっと佇んでいた。近づいたら、表情を変えずに「にゃー」とか言うので、思わず惹かれて、そのうちのベンチのひとつに座った。天気もいいし、子供達の遊ぶ声が響いているし、汚い猫は気持ちよさそうに目を閉じているし、カラスが静かに首を傾げているし、俺も本を読もう、と思って、『猫を棄てる』を半分読んだ。
野鳩が、ててーっぽっぽーと鳴き、藻だらけのプールに浮かぶ鴨がクワァ、クワァ、と鳴きながら追いかけあい、仲の良さそうな人間の兄弟が楽しそうに通り過ぎ、いつの間にか移動していた猫と、もう一匹の違うこ汚い猫が、適度に離れながら日向に寝転がり、それに気をとめた男女が木の枝で注意を引こうとしていた。
しばらくして、一週間もたずに切らしてしまったコーヒー豆のことを思い出し(家にばかりいるのでコーヒーばかり飲んじゃうんだ)電話で注文をして、豆屋まで走って受け取りに行った。

帰ってきて本の続きを読み、少し寝た。
ハッと目が覚めたら、とりつかれたようにラーメンを茹でるためのお湯を沸かしながら、今、これを書いている。



※※※
・ニューエクスプレスフィンランド語 第12課
まだこれを書いてる時点ではやってないんだけど、
なんか、フィンランド人の友達に、発音を確かめてもらおうかな。
自分のäとöの発音が、正しいのかまだわからない。
まぁ概ね通じるくらいの発音にはなってると思うのだが。
どうも、ネイティブがしゃべっているのを映像で聞いても、どっちがどっちだかわからんのだ。


17.続けると決めたことを、頑として続けること。(定点観測・フィンランド語学習記)

9時ごろ起きる。
朝風呂『Sapiens』は習慣になりつつある。4日目?5日目?
翻訳の仕事ようやく。一本終わらす。別の仕事も来ている。これも一つ終わらす。
また各一本残ってる。
洗濯する。
ジャグリングと語学をやって、ご飯作っていると本当にあっという間に時間が過ぎる。
まぁ、これぐらいが限界なんだろ。
ただこれを潰えさせないこと。
続けると決めたことを、頑として続けること。

※※※

僕の好きなポリグロットのloki2504の動画を見た。
「ある言語の入門書を2,3冊、毎日2,30分触れて、1年間ぐらい。それでだいたい100-150時間ぐらい勉強したら、一度おやすみを入れても大丈夫、もうその言語の基本的なことは忘れることはないから」と言っていた。
嬉しくなる。この感じは、僕の実感とも一致している。
現在1日1時間ほどかけてフィンランド語に向き合っていて、これをだいたい3ヶ月続けて100時間ぐらいに達して、基本的なことが学べればいいな、と思っていた。

言葉を普通に話せるようになりたいのならば、毎日やったらいい。
これ、言うは易しだが、実際にやるのは、相当頑固な姿勢が必要である。
なんかこう、教育の現場ではこういうことをもっと言っていいと思う。
「どんなに非効率なやり方をしていようと毎日やれば身につきますが、どんなに効率的なやり方をしたとしても、毎日やらなかったら身につかないと思ってください」
ぐらい強く言ってもいい。
それくらい、毎日やることっていうのは大事だ。今、実感している。
頑固に続けようね。

1年で5ボールを習得しようと思ったら、それぐらい平気でやるもんな。
マテリアルは問わないから、とにかくやることを決めて、解ろうが解るまいが、とにかく続けなきゃね。

※※※
・ニューエクスプレスフィンランド語 第11課
・素敵なYouTubeチャンネルを見つける

こんな素敵なビデオを見つけた。
https://www.youtube.com/watch?v=UgiGp-GqJKA&t=18s

生のフィンランド語を聴きながら、真似してみるのが楽しい。
喋れるようになったら、いずれこれぐらいのスピードで喋るんだもんね、とか、結局、言葉というのは「訳す」行為ではなくて、「その文化のこういうシチュエーションにおいてこの音の連なりを発する人がいる」と言う何百何千何万というモデルケースを身体的に通過させて、その中から学ぶしかないと思う。
もちろん文法もやるし、単語は意識して覚えるし、知性を働かせて、少し効率を良くするところは効率を良くするわけだが、でも本質的にやるべきことは一つである。
「一つでも多くの実例を身体に浸透させること」である。それ以外に、パターン学習を達成する方法って、ない。

そして僕はこういう身体的な快楽があるから、語学をやってる。

2020年4月23日木曜日

16.いつまでも続くまち歩き(定点観測・フィンランド語学習記)

朝8時半起き。
日銭稼ぎ仕事なし。
朝風呂『Sapiens』読む。
昼までにジャグリング、英語をやる。
ふじくんとイタリア語少し。動詞の活用だけやる。30分くらい。
若干の睡眠不足からか、よしやるぞ、というはっきりとした気合が出ない。
こういう日も含めてどのように続けていくかが大事だよね。
自分を責めたらいけません。
瞬発的な集中力を常に発揮している人なんてそうそういない。
(いや、一人だけ知ってるが、でもその人だってきっとダラダラしてる時はある)
甘やかしながら、とにかく街を歩くみたいに、続けること。

じーっと、一点を見つめるのではなく、「その辺り」をリラックスして眺めること。

充実していた、と感じるのは、やっぱり、自分が眺めたいと思っているところをたくさん眺められていた時だ。
それが"仕事"であろうが、そうでない時間であろうが。

※※※

・ニューエクスプレスフィンランド語 第10課
いよいよ半分。
・トレーニングブック kappae yksi. ollaの否定を身体で覚えたく。

「ドリルはやる必要がない」という人もいる。
僕は、ドリルは役に立つと思う。ただ、それだけやればどんどん喋れるようになっていく、というのが誤謬であるだけ。
完璧にしなくていいから、決まった練習をして、その上で、フリースタイルをやればいいと思う。

やっぱり大事なのは、「いつまでも続ける」ということだと思う。

2020年4月21日火曜日

味噌キュウリと豆苗のブーケ(定点観測・フィンランド語学習記)

8時起き。
また、朝風呂で英語を読む。
また仕事がない。
心持ち前よりも仕事が減っている感じ。
ジャグリング配信。
朝はトーストだったが昼になってもお腹が空かないので、キュウリに味噌をつけて食べただけ。
もう気がつけば3週間町から出ていない。

また、缶コーヒーを2つ持って隣人のベトナム人、ホアさんがやってくる。
「私は、高いところが好き」だそうです。
以前「草があるの、知ってる?」というので、なんのことだろう、と思ったら、来てきて、とアパートの反対側に移動し、ホアさんの部屋の窓際の室外機の上に置いてある豆苗を見せてくれた。ペットボトルをくりぬいて、中に豆苗を入れ、生やしているのだ。
「こうすれば、また食べられるね」
と嬉しそうにしていた。
1週間経った今、豆苗はまるでブーケのように生い茂っていて、青々としている。
絶対忘れてる。

