2020年4月10日金曜日

夜半のおもい書き(てーてん観測 2020年4月10日)

 『「イギリス社会」入門 日本人に伝えたい本当の英国』(コリン・ジョイス 著)という本を読んだ。
 ボリス・ジョンソンが英国ではどう捉えられているのかが気になってWeb検索をしていたら、著者であるジャーナリストのコリン・ジョイス氏の記事に突き当たったのがきっかけ。いつもお世話になっているバリューブックスから取り寄せた。

 「日本はここがダメ」ばかり読んだり聞いたりしていると、どうも気持ちが塞いでくる。できれば無視したいと思う。中には、「目をそらすな!ちゃんと国が何をしているのかを見ろ!」と言いたくなる方もいるだろう。僕もそう思う。そう思うんだけど、果たしてそれで深刻に考え、気分を落とすことがどこまで有効なのか、考える。やるせなくなったら、逆に「やけっぱちでつとめて冷静になって」やったらいい気もする。

 僕が少し前まで感じていた政治に対する義憤とは、「まさか」と思うようなことを本当にやっているんだ、というたちのものだった。あらゆることが「まさか」に見えるんだよ。マスク2枚とかもね。政治の素人が普通に考えたら、やっぱり、おかしく見える。和牛に魚に、果ては布マスク2枚なんて、ちゃんちゃらおかしくて擁護の余地もないように思えた。

 でもそこで、その「まさか」の原因を、それは上の人間が邪悪だからだ、と落ち着かせてしまったらダメだ。「良識から考えたらどう考えてもそう」「ロジカルに考えたらどう考えてもおかしい」と思えても、ぐっと我慢したほうがいい。それを放っておくと、どんどんどんどん、「悪い物語」が自分の頭の中でスタートしてしまう。それは、想像力が高いが故の「自分にとって一番合理的に思えるストーリー化」である。でもどこまで行っても、それは断片をつなぎ合わせた仮説でしかない。その「つなぎ」は全部自分が頭の中で作ってる。「私腹を肥やしたいからだ」「国民のことなど何にも考えていないのだ」と。

 そもそも「因果関係」を言い当てるのは、とてもとても難しい。「どう考えてもおかしく」見えるのは、その裏にあるカラクリが、人ひとりの頭の中では、とてもじゃないが判断できないような複雑な要素が絡み合った結果だから、と考える。僕はこの判断を、妥当だと思う。利権がらみだ、という可能性も充分あるし、かたや、全体を俯瞰したら天才的な判断である可能性もある。(しかも政策を作ってるのって、首相じゃないですよね)

 そしてそういう構造である以上、意見を言う人は「一見おかしく見えること」を提案するなら、それ相応の「わけ」を説明しないとうけいれられない。一番大事なのは、その「わけ」を詳しく述べるべく、戦略的にコミュニケートすることだ。
 それがうまくいかないと、作戦がうまく機能しない。

 なので、「これはおかしい!!」と思ったら、まずはコミュニケーションの不全を真っ先に疑うのがいいと思う。自分が受け取っている情報が不十分なのだ、あるいは、情報を発信する側の方法がうまくいっていないのだ、と。そこに「人の命をなんとも思っていないんだ」と、こちら側の推測をアプライした途端に、それは今度、「同じストーリーをたまたま共有するもの同士」にしか伝わらない情報になってしまう。右派だろうが左派だろうがなんだろうが。
 これは、場合によっては、結構シビアな線だ。やっぱり嫌なものを見るとカッとするしさ。でもヘンに見えてしまうカラクリがあるんだ、と意地でも考える方が妥当であると僕は思う。そしてもしそこに、コミュニケーションの不全は特になくて、ただ自分の声が届いていないのだ、と分かったのであれば、「ここ、行き届いてないですよ」と「自分が本当に目撃しているもの」について、今度はこちらが、ウマいコミュニケーションで言うべきだと思う。

