2022年7月3日日曜日

たちが悪い

 ここ数日、家にノミが発生していて、その駆除に追われている。実を言えばそのことで随分疲弊している。連日掃除機をかけて、洗濯できるものは少しずつ毎日洗濯して、撒ける薬剤は撒いている。

 それでも、数日対策したくらいだとまだピョンピョンと跳ねるノミを見かける。憎らしい感情が込み上げる。やれることをやるしかないので、日々掃除する。

 でもおかげで、掃除が毎日できる。逆に、今まであんまり掃除してなかったなぁ、と思う。

 ノミは本当にたちが悪い。痒さも蚊の3倍ぐらい。それが長続きする。ようやく収まってきたけど、刺されて2、3日は夜も寝づらかった。

 ゴキブリなんか可愛く思えるぐらい、ノミは本当にタチがわるい。

2022年7月2日土曜日

ベトナムコーヒー

  今日の朝方、とてもやりきれない気分だった。何を希望として生きていけばいいのか全くわからないような気持ちになっていた。とりあえず外に出た方がいいだろうと思って、外に出た。バイクに乗って配達をしたけど、それでもあまりよくならかなった。むしろひどくなっているようだった。急遽友達を誘って、昼ごはんを食べた。ベトナム料理を食べた。生春巻きと鶏肉のフォー。とても美味しかった。食後のジュースとベトナムコーヒーも美味しかった。

 コーヒーの底に沈んでいるコンデンスミルクみたいに、やりきれなさというのは、いつでもそこにあるなぁと思った。嫌な思いなんてない、と思っている生活も、その上にブラックコーヒーみたいに乗っているだけだ。時々溶かして一緒に飲むしかない。

 でも食後のコーヒーを飲む頃には、生々しい気持ちは去っていた。ありがたい。そのあと、どこに行くかもよく決められずとりあえず生活綴方の方に移動した。そこで店番をしていたなかじまさん、もふもふさん、女性のお客さん2人と、パピコを食べながら話し込んだ。お客さんのうちひとりは近所に住んでいる、というから、今後もまた会うかもしれない。

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 文章によって、やりきれない時の感情を伝えることはとても難しい。というかそもそも、「伝わる」ということがない。あくまで、文章によって、受け手の脳の中に情景を喚起することしかできない。

 だからこそ救われることもある、と思う。

2022年7月1日金曜日

コロナ禍で実は僕はちょっとホッとしたんだ

  先ほど、チェコ共和国で開かれる「ロストチュ・フェスト」というフェスティバルのウェブサイトを見ていた。僕は2017年にこのフェスティバルに参加したことがある。その時は日本人のジャグラーの友人2人と一緒だった。その直前にポーランドで開かれていたイベントのEJCから流れてきた人もたくさんいて(僕らもそうだった)、とても楽しかった。

 今改めてウェブサイトを見て、楽しげな参加者たちが映る写真をスクロールしていると、やっぱり行きたくなってくる。ヨーロッパにいるときの夏の空気を思い出す。本当に、まるでその場で、匂いを嗅いでいるような気がしてくる。それはそれは美しい思い出である。

 今年だって、別に行こうと思えばどこへでも行ける。ただ、高い。往復で20万円前後だ。これは、今までの感覚からすると、ずいぶん高い。

 しかしいずれにしても今行くのは違う、と感じている。そりゃあ、行ったら楽しいだろう。でも、どこか消費的な旅行になってしまうとも思う。

 そしてはっきり言えば、僕は今までどこか消費的な旅をたくさんしてきてしまったと思っている。

 お金をやたらに払ってきた、というのではない。2018年にはフランス、イギリス、ポルトガル、フィンランドと4カ国を巡ってヨーロッパに45日間滞在したが、航空券、イベント参加費、宿泊費、食費全てトータルで20万円も使わなかった。だいたい、僕は人の家に泊めてもらうか、安いゲストハウスに泊まっていた。友達もたくさんできたし、宿にいた知らない人と仲良くなったりもした。旅のことを文章にして書いて、それを読んでもらった経験もたくさんある。

 とはいえ、基本的に僕は持ち出しで旅行をしているわけで、お金以外にそこで得たものもたくさんあるとは言っても、やはりその金銭的な損失を埋めるためにやったのは全然関係ない仕事ばかりだから、それがバランスを欠く行為であるように思えていた。

 僕はその部分が気になって仕方がないのだ。

 すべてが血肉になっている、という実感を持って家に帰りたい。「ああ楽しかった」だけだと、最終的に空虚な感じが残る。国なんか出ないで、自分の持ち場で淡々と自分のことをこなしている人に対して、萎縮してしまうような気持ちになる。

