2014年7月17日木曜日

音読主義

音読主義になってみよう。
結構前々から気付いておきながら実行していなかったんだけど、膨大な量の文章を空で言えるようになるっていうのは、有効な方法であり、否、本質的でさえあるかもしれない。
話せるというのは言える、ということだからである。

重要なのは、「意味を考えずにやる」ってことだと思う。

というのも、音読ばっかりしてたら、自然意味の方は後から自発的に気になって調べたり、自分で考えたりするんで、そういう風に勝手に意味がわかるまで待つぐらいののんびりさが、かえって自然な習得を促すと思うのだ。
あんまりこういう単純作業には、余計な「おまけ」をくっつけない方が集中できそう。

よむよむ


ことばと世界と青春の半透明の紙

早稲田の中央図書館にイタリア語の新聞があるので、読んでみた。(Corriere della Sera)前にも何度か手に取ったことはあったんだけど、ちゃんと「理解しよう」という志を持って読んだのは正直初めてだった。
(ついでにドイツ語の新聞も引っ張りだして読んでみた。少し分かったので、実に満足。余談ですがドイツ語検定4級合格通知が今日来てました。嬉しい。引き続きドイツ語とは付き合っていきたい)
イタリア語のCarta(新聞)を読んでいて、留学中の、「イタリア語で世界を見る」わくわくする感じ、を思い出した。
あの時には周りに イタリア語ばっかりあって、日本人でない友達と話すときはいつもイタリア語だったし、自動販売機の表示はイタリア語だったし、駅に行ったらイタリア語しか表示されていないし、悩みを友達に言う時だってイタリア語だし、考えてみれば言語的には「四面楚歌」な状態だった。(この場合四面カンツォーネ)でもそんな風景が、自然にいつも「『伊』世界」を見せてくれた。イタリア語のフィルターだけで見通された世界の様相を見せてくれた。
「何語で表現されようが同じものは同じものでしょ」と言う向きもあるかもしれないが、外国語で自分の意志を真剣に伝えようとしたことがある人なら分かると思うのだけど、何語で言うかによって、言うことまで変わっちゃうのである。
言語の違いというよりそもそも「勉強不足で語彙の選択肢が制限されている」ということが大きいと思うが。
というより、世界があって、それをことばで「言い、指し示す」っていう理解をするんじゃなくて、そもそも目に映るものを「ことばで分節してる」っていう説を、心から納得して自分の哲学に適用しているなら、自然「ことばによって世界の見え方が変わる」という結論が出てくるはずである。

それで、まぁそういうのは良くて、重要なのは、そういう感覚が、自分の「青春」と強く結びついているということである。
単純に、19歳の夏にイタリアに行ったからである。(あっ、そんな若かったんだ、て今自分でも思った)
やっぱり大学生のうちに留学に行くといいよなあ、と思うのは、つまり若いうちの方が、特に新鮮な経験が、より「鮮烈に」「いい思い出として」残るような気がするからである。自分自身にエネルギーがある時代に触れたものは、自分が盲進の体でぶつかっていくから、反作用も大きくて、より「強い」ものとして記憶に残る。




さてこうやって、イタリア語のよさと、自分がイタリア語と、めげずに付き合って来たことを喜ばしいことだと思えたことは、よかった。
だけど、同時に今まで自分がいかにただ語「学」にだけとらわれていたか、ということが、悔しく思えてきた。
なんと惜しいことをしていたろう。

もっと、面白いこと、ことばの、「その先にある愛すべきこと」に飛び込めば良かった。

結局俺は今まで、語学を通して、「語学」しか見ていなかったんだなぁと思う。

そういう意識を少しでも払拭したいと思って、最近はなるべく「語学」という言い方ではなくて、「ことばの勉強」みたいな言い方をするように努めてはいたけど、やっぱり、言っているだけじゃだめだなぁ、て思う。というか言い方はそこまで問題ではなかった(笑)

「ことばを通して『世界を愛する』」。
新聞を読むとか、文学読みたいな、とか、人と話したいな、とか、そういう、「愛」とか「あったかい」がいっぱいあるものに飛び込む。

これ、 言葉で言うとなんだか誰でも分かっているようなありきたりな文言に聞こえるけれど、実はこれさえできれば、たぶん誰でも、「言葉を習得する」ということが単なる「通過点」になって、その先の本当に「自分が好きなもの」がわんさか見えるから、ずいぶんことばを勉強することが、簡単で、楽しいものになると思うのである。

そういえば、留学中に新聞なんてほとんど読まなかったし、そもそも、「イタリアにいる」ということを、目一杯活用できていた気がしないなぁ。

というわけで、イタリアの空気が少しだけ鼻の頭をかすめた日でした。

こんな時もあったな。(@Roma,Fontana di Trevi,2012)

2014年7月16日水曜日

今すごくしたいこと

今すごくしたいことは、個々に言えば一杯あって、たとえば語学やりたいとか、納得の行く雑誌づくりがしたいとか、旅行行きたいとか、もう好きなだけジャグリングしたいとか、色々あるんだけど、なにがイヤかって、そのひとつひとつを「味わう」時間がないっていうことです。

でもこれはひとえに自分のせいです。といっても、だらしないから、というより、覚悟が足りないからかな、と思います。まずひとつのことにきっちりぐっと専念して、それを楽しむのって、要は一旦他のものを「全て捨てる」ってことだから、なんか勇気がいるんですよね。

朝型にして、あと、「もう俺はコレだけやるんだ」っていうのを、どっかで腹くくってみないと、そういう「味わい」はないのかも 。同時に、Hungry精神ってそういうことかな、と思う。

