2024年2月2日金曜日

はと、ねこ、少年

 6時起床。目覚ましは6:30だったが、鳴る前に起きる。公園についたのは6時半。ハトがホホーコーコー、と鳴き、公園に接している保育園の中で、黒猫と白猫がいる。まだ暗い。45分くらいから明るくなる。
 カスケードから始める。ボールが冷たい。なんとかならないか?少し高く投げる。落とす。これは一個練習だな、と思い、一個で背中のうしろ、首のうしろなど。それから少し5ボール。高いトスがちょっと楽になっている。ディアボロも15分だけ。トイプードルとポメラニアンが通った。1ディアボロが楽しい。小5くらいの少年が、サッカーボールを持って自転車に乗って練習しにきた。ともに練習する感じ、良い。お腹が痛くなってきたので7時5分に退散。30分はやるのがいい。

2024/02/01

2023年1月17日火曜日

落ち着きかたがわからない

 noteだと書きづらいことをこっちに書いたりしてみたりして。坂口さんの日記を久々に読み返していて、彼の「読者が4000人」という箇所を見つける。そうか、僕もその4000人のうちのひとりだけど、彼でもそれぐらいの数の想定が妥当なんだ。僕だって結局そのあたりを狙っていけばいいと思った。いや、その大きさを狙うというのではない。ただ、自分が把握できる数の読者、鑑賞者がいる、というイメージをとにかく持つということである。現時点で僕が書いたり描いたりするものには、20人ぐらいのアクチュアルな鑑賞者がいるような感覚がある。多分間違ってないと思う。これを、このイメージを保ったまま、さらに自分自身が面白いと思うことをとことん追求してみる、ということだ。まず第一に、鑑賞者としての自分自身がいる。その後に、自分と共振するような鑑賞者がいる。そういう順番である。そしてその絶対数は全然多くなくて、むしろ少なくていいから、その人たちを裏切らない、そこに存在していることを意識しつつ自分を裏切らない、という感覚、そこに関しては楽をしない、という感覚が大事だろうと思う。

 でもそれは、苦しんで、努力して、という話でもない。苦しんでいいものが作れるんだったら苦労はないのである。そうじゃなくて、具体的に作品、と呼びうる形にするための労力を惜しまない、その方向づけを誤らないよう、そこだけ慎重になる、ということである。

 今僕の手元にあって、作品になりそうなものって何があるだろうか。

  1. 『ジャグラーのぼうけん』二巻以降。
  2. PONTE BOOKSのシリーズ。(『投げないふたり2(仮)』など)
  3. ペン画のシリーズ、本にしてみたい。展示がしたい。
 本当にまとまりのないことばっかりしてるな、と思う。落ち着いたらいいのかもしれないが、僕にはそもそも「落ち着きかた」がわからない。

2023年1月14日土曜日

ホイ

  まだ何か書きたがっているので出してあげる。noteの方で、これは毎日書いているのだが、今日は特にばーっと文章を書いて、僕はこれを読み返したい気分になっている。これは僕の癖で、まぁこんなことを言うのも普通は恥ずかしいと思うんだが、まぁ言っちゃうんだが、僕はすぐに自分の書いた文章を読み返してしまう。自分が何を書いたのか知りたいのである。 でもそんなことしてる時間あったら、まだまだ先を書いた方がいいんじゃないの、と思う。なぜなら、追い求めているものは、常に自分の中にある からである。自分の書いたものも、娯楽として消費し始めたらもうすでに他者の考えになっている。それは自分の中にあるものではないのである。

 言いたいことなんて山ほどあるのである。だったら、それについて考える、と言うより、どんどん言いたいだけ言わせてあげればいいのである。僕は何か言いたいことがあるときというのは、すぐに人に会いたくなってしまう。でもそれを、何かこうして書いたり描いたりすることにうまく昇華していければいい。とにかくおしゃべりなのだ。

 どんどん出てくるものを、そのまま川の流れのようにドバドバ出していって、それ自体が何か相対として意味を持ち始めるようなのがいい。個々の意味にあまりこだわるのは、どこか違うような気がしている。言葉の使い分けをしたほうがいいような気がしている。