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 僕には夢がある。それは、どこの国に行くにしても、その国に行った時に通じる主要な言語を、大体不自由なく喋れる状態で出かける、ということである。もちろんその程度でその国や人を知ったことにはならないんだけど、対等に接するための道具を最低限持っていたい。そういう気持ちを動機にして、言葉を勉強したい。

 言葉に限らず、今まで僕は、勉強や反省もそこそこに、中途半端な状態で海外にばかり行っていたなぁと感じる。外国に行きたい、という欲があまりに強すぎて、じっくり前準備と後の生産に取り組まないで、次々に出かけていた。

 「行けるならなるべく多くの場所に行くべし」という強迫観念があった。

 そこへきて、コロナ禍で実は僕はちょっとホッとしたんだ。ああ、これで、海外に行かなくても自分自身に言い訳が立つ。「何かを逃している不安」を埋めるための旅行をしなくて済む、と思ったのだ。

https://roztocfest.com

2022年6月30日木曜日

ちいさいワープロ

  iPhoneをちいさいワープロだと認識して使う。消費者であるより、生産者でありたいと切に思う。無心になって画面をすいすいしていたことにハッと気づいて、あ、今幼児みたいに画面にかじり付いてたよ、実に情けないな、と僕はよく思う。メガカンパニーの戦略に、完全に体も心もハックされているよ、と思う。

 すべては生産という名の抵抗をする手段だと、襟を正せ。インターネットは、侵略戦争なのだ。サービスが無料である時、企業にとっての商材はユーザー自身である。

 自分でつくることは、抵抗である。オフラインでむちゃくちゃ作って、ただそれを広げるためにだけ、電信網を使うこと。

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 絵を描く行為と文章を書く行為とが、僕の中でシンクロしている。決まったサイズのキャンバス/文字数の中に、自由に形を描き/書き出す。「ハガキ大一枚」という制限があれば毎日スイスイ絵を描いてネットに載せられる。同じように、文章に関しても、自分が心地よいと思える文章を制限付きでとにかく書いて、それを次々に発表することが最高の練習になるはずだ。

 では僕にとっての文章を書く上での制限は何かといえば、「発表をする」という行動が一つの制限性の付与である。書き終えて「公開」ボタンを押す、ということが一個のピリオドだからだ。

 僕は、書くという行為によって、意識して作品をつくりたい。なぜなら僕はこの技術を一生かけて伸ばしたいからだ。

 繰り返すが、文章を書いたら、ある程度の緊張感を持ってひとつの「作品」として人に差し出すこと。これが重要だと考える。なぜか。それは、人に差し出す、ということが、「気取り」と「背伸び」を促すから。

 技術を伸ばすというのは、毎日ちょっとずつ、その支配領域を押し広げることである。そのためには、自分が自然にできることの、ちょっと先を見据えて、そこに辿り着こうと毎日試行錯誤しなければいけない。だから、小さくてもいいから作品にして発表することで、背伸びをするんだ。ちょっとだけでいいから、周りを意識するんだ。「どうせ大したものじゃないから」じゃダメだ。誰かから見たら大したものじゃないかもしれないけど、少なくとも自分にとっては面白いもの、大したものを作ってやるつもりでやることが大事だ。「気取らなさ」と「いい加減」を混同しちゃいけないよな。

(「森の生活」 6日目)

2022年6月29日水曜日

なんのための早起きなら

 一昨日の夜、クーラーをつけずに寝た。扇風機は稼働させていた。しかしとても寝苦しかった。勝手に朝早く起きた。ただ、それで一日の動きが鈍かったわけではない。むしろ快調だった。時間に余裕があった。掃除や仕事が、さっさと終わった。気分がよかった。
 昨日の夜はクーラーをつけて、時間としては7時間ぐらい寝た。でも身体が冷えて動きが鈍い。
 さて、今日の夜はどうするか。

 6月の頭ぐらいに、自分で本棚を作った。

 もう一個同じものを横に作ろうと思っている。だが作業は進んでいない。木材が部屋に立てかけてあるままだ。棚を固定する「棚受け」にするための木材がない。買ってもいいんだが、自分で作ってもいい。でもそれほど高いものでもないからさっさと買ってもいい。

 お金を使うことに罪悪感を感じる。それはお金がないから、というより(まぁそれもそうなんだが)、お金を稼ぐのが面倒だから。

 部屋の掃除、整理、改装をこまめにしよう、と今は思っている。そのための早起きなら習慣になりそう。

2022年6月28日火曜日

早寝早起き、朝執筆

 毎日何かを書きたいと思う。でもいちいち書く内容について決めるのは面倒だ、と思う。

 だから、日記という形を媒介にして毎日書く練習とする。日記ならば、とりあえず書き始めることができるからである。書き始めることができれば、あとは自然と広がっていく。無理に広げようとして広げるのではなくて、自然と広がるというのが理想だ。