本を一冊読み終わった。また、コリン・ジョイスの本。面白い。
肉屋に行ったがしまっており(一年以上ここに住んでいるが、いまだに定休日を覚えていない。か、きん、か、きん…)別の鶏肉屋さんで鶏カツを買う。
メガ盛りカレーと1合の米を食べた。
お腹いっぱい。食べ過ぎた。
午後5時半に大盛りカレーとよなよなエール。

暖かかった。

※※※
【フィンランド語】
・ニューエクスプレスフィンランド語 第9課
・Quizlet 打ち込み(第3,4課)

いつもどおりニューエクスプレスを進める。
いよいよ、「〜を持っている」という表現に。格変化もどんどんしていく。そうこなくちゃね。ある程度複雑なことじゃなきゃ、学ぶ喜びもないってもんである。地道に覚えていく。何しろ、新しい言語の体系を丸々頭に入れようというのだから、1、2年じゃ身体感覚で身につかないのは当たり前である。ひとまず核となる部分を半年くらいで身に付けたい気持ちはあるが、そう上手くはいかない。続けることだけ考えて、忙しくなっても続けられるように呼吸を整えておく。焦らず、焦らず。
合計1時間半ぐらいやっていたかな。
目安として一日1時間はやって、3ヶ月後に、100時間やっているという状態にしたい。
フランス語検定なんかを基準にすれば、4級の、「日常のフランス語」が身についている状態。個人的感覚とも一致する。





【番外編・英語】
英語の発音のビデオを見ながら、改めて学んでいる。
こんなに意識して発音を勉強したこと、なかった。
知れば知るほど、なんで逆に今までこんな基本的なことを学ばずにやってきたのか不思議である。
もうだいぶ前に話題になった本だが、"Sapiens"をお風呂で声に出して読んでいる。
正直なところ、スピーキングの練習をするならこういう学術的な本では会話には効果が相対的に薄いが、今の目的は、徹底してまず本自体を「読む」こと、そして自分がいかに単語や言い回し、構文を知らないかを自覚するためなので、それでよい。
「英語の知性の底上げ」をしたいと思っている。




2020年4月20日月曜日

深呼吸のリズムで(てーてん観測・フィンランド語学習記)

今日も遅く起きた。
まあ、早く起きる必要もないのだが。
珍しく日銭稼ぎの仕事がなかったので、目一杯語学に時間を費やした。
お風呂を沸かして浴槽で延々と英語の本を読んだ。(読み上げた。)
上がったらブランチを食べて、それから毎日のタスクとして決めたことに取り掛かる。
英語、フィンランド語、ジャグリング、イタリア語。

今日もジャグリングとイタリア語で配信を二回。

今、英語を一緒にやっている「ロイやる水曜日」というグループがあって、みんなでわいわい教科書の例文を覚えている。
そのグループとは別で、もっと広く、僕と英語のマラソンを一緒に走ってくれる人を集められるような仕組みについて考えている。一度連絡した人たちを少々ほったらかしにしてしまっているのだが、もうすぐ、始められそう。
最初は、とりあえずこの自宅にいる時間を利用して大勢でオンライン通話とか、と思っていたのだが、語学のキモは、いつまでもしつこく、毎日365日やり続けることなんだ、と、禁酒とか禁煙みたいな(笑)風に思えてきたので、キャンペーンのように突発的にやるのではなく、深呼吸のリズムで、楽しいと思いながら、自分がやりたい目標に合わせた自分のやり方と量で、1年、2年、3年、10年、と英語と付き合っていけるペースメーカーを作り出したい、と思ったのだ。
僕が今思い描いているやり方であれば、何人でも、いつからでも参加できると思う。

そんな日。

あったかくなったり、寒くなったりだ。

やっぱり少し世界は変わったな、と僕は落ち着いて思っている。

※※※
・ニューエクスプレスフィンランド語 第8課
・フィンランド語トレーニングブック kappale 1

ここ8日間、教科書の内容の"解説"をビデオに向かって語っている。一応仲間内でシェアするためにYouTubeにあげてはいるのだが、一般非公開にしているので誰にもみられない。このやり方が非常に僕には効果的だ。
ただし解説といっても、予習をしてしっかり頭に叩き込んでから満を持してやるのではない。むしろその逆。
やろうと思ったらいきなり始める。iPadを用意し、即座にビデオボタンを押し、教科書をパッと開き、語り始める。
およそ語っている内容は稚拙である。
スキットを一文ずつ読み上げて、どういう構造になっているのか確認する。
「こういうことかな」と勝手な予想で言っていることがいっぱいあって、今見返しても、すでに間違いだらけであることがわかる。
ちゃんとフィンランド語を修めている人からしたらおよそ笑っちゃうような内容だと思うんだけど、それでも、その間違いを堂々と言うことで、後でそれがそうじゃなかった、とわかった時によく記憶に残る。

今まで何度もフィンランド語には挑戦してきたけど、毎回、第3課くらいまでいくとストップしてしまっていた。それに、ロクに理解もしていなかった。
しかし、今回はとにかく「終わらせる」ことを眼目にしている。
少しわからない箇所があっても進めて、覚えきっていないことも全く気にせずにとりあえず終わらせる。
そして、また同じものをもう一回、二回、とやっていこう、という気でいる。

「覚えられない」と悲観的になることは多々あるのだが、こうしてゆっくりと着実に続ける毎日を初めて送ってみて、少し期待が膨らんでいる。
「頭に叩き込む」というのはやめた方がいいな、と思った。
やる気と気合があれば覚えられる、なんでも集中したら2、3日で覚えるもんだ、それができなければダメだという風に思っちゃうもんね。
本来学習というのは、長く長く、1年、2年とかけて、「まだまだ覚えていない」時間をたくさん過ごして、ふと気がついたら、忘れられなくなっていた、というプロセスをたどるのだと思う。
受験勉強の内容なんか、ことによっては僕はまるで覚えちゃいない。
あのころの僕は、「叩き込もう」としていただろう。
それじゃ、ダメなのだ。

フィンランド語教材の新しい本が届いた。
『フィンランド語トレーニングブック』(白水社)という。
この本は、実を言えば発行された当時から(2013年)ずっと気になっていた。
大学一年生のときからずっと外国語の世界が好きだったので、学校帰りに東京駅の丸善に立ち寄っては、語学書のコーナーに行って背表紙を見て、気になった本は開いてみて、最初の数ページを読んで旅行に行ったような気分になっていたのだ。その中の一冊に、これもあった。

