2018年1月26日金曜日

歳をとるとバク宙ができない

祖母が入院している。
思うのだけど、人は歳をとると、たとえばバク宙ができなくなる。
それは両親を見ていてさえ思う。
人は歳をとるとバク宙ができない身体になる。

今僕は26歳だ。

バク宙ができる。
ブレイクダンスをやろうと思ったら、すぐにでも練習を開始できる。
そして僕はいつか歳をとってウィンドミルができなくなる。
そのことを言葉で想像することは容易だが、いつの時点から、どのようにしてできない身体への変化を始めるのか、それについての具体的な知見は、持とうにも持てない。
いつまでが期限なのか知りたいと思っても、賞味期限のように身体のどこかに書いてあるわけでもない。

僕はそのことについて、「ふうん」と思う。
毎年毎年、僕は初めてその歳になる。
毎日毎日、僕は歳をとる。
今も、キーボードの一打一打に自分の人生を使っている。
バク宙ができなくなるまでの残り時間で、自分の考えを述べている。

でも僕は、歳をとることを、残念だと思ったことがない。

「それは君がまだ26歳だからだ」と人は言うだろう。

しかしこれからも僕は、自分が、あらゆる可能性を若い時代に置き去りにしながら成長していることについて、決して後悔の念を込めて口には出すことはしない。

80歳を越えた祖母には、どうあがいても、バク宙をする力がない。
僕はそのことをただ、「人は歳をとるとバク宙ができなくなるのだ」と、考えている。

歳をとるのはずるいよね

歳をとるっていうのは本当にいいことだ。そして、ずるいことだ。

僕は今カフェにいて、そのカフェは、前に働いていたところからほど近くにあるので、いろんな思い出がある。
勤務中に、さっと抜け出してきて、ここで本を読んだり、パソコンをぱたぱた叩いたり、ぽかぽかした陽が当たる路地の往来を見たり、とにかく好きなことをしていたこと。
韓国人の友達Sさんに、このカフェで韓国語を習っていたこと。
一緒に働いていたYくんも、やっぱりここに来ていたのだ、とこっそり知っていること。

そういったひとつひとつ、きちんと重みのある出来事たちが、自分は頑張らなくても、勝手に積み重なっていくのだから。

シエナ、というイタリアのとある町に僕は留学していたんだけど、その町は、留学しているときは、まさかこれからの生涯で何度も訪れるようになるとは思っていなかった。
もちろん可能性としては予感されていたわけだけど、それは食べたことのない果物の味を知らないことと同じで、実際の質感をこころの中に如実に現出させることが不可能な事柄だった。

26年生きる、というのはそういうことだし、僕は今、例えば56年生きることを、そういう、食べたことのない果物の味程度にしか想像することができていない。

僕はね、今、30歳を超えるのが楽しみでしょうがないんだ。

いろんなテイストがあるのだ

大学時代の先生のフェイスブックのポストなんかをみていて、ああ、いろんなテイストの文章があっていいのだなぁ、と思う。
別に自分が好きな類の文章や、自分が書けるタイプの文章だけではなくて、それ以外がある、ということの豊穣。 それ以外、があるからこそ自分が際立つ、というのではない。 それ以外はそれ以外に確固とした固有の価値がある、というそのことがいいのだ。
それ以外、を、自分の価値観を際立たせる道具というか、「それ以外」に分類してはいけないのだ。
それ以外、は、自分以外にもちゃんと意識のある人間があること、僕以外が哲学的ゾンビではないこと、そこに、自分以外の一つ一つの26年分の、そしてそれ以上の、それ以下の、それぞれの一回しか経験できないそれっきりの人生があるということを思い起こさせてくれる、そのことが言われのない喜びをもたらすのだ。

行き場のない「話したい欲」を

 今日はずいぶん億劫な気分だ。

 外に出ても気分は晴れない。こういう時、自分は、誰かに話しかけたいのだ、ということも知っている。でもそれは、誰でもいいから話しかけたい、とか、ああ、あの人に会いたい、とかそういう気分ではないのも知っている。
 人からそういう気分が移ることもある。

 人はSNSでその気分を払拭しようと、いいね!をつけあい、誰かからメッセージがきていないか、ひっきりなしに確認してしまうのかもしれない。

 僕は、チェブラーシカに出てくるワニのゲーナを思い出す。
 チェブラーシカに会った時、ゲーナは寂しそうだった。
 でもチェスの駒をバラバラに散らかしてしまいたくなるようなさびしさは、ひょっとすると人生において大事な時間なのではないか、という気もまたするのだ。
 だって、その方がはるかに自然だもんね。