2022年11月25日金曜日

まさつはいやし

イギリスから来ているノービと、だいごさんと待ち合わせ、白楽から妙蓮寺のツアーをした。
恒例のサリサリカリーを食べる。パキスタンカレーだ。身の上話に夢中であんまりカレーの話はしない。
白楽の商店街を歩き、そのまま僕の家まで来てもらう、にゃんにゃん猫と戯れる。それから本屋・生活綴方を案内する。ノービは僕の書いた本を買ってくれた。
ノービは今回、僕の絵のデザインのTシャツを(勝手に)作って僕にくれた。とても嬉しい。本ぐらいあげてもよかったが、買ってもらうことに意味があるような気がした。
東京に移動し、駒場に『未来の原画』展を見に行く。東大のキャンパスには銀杏の実がたくさん落ちていて、匂いが漂っていた。先端技術研究をしているあのキャンパスには、行ったことはあって、でもよく見たことがなかったが、建物が非常に美しい。改めて感心する。
いい展示だった。以前展示を見に行ったことのある荒牧悠さんと会えたのが、非常に嬉しかった。会うと思っていなかった人に会う、って本当にいいものだね。

しばらく英語を話していなくて、いろいろ、ノービに言いたいことがパッと出てこなかった。僕は英語を文面で毎日触れているけれども、発話は全然していない。ジャグリングの映像ばっかり見ていて、ほとんど自分でジャグリングをしていないのと同じようなもの。もうちょっと運動としての英語、その他の外国語を日常的に取り入れなきゃな、と思った。と言っても、必要がないとなかなかそれも難しいのは知ってるんだけどね。それでも、いろいろな話をする。少し、気が楽になる。全然考え方が違うからだろう。そして、それもアリなんだ、と実感があるからだろう。僕は、人に会うことによって、そしてあった人の在り方を見せつけられることによって癒やされている。全然違う人と摩擦が起きることによって、癒やされるのだ。摩擦は、癒やしだ。

だいごさんともまた、すこし緊張感のあることをしたら癒やされるのかもしれない。

※※※

僕はいま「ジャグリングの世界」そのものに別に関心を感じていないんだけど、それを肯定してくれる人がいる、というのはなんとも心強いことである。

2022年11月24日木曜日

教えながら学んでいる

 今日は昨日と比べて特別書きたいということはないのだけど、一旦意識を解放する。10分間ぐらいかな。素振りはなんたって毎日、定量が大事である。やることが多岐に渡っていて、でもそれは悪いというのではないのではあるが、なんだか、まとまりがなくて嫌だな、という時もある。ざっとあげるだけで、翻訳を二人から定期的にもらっていて、文字起こしのバイトをもうかれこれ6年間ひとつの事務所からもらっていて、それに加えて最近は毎週逗子に行って中学生に英語や数学を教えていて、納得できるぐらいまで絵を描き、そして2月の台湾に向けてジャグリングのことを考えている。その合間にいろんなイベントが入ってくる。断ればいいんだけど、なんだか僕は、基本的にはイエスマンなので、どんどん予定を入れてしまう。それでいて、もう一冊本を書こうとしていて、その合間で、今まで溜まった原稿をまとめようとしている。外国語のメンテナンスだってしているのだが、でも、こうして書き上げてみると、大したことはない。じゃあ何が邪魔をしているのか、と思うが、きっとそれは迷い、である。迷いなく次から次へと、とりあえずやらないといけないとわかっていることをどんどんやっていれば、勝手に終わっていくのである。多分今の半分の時間でできる。今日だって、絵を書くのは夜にしようと思っていたけど、そんなことを考えながら、もうなんとなく筆をとってしまって、サラサラと描いたら、いつの間にか終わっていた。そういうものである。怖くなる前に飛び込んでしまう、ということが、たくさんの物事をやり切る秘訣である。この文章だって、ああ、今日は書かなくていいかな、と思いながら、もう画面を開いて、描き始めてしまうのである。本当は、今文字起こしをやっていて、今日の夜までに、ということだったので、一分でも早く終わらせたほうがそれはいいのだけど、でも、いや、まぁ、やり始めたほうがいいかも、と思って、パッと開いてしまった。このスピード感が大事なのである。自分が気づくよりも先に始めてしまう、ということである。