7年経った今、フィンランド語学習本格開始から10日目にして(2020/4/11-)ちょっと気が早いような気もするけれども、もっと演習量を増やしたくなったので、中古で買った。(もちろん、バリューブックスです。)

今は、初歩の文法が、頭の中でぐるぐると形を伴わずに渦巻いている感じ。
これを凝固させるために、ちょびちょびと学んでいこうと思う。

・『フィンランド語トレーニングブック』(白水社)
・『多数決を疑う――社会的選択理論とは何か 』(岩波新書)


やるなら没頭(てーてん観測・フィンランド語学習記)

まだ起きている。
今は午前4時40分。
昨日の朝は、11時に目覚めた。
本当は11時に父親が僕の家を訪ねて、必要な物資を届けてくれるところを、うっかりグースカ寝てしまっていた。
母がなんどもなんども電話をかけてきていて、メールも何通も送ってきていた。
父親がゴンゴン窓を叩く音で目覚めた。
マスクをくれないか、と頼んだだけだったのだが、大きな紙袋に山盛りのご飯やタオルやなんやらを3袋もくれた。
ありがたいね。

さらっとお礼を言うと父は「変わりないか」とだけ聞いて、ものの1分も会話せず、「接触を避けて」手を振り、帰っていった。
父が去ったあとに母親に電話したら、ものすごく心配したらしく、少し涙声になっていた。
ごめんごめん。
母は心配性なのだ。

コーヒーを飲み、トーストを食べる。

お昼はラーメン。
作りながら、昨日からまだ続いていたCJCにちょっとだけ参加。
こんな、ダラダラみんなが残ってるところまでEJCみたいだな(笑)

午後4時ごろ、コーヒーを電話で注文し、受け取りにだけ、原付で行く。

今日は外国語のことばかり考えていた。
配信2回。
一回はジャグリング。最近毎日の30分少しのジャグリング練習風景の配信が定着しつつある。
もう一回は、午前1時ごろから、イタリア語の本を一章ずつ読み上げる、という新しい習慣。最近久々にイタリア語をカメラに向かって喋ったら驚くほど錆び付いていたので。

色々やりすぎている生活で、実に楽しい。
完全に過剰。
外出自粛躁状態。
でも中途半端に色々やるのが一番不健康だかんね。
やるなら没頭。ブレーキを外す。これに限る。
※※※

フィンランド語、ニューエクスプレスフィンランド語 第7課をやる。
非公開だが、毎日15分くらいずつ使って、この本の解説(というか、自分が理解するプロセスを映像に収めること)をしている。
まずは20課ある全てを終わらせるところから。

変に心配するのをやめて、ただただ、没頭する、というのが今のところ最適解のようだ。

2020年4月19日日曜日

小さな一歩と大きな一歩(てーてん観測・フィンランド語学習記)

朝起きると、ものすごい雨が降っていた。
いつまで降るんだろう、と心配になったが、4時を過ぎたあたりで雨足が急に弱まって、しばらくしたらすっかり晴れてしまった。

夜中の23時から、初めて、サイバージャグリングコンベンションに参加した。
結果、とても面白い!
最初は、バーチャル上の会合かぁ、と斜に構えていたが、いざ参加してみたら驚くほどジャグラーたちを身近に感じられた。
「コンベンション」の本質をしっかり抽出していると思った。
みんなが積極的に参加できる必要はないのだ。

ただ、そこにいることが拒まれなければ、それでいい。

そういう集まりを作ってその中にいる人間でありたいな。

※※※

今日は、フィンランド語、使っている入門用教科書の第6課をやる。やっと、いろんな格が少しずつ出てきている。なんだかね、ややこしいですねー。
でも、イタリア語で初めもう七面倒でやりきれなかったようなことも、とにかく諦めずにダラダラと続けていたら、いつの間にか体で覚えていたようなことが起こるはずだ、と信じて、黙々とやる。
今日、初めて、フィンランド人のアルットゥくんとフィンランド語で一言だけチャットでかわす。

これは小さな一歩だが、フィンランド語学習者にとっては大きな一歩である。

2020年4月17日金曜日

時間がないよね(てーてん観測・フィンランド語学習記)

時間がない。
時間がない、というのはどういう状態か。
ただ単に「忙しい」とかそういう言葉で片付けていることを、今から15分で書く。今、OK,Google、15分にタイマーをセットして、と言ったので、きっかり15分後にはタイマーが鳴るはずである。

時間がない、ということは、単に忙しい、ということを意味しない。
時間がない、というのは、ど「できることなら遂行したいこと」と「実際に行なっていること」のギャップが激しいということである。
そう思うと、この解決方法は二つある。

ひとつは、「できることなら遂行したいこと」リストを短くすることである。
今僕が遂行したいことをは思いつくまま並べるとどうなるか。

  • フィンランド語を毎日1時間以上練習する
  • ウクレレを毎日1時間以上練習する
  • ジャグリングを毎日1時間以上練習する
  • 英語を一日1時間以上練習する
  • 文章を毎日1時間以上書く
  • 必要な仕事は、休みなく毎日5、6時間やり、締め切りよりも少し早く終わらせる
  • アニメーションを作りたい
  • POTNEのホームページを見直す
  • 売るべきものを売る
  • ...

なんだか、理想を毎日実行したら、間断なくやったとしてもあっという間に、合計14,5時間になる。寝る時間が6時間にしても、とご飯を食べる時間やお風呂に入る時間が4時間。

修学旅行じゃないんだからね。
まぁ要するに、全部やるのは無理なのだ。
ていうかそもそもそんな理想的な1日は一度も過ごしたことない。

極端な例えをすれば、

  • 1日1時間英語を勉強したい
しかリストに載っていなければ、もう暇で暇でしょうがない人間になるわけである。

ではもう一個の解決方法はといえば、もうひとつは「実際に行なっていることを少しでも増やす」である。
うん、まぁこっちの方がすぐに思いつくことだよね。
単純に、自分が本当にやりたいことをやっている時間を増やす、ということだ。

うーん。

でもね、同時に思うんだよ。
こうやって僕は「なるべく生産的に過ごそう」「長期的な視野で見たとき、うれしくなるような生活をしよう」とか思うが、すぐに気が散ってしまう、ということは、本来の人間の自然には適っているんじゃないか、と思ったりするのね。

まぁ、可能性としてはある。

うーむ。

※※※

手短に今日の日記を記すと、いや、特に書くことがないんだよな。
昼ごはんはチャーハン(ひき肉と玉ねぎ、カレー用に冷凍しといたやつを使う)、夜は焼きそば。野菜がないので肉だけ入れた。グランドキリンを飲んだ。
ずっと家にいた。外にまた、ほぼ出ていない。コープに行っただけ。
あ、ホアさんとコーヒーは飲んだな。
最近、ホアさんも寂しいのか、よくコーヒーを持ってピンポーン、と押してくるのだ。