 そういう意味で、とりあえず書き始めることができる、というのは、創作において何よりも重要なことだ。僕はまた、こんなふうにして、さも創作というものがなんたるかを知ったふうな口ぶりだ。でもそれでいい。自分を卑下しちゃいけない。僕はこう思うんだ、ということは真剣に言わなくちゃいけない。責任を持って断定することは、信頼の基礎である。受けて立つよ、ということは態度で示せ。

 日記を書くのは、一日の動き方を反省する時間でもある。できる限りこれは朝に書いたほうがいい。朝たっぷり時間をとって書くためには、早起きしなければならない。ということは、早く寝なければならない。だから、あんまり夜遅く人と会ったりするのも控えなければならない。そうそう、こういうことを自分の意識にのぼらせておくために、日記を書く。

 昨日も朝からむさしの森珈琲に行った。連続3日目。今これを書き終わったら、また行く。昼過ぎに森を出て、少しウーバーしようと思った。でも暑すぎて全然やる気が出なかったからパス。昼ごはんを白楽の中華屋で食べる。麻婆茄子定食とミニラーメン。店内は賑わっていた。それから綴方に行ったら、砂田さんがいた。最近起きていることについて話した。本屋の二階に行くと、知っている人しかいなかった。集中して仕事をしていたKさんとも話す。僕の本を持っていたので、サインする。嬉しい。結局夜まで二階にいた。にゃらやのにゃらさんと他数人でホルモンを食べに行く予定だったが、日付を間違えていて、本当は明日だった。家に帰ったら、カップラーメンを食べて寝た。

 夜に無性に寂しくなることがある。それも、さっさと寝て次の日朝早く起きて自分のことをたくさんやれば解決する。ことも、知っているのだが、いつでもできるわけでなく、まぁ、こういうふうに書くにとどめておく。

2022年2月12日土曜日

そうすると、すこしだいじょうぶ

 言葉にする意味があることが見つかった。といっても、誰か第三者のために役に立つ意味を見つけたのではない。ただ自分にとっての意味がある。気がしているだけ。
 気持ちがぐらぐらと煮えているときは、とにかくそれを線の上に広げてみるしかない。不安や、期待や、後悔や、焦りや、いろいろな気持ちが一緒になって目の前にある。まいったなぁ、という感情がある。それは、たとえば大学の友人と一緒にカレーパスタでも食べてる時は、窓の外の景色みたいになる。でも、「じゃ」と言ってカブに乗って発進した途端に、まいったなぁ、という雲がまたやってくる。自分では処理できない感情が自分の頭の中に、形を持たない状態で存在していると、突然空を覆う雲のように、蘇ってくる。だから雲を言葉にして、自分に宛てた手紙にしておく。そうすると、すこしだいじょうぶ。

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 自分の描くもの、書くものなんて全然見られていないだろう、と思う。でもふとしたタイミングで、ああ、見られていたんだ、と突然わかったりする。そういうもの。びんに手紙を入れて投げる、という行為はそういうこと。
 僕は人に宛てても実際に手紙を書くべきじゃないか、と思っている。
 実際に手紙を書いてもいいし、とにかく、きっと、見ていることが僕にはわからなくても、伝わると信じて、とにかく書くだけ。それがその宛先の人にとっていいことなのかどうかも、僕にはわからない。ただ書いたり描いたりするしか僕には手段がないし、直接話すよりきっといいことなんだろうと思う。
 人は、人を前にしたときに、正直な自分の感情を、話し言葉、というツール一つで伝えきることなんてできないだろう、と思う。それは楽しいけど、探り合っているだけで、不安も多かったりする。だからいろんな方法で試すしかない。対話になるのかどうかもわからない。やたらな手紙なんて、ただ迷惑なだけなんじゃないか、という気持ちだってある。でも僕が雲に流されるよりは、少しでも、樹につかまって、流れていかないように、これは僕なりに自分を守る方法としてでもある、誠実に手紙を書くしかない、と思う。

※※※
 こうしてオバケみたいな雲にクラクラしているのは、別に、誰か、人が悪い、というのでは決してない。根底には本当に、何かが好きだ、とか、そういうよい感情しかない。ただ、生きてるとこういう自分ではいかんともし難いことが起こるな、と、それだけ。
 ただその恐怖心を、わ〜〜〜〜っと叫ぶことの代わりに、じゅっと抑制して、本当にその人のためになることに使わないとダメだな、って思うだけ。
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 決めるべきことが多すぎると、圧倒されてしまうね。そういう時は、ひとつひとつ、少し目を瞑りながら、スッと押していく。