今日は二つのことがうまく行った。ひとつは、ジャグリングの演技について、少し先が見えたこと。本当は、全部全部新しい演技を持っていこうと思っていたのだが、それを諦めることにした。ただ、これから先のことをも考えつつ、これが終わりじゃなくて、これから続いていくんだ、というこれから毎日何をするのか、ということを考えて、発展の予感は、頭の片隅に置いたまま、自分が一番安心できるセットは何か、ということを考えていくのだ。それこそ、もう時間がない。体育館もとっているけど、現実的には、あと多分10回も行ったらもうそれで本番がくる。となると、なるべく新しいことは少なくして、堂々と見せられるものを鍛錬したほうがいい、と思うのである。もちろん新しいものが見せられたらそれはそれでいいけど、台湾に行って僕がジャグリングを見せる相手は、9割9分9厘が僕のことを知らない人である。自分の中での新しさ、というのは、ここでは価値を持たない、としておく。ただ、自分がイキイキとやれることが大事なので、少なくとも今回に限っては、今までのものにより丁寧に向き合う、ということにする。自分にとっての定番の演目を磨く機会だと思ってやっていく。でもその中で並行して、自分なりに見つめてみたいテーマ、で、演技を作ることもしていく。今日は技術的な練習を主にしていたのだが、やっぱり、アイデアは、技術が先行して生まれるものだと思った。結局僕が見せているのは技術なのである。

そして二つ目、いいことは、なんとなく英語を教えるときの流れができたこと。教科書通りにやればいいや、という結論に達した。今まで、自分なりに教材を見つけてきたり、なんだかいろいろしていたけど、もう、いいや、これで、と思った。でもこれは功を奏して、一冊の本に向き合ってやっていると、これからどれぐらいのことをやるのか、これまでどれぐらいのことをやってきたのか、ということが可視化されるので、多分僕も相手も取り組みやすいだろうなと思った。

これまでの量とこれからの量がはっきり可視化されているというのはいい。やる気になる。もちろんそれがオープンエンドな追求であることはわかっていながら、僕らはやっぱり有限の中を生きているので、一旦区切りをつくて、そこそこ上達した自分を目指して、まずは量を決めてやる、ということである。僕は教えながら学んでいる。

2022年11月23日水曜日

書くための文章と裏切られてもいい期待

 文章を書くという作業の中で、素振りにあたる訓練はなんだろうか、僕はそう考えて、それは、とにかく頭に浮かんでくる文章を、そのまま音のまま、保存するような気分で、こうやって移しとるということなんじゃないかと考えた。僕は自分の思考のスピードに追いつく、という経験を一日の中のどこかでしたがっているんだと思うのだ。だからこうして、ただ書くということを通して、どうにか、何か思念を形にするということをくりかえす。読まれるということが重要なのではなくて、ただ読まれる前の文章が存在する、というような、そういう時間が必要なのである。この文章は読まれる必要がない。それはちょうど、僕があー、とか、うー、とか、そういう、意味をその影に持たないような、言葉以前の呟きを漏らすことと同じで、ただそういう時間が必要なのだ、ということなのである。それは全体性のバランスの回復、ということでもある。つまり有意味なことを生産し続けなければいけないというプレッシャーの、その反対側にあることを、同じくらいの分量なすべきである、ということである。ぼくは今これをiPadにBluetoothのキーボードをつなぐことで行なっている。これはこれで適切な装備だとは思うのだが、同時に、本当は、手書きで何かを書いた方がいいような気もしている。それは、僕の中に、やっぱり「書く」という行為は、文字を、紙の上で引っ掻くというアクションを通して行う、より身体のストローク、圧迫、そういうものを通じて何かを現出させるという状態を通して何か実感を得たいという欲望があるからであろうと思う。時に僕は、量を求める。なんの意味もない、量を求める。それはただ歩きたい、ただ踊りたいただ歌いたいという欲望に似ている、というか、それらは全て同根であって、ただこの所在なさを埋めたいというそういう欲望である。どちらもある、ということが大事である。意味を求められる意識が先行した世界に僕らは普段生きていてそれは人との関係、という中でだけ効力を発揮することなのだがそれとは全く反対の世界にある、自分自身が何か中にあるものを出したがっているその気持ちをただ満たすために存在する行動がやはり僕には、僕らには、必要なのである。公開する、という手続きは、そのプロセスをスムーズにしてくれるきっかけにすぎない。