もうコロナとかどうでもよくなってきた自分もいる。
考えすぎて疲れちゃってるのかもね。
明日はまた、明日で別のことを考えてるに違いない。

※※※
さて、今日は、フィンランド語をこれからやるのだ。1時間やるかぁ。
淡々と文章を覚えよう。
同時に、進めるべくはどんどん進めていって、一旦終わらせる。
なんかね、ちゃんと理解してから進もうとすると、絶対頓挫するんだ。
絶対。
ここで、タイマーが鳴った。
15分でも結構書けるもんだな。

やっぱり過剰にやらなきゃダメだよね(てーてん観測・フィンランド語学習記)

日記を書くのも疲れるんだよな。
ああ、もう寝よう、と思って、そこから30分かそこら、気合を入れて何か書いたりするのはやっぱり疲れる。
でも、一番疲れを作り出しているのは何かというと、それはですね、「重い腰をあげる」という気分なのです。
それが一番疲れる。
「やろうかな、どうしようかな」とそう思っている間が、一番無駄な時間になる。
で、結局、まぁとりあえずできることやろうかな、とか思ってパソコンを開いて、SNSなんか見だしてしまって、まぁろくなことがないやな。

自分の意思に関わらず始まることというのは、どちらかというと「楽」なんです。

今日からフィンランド語を学習する記録をつける。
というか、語学学習のこともここでむちゃくちゃ言ったろうと思っている。
どうせ誰も読んでないのは知っているんだけどね。
もし読んでくれている方がいたら、ありがとうございます。
電子ハグします。
誰かフィンランド語に興味がある方とか、自分ですでに学習した方とかが万が一これを読んでたら嬉しいなぁ。緩やかに繋がりたいです。

「続けるーズ」という、ショウグン、ふじくんとのチームがある。
意地でもやりたいことを続けよう、というチームである。
僕の目標はフィンランド語である。
一年も真面目にやれば、そこそこ喋れるだろ、と思っているのである。
フィンランドのことももっと知りたいのである。

毎日何かを続ける場合、そこに創造性を持ち込むと結構大変になる。無駄と思っていても、さぁやるぞ、と思ったら瞬時に始められるようなことをするのが理想だよな。
それを決めてしまう、のがいいんだろうと思う。
いちアクション起こせば、それが始められる、というのが理想。
学校というのはそういう機構である。
朝起きたら学校に行かねばならない。
それからのことは、実は自分の意思ではなく、どんどん、どんどん遂行されていくのだ。
それがいいと思うか、悪いと思うか。

まぁでも今僕は、自分でそういう環境を作り出そうというわけである。
言語学習においてあまり凝り固まった方法を採用するのはどうなんだろう、と思わなくもないが、いや、学習とはそういうたちのものであるのだ。
つまり、単調な反復と、ドリル練習みたいなものがやっぱり欠かせないのだ。
楽器と一緒だわな。

※※※

【フィンランド語の話】

 フィンランド語に憧れ始めたのは高校生の頃である。『フィンランド語は猫の言葉』という本を読んで以来。それで大学に入って、確かもう2013年ぐらい、白水社から出ているニューエクスプレスシリーズの『フィンランド語』を買った。しかし真面目にとり組まぬままはや7年。それにもう一度取り組もうということなのである。これもね、やっぱり、こう、一度しっかり終わらせる、ていうのは大事ですよね。うん。なんかねえ、「これやってて意味あるんかなあ」とか思ってしまうんだけどね。でも、それでも、ひとまずやりきる、というのが大事である。一度は俯瞰する、ということである。それから、細かいところに移っていけば良い。というわけで、全部で20課あるので、3日に1課進むような計算で、2ヶ月でこれを終わらそうと思っている。とにかく、終わらす。そう、目を通し、一通り何が書いてあるのか、チェックするのだ。うむ。今日は、第4課である。まだまだ、基本的な動詞の活用の仕方とか、である。本を一冊終わらすことも必要だが、それに並行して、基本的な単語は、まずその基本的な形で、一通り覚えねば、と思っている。なかなか僕はね、単語を覚えない人なのだ。いまだに単語の覚え方がよくわからない。でも、今回は、ウクレレで曲を覚える時の要領でやってみようと思う。つまり、まず最初にタブ譜を見ながらやって、徐々にそれを何も見ないでやるのである(早々にこっちに切り替える)それで、わからない箇所は、もう一度見て、しばらくドリル練習、そしてまた飽きずに何も見ずにそれを再現する、というのを繰り返すのだ。ウクレレを始めた時は、ずいぶん熱中してやっていたものだけどねえ。あの情熱を再現したいな。となると、やっぱり、再現すべきものが面白いものでなくてはならないな、と思う。
まぁ、そこでそうか、ううむ、確かに、うまいエキスが詰まったスキットとかはいいんだろな。

ていうかさ、やっぱり過剰にやらなきゃダメだよね、ああ、うん、これに尽きるわ。


今自信を持って言えること

Minä olen japanilainen, puhun suomea vain vähän! 
(私は日本人です、フィンランド語を少し話せます。)

以上です。

見つけたサイト。
http://tasteoffinnish.fi/finnish/



2020年4月16日木曜日

家でできるのは結局「いること」だけ(てーてん観測)

藤くんと語学の日である。
まずショウグンに電話を繋ぎ、英語を一頻りやって、その後イタリア語。
会話を少しやる。
そしてピムズラーを少し体験。いいよね。

なんだか、コロナの初期の頃よりもニュースを入れなくなったのは、もしかすると、もう今「外に出られない」ということをごく自然に受け入れているから、特に情報を必要としなくなったのかもしれぬ。
まぁ別に、世の中が毎時間毎時間どう変わっていくかは、わからんでもいいよな、と思い始めているのかもしれぬ。

だって、家でできるのは結局「いること」だけだからである。

2020年4月13日月曜日

きっぱりと終わるものではないこと(てーてん観測)

なぜか朝早く起きられた。(7時)
朝ごはん、トーストにバター。
美味しい「よつ葉バター」を買った。パンに載せると非常にウマい。
まずは翻訳終わらせる。
そしてジャグリングをしながらライブ配信をする。
「発信は自分が考えるための手段になる」という話をした。
昼はラーメン。
今日から新しい中華の素を使っている。
チューブで、マヨネーズのように出てくる。
美味しいは美味しいんだけど、もっと粉っぽい、缶からスプーンで出して使うやつのほうがクラシックな味わいがあって美味しい。

夕飯のキーマカレーを作りながら、またライブ配信をした。
ジャグリングと関係ない話をしたかったので、近況について英語で話した。
途中から友達がコメントをくれ、だんだん、ただの与太話になっていった。
「たまねぎを切ってるのを見てたら、元気でた」と言われた。
嬉しいな。