 「遠くの情報」について感情を抱くというのは、まだまだ人類史では新しい体験なんだと思う。
 怒りや悲しみや喜びという感情というのは、本来的には、手の届く範囲に人がいるときに一番効力を発揮する能力なんだと思う。手の届く範囲に困ってるやつがいたら、まずその人を自分が助けるもんな。だって、困っている人を見るのは悲しいし、困った人が自分に「助ける権利」を預けてくれるのはとても嬉しいから。それで、自分の力じゃどうしようもなくて、しかるべき助けてくれそうな機関があるのならば、冷静にどのような支援をしてくれるのかを調べ、そこで初めて、別で何か言うべきことが生まれると僕は思う。

 もちろん感情が高ぶるのもすっごくよくわかるんだ。(僕こそ、すぐ安直な義憤を抱くし)現金が今すぐ逼迫した人の元へ渡ることが必要じゃないか、と思うもんね。しかしここには「弱い者を政府が救うべきなのか否か」という議論だって、ある。「お前もそんなこと言うのか!」と思われるかもしれないんだけど、でも、「弱い者も当然政府が救うべきである」というのも、一つの思想であると僕は思う。
 僕個人は、「弱いものにとことん優しい政府」であってほしいと思う方だ。
 弱い立場の人を死守することが、最終的に全体の強さを生むと思う。
 少なくとも自然淘汰の考え方を人間の世界にも単純にアプライする気には全然なれない。それにたとえば政府が「国民主権」と言う建前で運営されている組織であるなら、当然、国民の権利を制限する要請をした時点で、それに見合う補填がある、というのはロジカルだ。
 しかし政府は「個人」じゃない。お金に関していえば、これはリソースの配分機関である。あと「政府」と一括りに言っても、そこには何百人という人が働き、また省庁ごとに実は全然違った人たちがいるだろう。学校くらいの規模を想像してもそれはわかる。部活ごとに性格も全然違うもんね。
 などなど踏まえて、全体を俯瞰すると、少なくとも素人が「判断の成否」を感情で安直に決めつけることはどうもできないなぁ、と思う。
 (あと『弱い』と決めつけている人はそもそも本当に弱いんだろうか?)
 客観的に見ようとすればするほど、「個人が感じる合理性と行政のレベルで感じる合理性というのはそもそも違うんだ」ということも浮かび上がってくる。

 それがいかに自分なりの「正しさ」に基づいていても、「怒り」というのは、本来目の前に人がいるとき、それを相手に口頭で「おい、おめぇどういうつもりなんだ、説明してみろ」と是非を問えるときにのみ、効力を発揮するんだろう。そこに、個人の手で負える対話の道筋があるからだ。

 システムとの対話は、持久戦だ。あと、一回直せばいいというもんでもない。どんなに暴走しても、修理の仕方は、どこが間違っているのかを見極めて、淡々と一個ずつ直すことだ。
 身の回りの人に目を向けてから、それから、システムをじっくり修理してやるんだ。子供ができて、いい年頃になるときには、なんか、日本ってどんどんよくなってきてるねー、って言われたいもんだな。



 あ、それで読んだ本に関して。へへ、今日はこれを言いたいんだったよ。
 やっぱり僕は英語は英国風がいいな、と思ったり、イギリス周辺の文化が気になってきた。ロックとか、あまり興味ないのだが、なんというか、「英語が話されている国」っていう目でイギリスを見たことがなくて、つまりなんていうの、英語を「イギリス語」って言うと、なんかワクワクすんのよね。
 でさあ、僕はfacebookで世界とつながり、イギリス人の友達にもいつでもイギリスのことを聞ける状態でありながら、あくまで対象としてイギリスについて知りたい、と思っているんだよね。これ、なんか、全然、前時代的やなー、って思う。ときどき僕は勘違いして、自分がそれなりに国際的であるとか、外国とのつながりがあると思いそうになるけど、やっぱり僕はすっごく日本人。でもたとえそれがどこか滑稽でも「知ろうとしている」という姿勢こそを保ち続けることが、「国際人」の資格だろう、と思うよ。うん。

 ところで、僕はアマゾンで中古本を買う時は、選択肢にあれば必ず「バリューブックス」を選んでいる。理念が共感できて、本はきれいだし、納品書の裏に面白い読み物がついてきます。おすすめ。

家にこもってばかりで一週間くらい。本が増えてきた。

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