僕らにはお膳立てが必要だ、友達も必要だ、でもその友達、というのは、つまり、何か自分が感じている欲を、スムーズに外に表出させることができるというそういう意味においての、触媒として求められるものである。でも、日中の世界では、そこには意味が必要とされる。そういう制限の中で生まれるものには、より、一般性があるわけだが、一方で、個人の欲求とは離れている。離れている部分がある。僕は詩が読めない。それとも少し関係している。意味のつながりがなくても、文章を音として、音楽として楽しむことはできる。ちょうど歌がそうであるように。ただそこに、意識の片鱗を記録したものとして、普段とは違う言葉遣いの文章が用意されているというだけでいい。ただ、何かを、文章を書きたいということがあるのだ。

誰を書きたいか、ということ。誰を書きたいのか。何か、誰かを描きたい、というときがある。僕は、自分の中にいる誰かを書きたい、というときがある。それが絵になることもある。僕が絵にして描いている形、その形状は、僕の中にいる誰かである。でも誰かは、形を持っていないからそれに暫定的な形を与えてあげて、ただ、それが僕の中にいる誰かであるということを一旦の解答とするのである。自動筆記と何が違うか。自動筆記が何か僕はよく知らないから、何が違うかはわからない。でも、とにかく大事なのはそこに量があるということである。自分が生み出した量を前にして何かを感じたい、ということ。素振りには癒しがないといけない。意味を求められて生きている中で、意味がない行動を淡々と、でも、そこに量がある、ということにいかに癒しがあるか。僕はそれをよく考えないといけない。考えるというのは、頭の中にある、ということではない。むしろ、頭の中から外に出てくるということだ。思念というものがどういう形をしているのか僕は知っているか?知らない。見たことがない。イデア、というものがあったとして、それがどういう形をしているのかは、やっぱりかりそめの姿を通してしか知ることができない。僕が生み出すものは、ただ、予測変換をどんどん繋げていったものでもいいのか。よくないだろう。それはなぜか。そこには、自分の頭の中にあるものが一切入っていないからだ。僕はただ量を生み出したい、というのではないのだ。僕は、いつでも頭の中に何かを考えながら生きているんだぞ、というその実感を、なんでもいいから具体的に目に見える、指で触れる耳で聞ける舌で味わえる、そういう具体的なものとして知りたいのだ。あるいはこれは誰しもがわかっていることであって、古来より人間がずっと、歴史の中で体現しようとしてきたことであって、人類の歴史から見たら、何も重要なものではないことであると同時に、個人としての生き方の中では、非常に重要な役割を持っているとも思う。混沌を現出させたいわけではないのだ。むしろ秩序を望んでいる。自分が考えていることが綺麗な形に、整った形になって外に出てくることを望んでいる。でも、そうしようと思うと、考えが外にでてくるそのコースをひん曲げたり途中で止めたりして、とにかく面倒なプロセスを通さないと、日常生活で汎用性のある「意味のあること」として出すことができない、ということを知ってるはずである。だから、ただこの、頭の中にある形を、なんとかしてそのまま捉えようとして、こうして推敲をしない生のままの文章という形にしている。この場合の綺麗さ、というのは、思念が頭に浮かんでから、キーボードに指が触れ、それを押しそしてそれが電気的に画面に伝わり、文字となってディスプレイに映される、という時間のずれを通して実現されるものである。この時間のずれ、ということが、1番大事であると同時に、致命的な、想像の躍動感をうしなわせる恐ろしい存在でもある。自分が思った通りに何かが作れるということは、ないのであるが、その思い通り、ということの定義をどう捉えるか、そこには深い海がある。だからやっぱり、全部ある、っていうのが大事だ。こういうふうに、一見したら論理なんかなさそうで、つながりなんかよくわからなくて、人に読ませる気もなさそうな文章が大量に存在している、一方でとても整ったもの、それは、ある意識の中での意味内容の発生からその具現化までに多くの編集を経て、整っているものも、大量にあるという、そのどちらもあることによって、初めて自分にとっての、充実感があるのではないかという感じがある。パンにする以前の生地のような状態も見てみたい、そういうふうに思ってこの文章を書いたんだ、と今の僕には納得させられる。作品になる前の、原料、鉄として精錬される前の鉄、そういうものを、見ておくこと自体が癒しをもたらすのである。へえ、こういうものでできているんだ、って思うからね。あとは、素振りがやりたいんである。運動としての書くこと、というのはつまりこういうことだ。行為としてただ書くことがそこに存在するというのはこういうことだ。「書く」という一つの単語の裏には、たくさんの他の身体的動作が混じっている、ということを常に意識する。そこには、まず紙を用意すること、パソコンを開くこと、場所を選ぶこと、文章が書き出されたのちに、それをどのタイミングで推敲するのかということ、その出来上がった何かを、発表するのか、本にするのか、本にするなら、どの程度気持ちを入れた本にするのか、とにかくそこにたくさんの、「思念を文字にする」ということ以外のアクションが入っている。つまらないだろう、意味ばかりあると、疲れるだろう、意味ばかりあると。僕はそれを自分に対して言ってあげたくて、こんな文章を書いている。自分がしたいことに夢中になるっていうのはつまりこういうことで、全然人から見たら何を言っているのかわからなくたっていいじゃないか、というようなことを、とにかく自分でも呆れるぐらいの量行うこということである。文字起こしも残っていて、明日も早起きしたいし、こんなことをことをしている場合じゃな、いというそういうことも、それも意味に縛られている、というふうに解釈する。やるべきことなんて本当はないのに、やるべきことがあると思い込んだ方が楽になるから、生活の上でそういうふうにしているだけで、本当はもっと向き合うべき感情があり景色があり、感触があり、だって、猫がどういう毛の生え方をしているか、どういう手触りを毛をしているのか、それだけだって、いっぱい味わいたいじゃないか、だのに明日のスケジュールのことを心配しているのも、なんか、全然違うじゃないか。ネットの海に漂っているいいものを見ている場合じゃないじゃないか。見ているんじゃない感じるんだ。感じるのである。感じるためには、ただ書くことだけが必要なこともあるしただ描くことだけが必要なこともある。「見られる」と「全然見られない」、の中間ぐらいに、「意味がすっきりしている」と「意味が全然わからない」の間に、このような素振りの文章があるということが1番バランスがいいかもしれない。少しは期待をしているということだろう。でも、それは、裏切られてもいい期待なのである。