そのあと少し、フランス人の友達、ボグダン、日本人のジャグラーの友達小辻さんとも話した。

もう少しだけ仕事をして、今から就寝。

※※※

もう何日も、手帳を開いていない。
なにも予定がないのはわかっている。
今頃はオーストラリアのコンベンションにいる予定だったから。
そしてそれがキャンセルになって以降(そもそも飛行機がキャンセルされたので)予定なんてなにも入っていないので、少なくとも、24日までは決まった予定はないはずである。だがなんとなく手帳が気になる。

もう、これがいつまで続くのか、なんだかよくわからない。
世間の中での「まぁ大体これぐらいの時期に終わるんじゃないか」という合意みたいなのがない感じがする。
同時に、「きっぱりと終わるものではない」ということも覚えておきたい。

2020年4月12日日曜日

日記は短め(てーてん観測)

思い立って、インスタグラムでライブ配信した。
ヘッドストール(ボールを頭に乗せる技)を練習しながら喋った。3分でやめるつもりが22分喋った。できるときはなるべく何かテーマを決めて喋ろうと思った。

今日も8時ぐらいに起きた。
翻訳して、ご飯を食べて、家事をして。

俺は誰かに語りかけたいんだ、と思う。


※※※
僕は「外国語を話す友達」と「日本語を話す友達」とを、かなり分けて捉えていると思う。だがこれはよくないんじゃないかと時々思う。外国の人だと、親しい友達でも「実際のところ、本性をよく知ることができない対象」として見てしまっているんじゃないか、と不安に感じる時がある。特にエッセイを書くときに。それは悪いことではないのかもしれない。結局のところ、育った文化や、環境や、言葉や何もかもが違う人と似通った環境で育ってきた人とを、一緒のくくりにする、ということがおかしいのかもしれない。
僕と外国の人の間にはれっきとした区別があるはずだから、それを改めて感じたからといって、どうということはないのかもしれない。「外国人」は、「外国人」として付き合っていけばいいのかもしれない。

しかし外国を「外」とばかり思っていていいんだろうか、とねじれた悩みを抱えている。外国の人と友達で居られることをどこか「特別だ」と思う自分がすごく嫌だ。
しかし海外で起きたことなんかを面白く書こうと思うと、どうしても場所や人が、今まで知っていたものとどれだけ離れているか、どれだけ変なのか、というようなことを軸に話すことが多い。つまり「外」について語っている感じがするから、面白いわけである。でもそうすると、自然と少し誇張してハッキリ書きすぎてしまったり、まさか本人に読まれまい、というような前提でものを書いたりする。これが、なんだか、いいのかなー、と、後になって考え込んでしまうことがある。
※※※

【FB投稿をここにも残しておく】

もう皆さん、星野源の動画の件はご存知と思いますけど、何で本当にこうも安倍さんの周辺ってスカポンタンなんでしょうね。あ、星野源は全然悪くないですよ。星野源ラブ。頑張れ。大丈夫、みんな応援してるから。

ちなみに知らない方がいたらと思い顛末を記すと、星野源が「うちで踊ろう」という動画をインスタグラムでアップして、今気持ちが落ちている人を励ます意図もあってだと思うんですが「誰か伴奏つけてくれないかな?」というようなことを書いたんですね。
そしたら日本中の人から(他国からももちろん来た)伴奏をつけたり一緒に踊ったりする動画が次々出てきて、いいねいいね、ってやっていたんですよ。
そしたら安倍首相が(っていうか官邸、官僚が、だろうな)今朝、くつろいでる動画とコラボさせて流したんですよ。
いや、アンタが一緒になって休んでることを強調してどうするんだよ!(笑)
「僕が先頭に立って指揮をとる、必要な人とモノを動かす、君たちは危ないから大人しくしていてくれ」って言われて、「はい」って言って、どうするのかなぁ、って見てたら紅茶飲んでリモコンプチプチ押して休んでるのおかしいだろ!
それなりに真っ当な国家元首を演じたいわけでしょ。
この認識のラインって流石に真っ当だと思うんだけど…(笑)
ユーモアを出すタイミングと方法完全に履き違えてるよ。
もちろん休むのは構わないし、総理大臣だって人間なんだからくつろいで欲しいし、もちろんそこがダメだってんじゃなくて(当然だよそんなの)ただ、これことさら今強調することじゃないだろ。
これ、憤慨するのもバカらしいよ。
稀代のスカポンタン事件だよ。
平和すぎて真剣に考えるのバカらしくなるよ。
収入激減した人たちは必死になって人生の舵をきってるのに。

なんか、うーん、でもこれも複雑な問題でもあるな、本当に。
いや、上で率いて行く人間が「まぁそんなに暗い顔してないで」って明るい雰囲気をつとめて作り出そうとする、っていうそのこと自体は別にいいんだよ。でも、今回のはタイミング完全に間違えてるよ。

あと星野源をここで責めるのは、俺は全くお門違いだと思います。星野さんは別に社会に対して引き算してない。

「国のトップと、それ以外とで、見える景色にあまりにも断絶がある」っていうことに尽きると思う。
結局、星野源のことも、多分、関係者たちは割と簡単に
「まぁまぁ、みんな、なんだかんだで大変そうだけど、何とか持ちこたえてくれているし、この辺りでほっこりするところでも見せてあげよう!」と、そんなに悪びれずにやってるんじゃないか、って思うんだよ。
まともに景色が見えてたら普通あのアイデアにたどり着かないよ。
あの人らがおかしいっていうよりは、きっと上を選ぶ全体のシステムが全体的に、圧倒的におかしいんだよ。

狂ったようにつくりたいよね(てーてん観測)

今日は比較的早く起きた。
8時半ぐらいかな。僕としては早い。
昼まで仕事をして、ふじくんを待つ。
相変わらず、水曜日と土曜日には必ず会って、イタリア語(と英語)をやっている。
生産的か、と言われると、どうなのだろう。
何もつくってないしな。

そう、僕はつくりたくてつくりたくてしょうがないはずなんだ。
みんなそのはずなんだ。
本当は何かをつくりたくてしょうがないんだ。
「何者かになりたい」なんてこと、本当は絶対にないとおもう。
ただ自分が心底ワクワクするようなものを作り出すことに熱中したいだけだ。

それは、自分の頭が「好きだ!」と恋した方向に世界を操作して、それを自分の知覚が確認できるようにする、というおこないのこと。

夜ご飯は、隣のホアさんとふじくんとでラーメンを食べにいった。
近所のラーメン屋。
先日二郎系を食べたホアさんは、このいたって普通のラーメンやさんのラーメンに対し「こっちの方が、美味しいね」と言っていた。
僕もそう思う。