2014年7月15日火曜日

創作の方法か

 創作には色々方法があって、自分ができることを使って、なにかこう湧き出るものをなんとか形にするわけだけど、ダンスってやっぱり初原的だよなって思う。きっとダンスのジャムセッションが楽しいのは、常に「気持いい状態でいられるからだろうし、なんていうか、身体の「快楽」にすごく忠実なんだろう。
 それに対してジャグリングっていうのは、結構フラストレーションがたまるやりかたで、落としちゃいけないし、なんだり、って、気を遣うべき所がいっぱいありすぎる。
 それで、「落とすのもジャグリングだよね」っていう宣言は、なんていうか、もっと快楽原則に従うようにやった結果なのかもしれない。

違うかもしれない。

2014年7月11日金曜日

Floor



エロティックなジャグリングだけど、なんか無機質すぎてそんなにピンと来ない。
ガンディーニジャグリングは、およそ私が生まれたくらいの頃から(1993年、2歳のときか。)ジャグリングを使った表現を模索しています。
なんか、書こうと思ったけど、特に感想ないな。
別に俺はこの作品に関しては好きじゃないなぁ。




2014年7月7日月曜日

今の心境がここに出ているんだと思う

もうむちゃくっちゃむっちゃくっちゃやることいっぱいあるから、
あるからこそ、無駄なことに時間を費やしてしまう。

翻訳で、やることをいっぱい抱えている。これはもはや、神の「翻訳家になれ」というお達しとしか思えない。たぶんこれらの仕事を全部きちんと片付けた暁には、レベル5のナゾノクサを一回だけ顔出しして、95レベのカメックスで92レベのゲンガーを倒したときにナゾノクサに入る経験値に匹敵するくらい経験値が入って、私はナゾノクサの次のやつになる。何になるんだかは忘れた。間違いない。

 そもそも自分にとって翻訳とは何か。気がついたら、自分は外国語がとんでもなく好きになって、そのうち、相対的に好きな学習分野、というより、外国語学習そのものが快楽を提供してくれるようになった。趣味になった。今は、そういう「趣味」の域を超えるための試練のときなのかもしれない。「仕事」になるための。

今現在も、ニューエクスプレス・フィンランド語のCDをなんとなく流しながら打っている。でもこれは単に趣味なんであって、やっぱり仕事にしようと思ったら、自然、もっと苦しんで能力を身につけないといけない。これからやって、最短距離で仕事になりそうなのは英語かイタリア語だけど、そのどちらも、まだ、全身全霊をかけて打ち込むほどの魅力を持っていない。でも、きっと魅力というのは、「打ち込み始めた時」に初めて姿を現すものなのかもしれない。

でも、初めに打ち込めなかったらやっぱりだめだから、そもそも自分にとって「とんでもなく魅力を持っている」ということは大事である。insanely greatではないが、insanely attractiveであることが大事なのである。なんでだろう?たぶん、ひとつの分野で突出するには、他の人をやっていないことをしなければいけないからだろう。そして、他の人がやっていないことをみつけて、やるのは、すごく「めんどくさい」のだ。自分がそれにぞっこんでないかぎり、絶対に見つけられないものなのだ。

 これは自分の今の趣味のジャグリングにも言える。ジャグリングは、今は趣味だ。全くの、趣味だ。お金をもらったことだってあるけど、今は趣味だ。でも、これをやっぱり仕事にしたい、となると、何か越えなきゃいけない「峠」がある。そしてその峠を越えるには、それ相応の「ジャグリングへの恋」をしていないといけない。

 語学では、たぶんもうその峠が来た。そして、この峠を、今後3、4年くらい同じペースで登り続けたら、たぶん何かの道がひとつ開ける。見たこともない、「分かるのが普通」、という域に入る。そう信じてやれば、きっとそうなる。信じる所からしか、面白い道は始まらない。「そんなの、まちがってるよ」と人に言われても、屁でもない。なぜなら、未来を知っている人は誰一人としていないから。自分が「これがいいんだ」と信じるところに、跳躍があって、それが「スゴい」か「スゴくない」かの境目になるんだと思う。

 今何をがんばったらいいのか、本当に分からない。だから、とりあえず全部頑張っている。それに損はない。たまにばてて心まで悲しくなるけど、寝ると治る。頑張らないで虚しくなるより、だいぶいい。頑張りたいことがあるのに、それに目をつむってとりあえずの快楽に身を落とすことほどあとあと後悔することもない。

今これを書くことで、ストレス解消になっているのかもしれない。
書くことって、自分の頭から何か、溢れ始めたときに、一気に、ドッと書けるようになる。逆に、自分の頭がすっからぽんか、良くて8分目くらいの時に何か「書こう」としても、絶対に書けない。無理して放り出す感じは、いらいらする。

頭には、「エンジンがかかる時」がある。

そのエンジンのかかるときは、上級者はコントロールできるのだろうけど、普通は、ランダムに訪れるから、それをぱっとつかまえて、その場でだーーーーーーっと書き上げるすべを身につけるしかない。

そのうち上級者になれたらいいな、と思う。そのためには、きっと「プレッシャーがかかる」ことがいい。もぎさんみたいに予定にサンドイッチにされてるようになれば、自然ひとつひとつやることの馬力が跳ね上がるはず。だから、わくわくする予定を、あえていっぱい入れちゃって、無理してそれまでに仕上げるのがいいのか、と思う。

だからとりあえず今日はもう少し頑張ろう。