2022年11月11日金曜日

台湾まで 2

 現在昼の二時。今日は、朝に少しボールを投げただけである。投げているだけまだマシで、僕はそんなにジャグリングをする人間ではない。それを受け入れることがむしろ、スタート地点である。「だから諦める」っていうのではなくて、むしろそれを利点にしていくイメージ。ジャグリングにそこまで入れ込んでいないからこそ、の自分に、勘違いに近い自信を持っちゃうイメージ。

 昨日は昼に体育館で自主練。急にたくさん練習し始めたからか、割と派手に肩を痛める。ポイみたいにぐるぐる回していたらピキっときた。その後、少し「本屋の二階」で仕事。下で印刷作業をしていたAさん来た。降りて、少しお茶しながら話。さっと話して、さっとどっか行くのがいい。その後野毛の体育館に移動、YDCへ。以前メンバーとしてよくYDCに来ていたティム(ドイツ人)が遊びにきていたのだ。でも参加人数少なく、ちょっとティムは寂しかったかも。マイケさんという彼女も一緒に来ていた。ティムは日本語話せるが、マイケはドイツ語英語のみで、僕は久々に英語を話す。英語を話すのも、久しぶり。俺は台湾に行ったら中国語で話したい。演技以外にも、ちょっと中国語を真面目にやりたいな、と思っていて、でもそれはずっとただの希望のままで終わっていて、本を借りてきたり、何だかんだしているんだけど、全然それを実行する時間を持っておらず、まぁ、でもあと3ヶ月しかない中で、中国語に時間的なリソースを割くぐらいなら、それをジャグリングの練習に当てた方がいいじゃないか、とも思うし、一方で、ジャグリングよりも語学をできる方が、なんかパフォーマーとして面白くなる可能性、あるんじゃないか、みたいなことも頭の片隅にある。でもそれが中途半端でもしょうがないんで、まぁどうしようかなぁ、みたいな感じである。

 演技について、体育館だけではなくて、外でも考える、というのが次なる目標である。体育館以外で、よく練って、試行錯誤して、それを体育館で試す時間、なるべく体を動かしている、という状態でありたい。こんなのは基本的なことなんだけど、でも、「基本的なことができる」ということ以外に、手を伸ばす方法ってないなとも思う。