夜9時からジャグラー、ショーグンと電話した。
最近どうですか?と。
少し気分が落ち込んでいた、のかな。

ひとしきり盛り上がって、「続けるーズ」というしょうもない名前の団体を発足した。
僕はこういう命名にかけては自信がある。
いいよね、「続けるーズ」。いい、いい。悪くない。

なんでも続ければいい。

何かを続けなくても死にゃあしない。結果なんか出さなくたって、断じて死なない。断じて。自分なんか高めなくたって、息の仕方と食べ物の食べ方ぐらい誰もが知っている。全部余計。

だからつくりたいものをつくり続ける。
このブログだってそう。
書いた時点でもう自分に対するコミュニケーションは終わってるんだ。
あとはあなたが受け取ってください。
つくりたいものを好きなだけつくろう。

つくるものつくって、笑顔で生きよ。

※※※

「僕はほら、用意周到だからもう今の時点でこんなに危機感を感じていますよ」と言っているように見えることを承知で書く。

先ほどの小さな地震が心底怖かった。
コロナコロナと言っている間に地震が来てもおかしくない、本当に。
そしてこう書いておきながら、「まぁでも来ないだろう」と思っている自分もまたいる。よくわかる。
だが僕は本当に怖がりなので、もしかしたら、本当に、大地震がきて、もう、全然立ち直れないようになってしまうかもしれない、とも本気で考える。
でも、「まぁでも万が一の時でも僕は死なないだろうし、地震で様々なものが崩壊しても、いずれは平穏な時がくる」と考えているのもよくわかる。
よくわかってるんだぞ、俺。

こうして平和にブログを書いていられるのも今のうちかもしれない、という予兆はする。しかし同時に、僕はこうやってなんの予防線だか知らないが、予防線としてこういうことを書いているんだろう、と思う。

まぁ、あとはどうしようもないから、自分は運がいいと思い込んでることは全然否定せずに、まぁでも万が一なんかあったら、と少しでも準備すればそれでよろしい。
もともと「平穏」なんてない。

※※※

「つくりたくてしょうがない」と書くと、余計に何かをつくりたくてしょうがなくなってくる。
つくりたいな、つくりたいな。

日々の仕事だって、それを何かを作る作業であると本気でおもいこめ。
「記録」を作ったっていいさ。「価値」を作ったっていいさ。「文章」を作っているのだっていいさ。
もし作業そのものが創造的じゃないと思えるなら、作業はそのまんまでいいから、それを「自分が語れるお話というもの」にしちゃえばいいのさ。そういうキャラクターになりきればいい。
キャラクターづくりは、創造という行為に密接に結びついている。

仕事に打ち込む自分づくり、とは役作りなのだ。

なので、とことんおかしい役を演じよう。とことんバカを演じよう。「創造性」なんかまるで気にしていない、大事なことなんかわかっていないやつを演じよう。

その役を演じられるならば、本当の自分は、それを外から見ている、ということになる。
常に狂った人の「外」にいることになる。
自覚があれば、それだけでよろしい。
他人には言わなくて十分、よろしい。
僕は、何を作ろうかな。
「作品」っていい言葉だ。
品を、作るのだ。
遠慮なんかなく、狂ったように仕事を作品にしていきたいね。

そして、そのつくったものは、自分でニコニコと誇れるものであれ。

2020年4月11日土曜日

まだまだ寒いね(てーてん観測)

あいも変わらずずっと家。
起きたのは遅かった。10時ぐらいだったかな。
iPadでウェブブラウジングして、やる気になったら翻訳に取り掛かる。
昼ごはんはラーメン。
一ヶ月ぐらい前だったか、近所のコープで好きなラーメンの麺だけが安売りしていたので、それを5袋だか買ってきていたのがまだあるのだ。最近は、スープを自分で調合する。中華スープの素と醤油で結構いい味になる。そこにワカメと適当にゴマを振ったり、その時にあるものを入れれば出来上がり。
しかしなんだってこんなに時間があるのに、自分がやりたいと思っていることをまだまだ実行できないでいるね。粛々と見直して、直していくしかないね。つまり今12時過ぎまで起きている、まさにこのことが問題なのだ。

気持ちにはあまり変化なし。
むしろ少し緩んできた感がある。
ニュースを取り入れる量を減らした。
それでもあまり困っていない。

夜、隣に住むベトナム人のホアさんが誕生日だったので、お菓子を買って届けに行った。
ベルを鳴らすと、暗い部屋からホアさんが出てきた。
ゲームしていたらしい。
ありがとう、と喜んでくれたが、今まで、祝ってくれたの、二人、という。
え、今日、ってこと?と聞いたら
そうではなく、人生で、ということらしい。
家族でもあんまり祝わないんだそうで。(彼が日本語でちゃんと言いたいことを伝えられていたのなら、そういうことになる)
「ベトナムでは、誕生日はあまり気にしない」のだそうだ。
一番祝うのは、お正月、だって。
ふうん。
二人でアパートの廊下に並んでコーヒーだけ飲んで、また部屋に戻る。

お風呂にお湯をためてはいる。

同じことの繰り返しだ。
いい繰り返しが、いいな。いい繰り返しが、いい。

2020年4月10日金曜日

夜半のおもい書き(てーてん観測 2020年4月10日)

 『「イギリス社会」入門 日本人に伝えたい本当の英国』(コリン・ジョイス 著)という本を読んだ。
 ボリス・ジョンソンが英国ではどう捉えられているのかが気になってWeb検索をしていたら、著者であるジャーナリストのコリン・ジョイス氏の記事に突き当たったのがきっかけ。いつもお世話になっているバリューブックスから取り寄せた。

 「日本はここがダメ」ばかり読んだり聞いたりしていると、どうも気持ちが塞いでくる。できれば無視したいと思う。中には、「目をそらすな!ちゃんと国が何をしているのかを見ろ!」と言いたくなる方もいるだろう。僕もそう思う。そう思うんだけど、果たしてそれで深刻に考え、気分を落とすことがどこまで有効なのか、考える。やるせなくなったら、逆に「やけっぱちでつとめて冷静になって」やったらいい気もする。

 僕が少し前まで感じていた政治に対する義憤とは、「まさか」と思うようなことを本当にやっているんだ、というたちのものだった。あらゆることが「まさか」に見えるんだよ。マスク2枚とかもね。政治の素人が普通に考えたら、やっぱり、おかしく見える。和牛に魚に、果ては布マスク2枚なんて、ちゃんちゃらおかしくて擁護の余地もないように思えた。

 でもそこで、その「まさか」の原因を、それは上の人間が邪悪だからだ、と落ち着かせてしまったらダメだ。「良識から考えたらどう考えてもそう」「ロジカルに考えたらどう考えてもおかしい」と思えても、ぐっと我慢したほうがいい。それを放っておくと、どんどんどんどん、「悪い物語」が自分の頭の中でスタートしてしまう。それは、想像力が高いが故の「自分にとって一番合理的に思えるストーリー化」である。でもどこまで行っても、それは断片をつなぎ合わせた仮説でしかない。その「つなぎ」は全部自分が頭の中で作ってる。「私腹を肥やしたいからだ」「国民のことなど何にも考えていないのだ」と。

 そもそも「因果関係」を言い当てるのは、とてもとても難しい。「どう考えてもおかしく」見えるのは、その裏にあるカラクリが、人ひとりの頭の中では、とてもじゃないが判断できないような複雑な要素が絡み合った結果だから、と考える。僕はこの判断を、妥当だと思う。利権がらみだ、という可能性も充分あるし、かたや、全体を俯瞰したら天才的な判断である可能性もある。(しかも政策を作ってるのって、首相じゃないですよね)

 そしてそういう構造である以上、意見を言う人は「一見おかしく見えること」を提案するなら、それ相応の「わけ」を説明しないとうけいれられない。一番大事なのは、その「わけ」を詳しく述べるべく、戦略的にコミュニケートすることだ。
 それがうまくいかないと、作戦がうまく機能しない。

 なので、「これはおかしい!!」と思ったら、まずはコミュニケーションの不全を真っ先に疑うのがいいと思う。自分が受け取っている情報が不十分なのだ、あるいは、情報を発信する側の方法がうまくいっていないのだ、と。そこに「人の命をなんとも思っていないんだ」と、こちら側の推測をアプライした途端に、それは今度、「同じストーリーをたまたま共有するもの同士」にしか伝わらない情報になってしまう。右派だろうが左派だろうがなんだろうが。
 これは、場合によっては、結構シビアな線だ。やっぱり嫌なものを見るとカッとするしさ。でもヘンに見えてしまうカラクリがあるんだ、と意地でも考える方が妥当であると僕は思う。そしてもしそこに、コミュニケーションの不全は特になくて、ただ自分の声が届いていないのだ、と分かったのであれば、「ここ、行き届いてないですよ」と「自分が本当に目撃しているもの」について、今度はこちらが、ウマいコミュニケーションで言うべきだと思う。

 「遠くの情報」について感情を抱くというのは、まだまだ人類史では新しい体験なんだと思う。
 怒りや悲しみや喜びという感情というのは、本来的には、手の届く範囲に人がいるときに一番効力を発揮する能力なんだと思う。手の届く範囲に困ってるやつがいたら、まずその人を自分が助けるもんな。だって、困っている人を見るのは悲しいし、困った人が自分に「助ける権利」を預けてくれるのはとても嬉しいから。それで、自分の力じゃどうしようもなくて、しかるべき助けてくれそうな機関があるのならば、冷静にどのような支援をしてくれるのかを調べ、そこで初めて、別で何か言うべきことが生まれると僕は思う。

 もちろん感情が高ぶるのもすっごくよくわかるんだ。(僕こそ、すぐ安直な義憤を抱くし)現金が今すぐ逼迫した人の元へ渡ることが必要じゃないか、と思うもんね。しかしここには「弱い者を政府が救うべきなのか否か」という議論だって、ある。「お前もそんなこと言うのか!」と思われるかもしれないんだけど、でも、「弱い者も当然政府が救うべきである」というのも、一つの思想であると僕は思う。
 僕個人は、「弱いものにとことん優しい政府」であってほしいと思う方だ。
 弱い立場の人を死守することが、最終的に全体の強さを生むと思う。
 少なくとも自然淘汰の考え方を人間の世界にも単純にアプライする気には全然なれない。それにたとえば政府が「国民主権」と言う建前で運営されている組織であるなら、当然、国民の権利を制限する要請をした時点で、それに見合う補填がある、というのはロジカルだ。
 しかし政府は「個人」じゃない。お金に関していえば、これはリソースの配分機関である。あと「政府」と一括りに言っても、そこには何百人という人が働き、また省庁ごとに実は全然違った人たちがいるだろう。学校くらいの規模を想像してもそれはわかる。部活ごとに性格も全然違うもんね。
 などなど踏まえて、全体を俯瞰すると、少なくとも素人が「判断の成否」を感情で安直に決めつけることはどうもできないなぁ、と思う。
 (あと『弱い』と決めつけている人はそもそも本当に弱いんだろうか?)
 客観的に見ようとすればするほど、「個人が感じる合理性と行政のレベルで感じる合理性というのはそもそも違うんだ」ということも浮かび上がってくる。

 それがいかに自分なりの「正しさ」に基づいていても、「怒り」というのは、本来目の前に人がいるとき、それを相手に口頭で「おい、おめぇどういうつもりなんだ、説明してみろ」と是非を問えるときにのみ、効力を発揮するんだろう。そこに、個人の手で負える対話の道筋があるからだ。

 システムとの対話は、持久戦だ。あと、一回直せばいいというもんでもない。どんなに暴走しても、修理の仕方は、どこが間違っているのかを見極めて、淡々と一個ずつ直すことだ。
 身の回りの人に目を向けてから、それから、システムをじっくり修理してやるんだ。子供ができて、いい年頃になるときには、なんか、日本ってどんどんよくなってきてるねー、って言われたいもんだな。



 あ、それで読んだ本に関して。へへ、今日はこれを言いたいんだったよ。
 やっぱり僕は英語は英国風がいいな、と思ったり、イギリス周辺の文化が気になってきた。ロックとか、あまり興味ないのだが、なんというか、「英語が話されている国」っていう目でイギリスを見たことがなくて、つまりなんていうの、英語を「イギリス語」って言うと、なんかワクワクすんのよね。
 でさあ、僕はfacebookで世界とつながり、イギリス人の友達にもいつでもイギリスのことを聞ける状態でありながら、あくまで対象としてイギリスについて知りたい、と思っているんだよね。これ、なんか、全然、前時代的やなー、って思う。ときどき僕は勘違いして、自分がそれなりに国際的であるとか、外国とのつながりがあると思いそうになるけど、やっぱり僕はすっごく日本人。でもたとえそれがどこか滑稽でも「知ろうとしている」という姿勢こそを保ち続けることが、「国際人」の資格だろう、と思うよ。うん。

 ところで、僕はアマゾンで中古本を買う時は、選択肢にあれば必ず「バリューブックス」を選んでいる。理念が共感できて、本はきれいだし、納品書の裏に面白い読み物がついてきます。おすすめ。

家にこもってばかりで一週間くらい。本が増えてきた。

2020年4月9日木曜日

コロナの定点観測 2020/04/08

 朝おそめ。翻訳する。
 最近は毎週水曜と木曜にふじくんが来て、イタリア語と英語の勉強をしている。イタリア語は、入門書全20課のうちの、第4課まできた。英語、PM ジャグリングのだいごさんも交えて、通話で、300個の例文を覚える、という作業を一緒にやっている。ここからどうやって派生していくか、だな。一時間半ぐらい話した。
 語学の時間が終わると、(14時に始めて、17時半ぐらいまでやったかな)キーマカレーを作って、それから少しボードゲームする。「ニムト」と、「ナルハヤのつるぎ」。
少しお酒も飲む。普段はあんまり一緒にお酒飲んだしないんだけどね。
ジャズを聴きながら。
なんだかえらいおしゃれだな。

最近とみに、ふじくんと政治の話をする。まぁ、具体的な内容というよりは、「ほとんど勉強してない素人である以上、俺たちは政治に対してどういう態度を取るべきか」という話になりがちだけどね。

 EJCのことを思い出してる。

2020年4月8日水曜日

コロナの定点観測 2020年4月8日

 ほぼいちにち家にいて、パソコンで翻訳。
 この記述を、例えば20年後の俺はどう見ているのかな。楽しみだね。何をしてるんだい。落ちぶれてるのかい。全然違うことをして、楽しんでるのかい。それとも、20年先に僕はいないのかな。
 途中、玉ねぎとひき肉、カレー粉、豆乳、卵、メンチカツ、ハムカツを買ってきた。交通費も何もとにかくお金がかからないことと、家にいてなんだか食べるくらいしか刺激がないことで、食べ物にかけるお金が増えてきている。
 100円のメンチカツですら、今まで買うの、少しためらっていたからね。
 本当は、コンビニにお菓子と新聞を買いに行こうとしたのにね。八百屋とコープに行ってしまった。八百屋、いつも通りだ。コープ、いつも通りだ。少し人が多かったかな?でも品数も普段通り。
 いちにち合計500mも歩いていない気がする。こんなことは、今までなかった。何か運動をしなきゃ。
 というわけで、逆立ちを鍛えている。あと、柔軟している。ベターっと、だね、みんなに次会う頃には、ベターっと、逆立ちでスラーっと、なっているから覚悟しておれ。

以下ランダムな雑想。

-「いつ死んでしまうかわからない」というのは、いつだって同じだ。今になって特にそれが意識されるというだけであり、死とは常に隣合わせ。

-もっとひどい経済状況にあったり、犯罪が多かったりする世界はごまんとある、ということも頭に入れておきたい。「日本はこんなにひどいんだ」とも思うが、同時に、「日本にいて今のところ三食飯が食えている」ということはまだまだ揺るがない。

-人間は、かくも「物語」を勝手にこしらえるものなんだな、と思っている。僕は、コロナのニュースを聞くたびにいちいち壮大な「世界」、あるいは「日本国」という頭の中だけに存在するものを想起し、そこに事件をプロットしている。「このままだと大変なことになる」というのは、いう権利を十分に保持すべきことでありつつ、でも、まぁ頭の中で起きていることでしかない、ということにも自覚的であるべきだろう。あと、言葉って全部妄想ですね。妄想と呪力だ。それが切実な時もあるんだけどね。

-『ストリートの思想』という本を読んでいる。
 「こうした二項対立の擬似的な政治から逃れる方法は、安易な問題設定から逃れて、自律した政治の空間を先に作り、そこでさまざまな政治的事象について語り始めることである。二項対立から逃れそれに先んずること、それがストリートの思想の可能性なのだ。」(p.200-201)とある。自律した政治の空間、ってのは憧れる言い方だな。

-語学ブログを始める。

2020年4月7日火曜日

コロナの定点観測 2020年4月7日

久々にこちらに戻ってきた。
ええとね、ツイッターで、見たんだ。フヅクエ、というカフェを経営してらっしゃる方が書いていた。
今こそ日記をつけるタイミングだ、と。
一週間前に書いたことが、遠いと。

あー、確かに、書いておけばよかったな、と思う。
まぁ、ひとまず今日から書いていく。

今日もほぼ一日中家にいた。朝7時くらいに起きて、本を読んだり仕事をしたり。
一度外出し、髪を切りに行った。
それと、スーパーのATMに用事を済ませに行ったりはしたか。
でも、そんなもの。あ、そうだ、パン屋にでも行こう、と思って、バイクでパン屋まで行ったが、10時から15時までの営業で、そのまま帰ってきたのだった。


そうだな、ほんのすこし前の22日まで、大学時代の友人と4人で出歩いてたな、ということをまず書いておこう。ギリギリでそういうことができた。
まぁ、もうすでに危ない、ということは言われていたんだけども、特別な罪悪感や危機を感じる、と言うこともなかった。まぁ、クラスター感染、と言うことは散々言われていて、友人の1人が数日前にリスクの高いところにいたと言うので、家から追い出されたような形になっていたが。


それでさ、今少しだけ怖い想像をしている。
それは仮に明日、関東を大地震が襲ったらどうしよう、ということである。
こんなことは、怖くなってしまうから言いたくないし、人によってはこれを読んだだけで、生活するのが嫌になってしまうかもしれない。
でも、これは厳然たる可能性として横たわっている。
2011年を体験している僕らはわかっているはずである。

だからさ、僕はこうも思うんだ。
日常に「戻る」という思いを抱くのはやめておこう、と。
別に悲観論ではない。
ただ、「災害はあってはならない異常だ」みたいには、絶対に考えないようにしよう、と言うことである。
およそ自然を相手取って、「あってはならない」ことなんてない。
無差別にただ「起こる」のが自然災害である。

それを身体的に受け入れられるように、精神を整えておく。

次は、新しい日常のあり方が立ち現れてくるんじゃないか、と本気で思う。
でもかといって、3.11の後散々心が動かされたけれども、なんだかんだで「日常に戻った」というような思いもあり(もちろん、「なんともなくなった」なんてことは断じてないのだが)結局後で、「思いつめすぎだったね」というようなことを、言う、かもしれない。


でもやっぱりなぁ、もうね、少なくとも「もとどおり」にはならないんだよ。
今は少なくとも、そういう気分でいる。


さて以下は、これから毎日、後で忘れそうな、今の日付でどれぐらいの意識でいるか、ということを書いておく。

・2週間ぐらい前までは、まぁ、言うても5月ごろには終わっているだろう、というなんとなくの楽観視があったと思う。

・少なくとももうこの数日では、「ああ、これは夏まで続くんじゃないかな」と言う気がすごくしている。そして、もう一ヶ月も経ったら、「頼むから今年中で終わってくれ」くらいの意識に変わっているかもしれない。

・5月の京都のジャグリングイベント、なんらかの形でできるんじゃないか、と言う気がしている。

・7月のEJCに関しても、そういえば、2週間ぐらい前まで、「まぁとはいえ夏のイベントは流石に影響を受けないだろう」と思っていたように思う。