2022年10月23日日曜日

全部やる日記 17 大阪のからだ

 一昨日から大阪にいる。北加賀屋で開かれているKITAKAGAYA FLEAというマーケットイベントに生活綴方が出展している。僕はそこで売り子をしている。
 僕はイベントでものを売るのに立っているのがすごく好きだ。それは、初めて会う人と喋るのが好きだからだ。初めて会って10分間の会話、というのが好きなのだ。その後にずっと仲良くなる人も時々はいるし、でも大半の人は、その後別に会いもしないし名前も何も忘れるのだけど、それでよくて、それがいい。
 これはパフォーマンスをする時と一緒だ。パフォーマンスを見せる相手の9割9分は、見せるものを見せ終わったらもう会わない。その刹那にだけ見せる自分の姿というのがあって、見る方もそれを了解して見ていて、それがゆえに成り立っている状態がある。

 お客さんとものすごく楽しく会話できたけど本は売れない、ということだってあるし、特にそんなに盛り上がる話はしていないのに3冊売れる、ということもある。話している相手が、そもそもなにか買いたいかも、と思っていれば、あとはちょっと背中が押されれば買う。それが些細なきっかけでも。逆に、なんとなく店を見て回りたいだけで、お金の手持ちもない人であれば、どんなに話が盛り上がっても、やっぱり買わない。
 こういうマーケットイベントとか、新しいものを求めにくる時に購買において何より大事なのは「体験」の方であって、「店員と話すこと」「貨幣を媒介にしてものがやりとりされるときの快感」の比重が大きい。「モノが欲しい」ということは、基本的にあんまりないんじゃないかという気がする。もちろん結果的にいいものには巡り合うし、中には目当てのものがあるケースだってあるけど(安達茉莉子さんの本なんかそうだ、これ、欲しかったんです、という人をよく見る)基本的には偶然性を楽しみに来ている。
 「偶然性を楽しむ」というのは日常の中にどう楽しみを入れるか、ということについて考える上でのキーワードだ。なんかつまらないなぁ、と思っているときは、「過ごしている時間の中に、偶然性が欠如しているんだ」とおもっていい。「自分が予期していなかった面白いことが起きる」ことと「大体予測がつくルーティーン」が、自分がちょうどいいと思えるバランスで交互にあるといい。これは旅の本質を理解するためのカギでもある。旅をしているときの興奮は、これから何が起こるだろうか、という興奮である。場所の移動はそれを感じやすい。

 大阪に着いた初日に、まず僕は岡本太郎のデザインした太陽の塔を見に行った。これがとても良かった。
 よく晴れていて、その青空の下に巨大な塔が屹立していて、ふもとの芝生をバックに、遠足に来た赤帽の小学生たちが先生の周りに集まっていた。気持ちのいい風景だった。太陽の塔の中には「生命の樹」という展示があって、万博当時の様子が再現されている。なんだかディズニーランドのアトラクションのようであった。1970年には、この中にエスカレーターがあったのだそうだ。
 横浜にいると僕は最近少し憂鬱で、それは横浜が悪い、というのではなく僕の半径10mの環境に何か悪いものがある、ということなのだろうが、僕は全然来たことのない土地にいる間、とにかく、自分自身と対話することなく、ただ環境と対話していて、その言葉にならない感想の中に自分がいる気がしている。
 自分自身と向き合っているうちは、自分なんか見えない、だから鬱っぽくなる。

 自分のことを考えていない時間が欲しいんだ。自分のことを考えていない、ということが、いちばん、自分を生きている、ということだ。

 昨日の北加賀屋のイベントの後、北に40分ほど電車で移動してもう一つのイベントに行った。カレーを食べつつ、渡邉尚さんの倒立&ジャグリング、ヒペさんのマイム(というかなんというか)、板倉さんによる弾き語りを鑑賞する会に行った。会場は鶴橋駅から徒歩13分ほどの、住宅街の奥の方にある二階建ての家のような作りのカレー屋さんだった。駅から走った。
 板倉さんの歌声とピアノと佇まいが良くて、ヒペさんのギャグにすごく勇気をもらって、尚さんのジャグリングを見るのも久しぶりで、自在に動く身体を見ていたらなんだかこちらの身体が軽くなった。じつに不思議な感じがした。一日中駆け回って僕は相当に疲れていたはずなのに、これからなんでもできそうな気がした。
 すなずりのカレーも最高に美味しかった。

2022年10月20日木曜日

全部やる日記 16 「いいのかなぁ」と言いながら

 明日から大阪に行く。今夜の夜行で出発するから、あと数時間したらバスに乗る。
 大阪に行くべきか否か、ギリギリまで迷った。結局、行くことを決め、チケットと宿を全部押さえた。二泊四日の旅だ。
 どうせ決めるのなら早い方がいいんで、決断にかかる時間を速くしたい。その空いた時間で、さっさとやりたいことをどんどん進めたい。まるでマシーンみたいに思い浮かんだことをせっせとやりたい。でも僕には叶わぬ目標なのかもしれない。決めかねている気分をなんとかしようと思って、Sに3時間電話をしながら、ほとんど泣いていた。
 大阪では、行くべきメインのイベントがふたつある。
 ひとつは、「キタカガヤフリー」である。北加賀屋という地区にある古い建物を利用したアート施設のようなところで行われるマーケットイベントだ。ここで、僕が通っている本屋・生活綴方も出店する。だからなんとなく行こうかなと思った。
 もうひとつは、友人の渡邉尚さんが主催するイベント「弾き語りとパフォーマンスとカレーの会」である。キタカガヤフリーとちょうど同日開催だったので、こりゃいいや、と思って、この2つが重なったが故に大阪に行くことにした。
 不安も抱えている。大阪なんかに行っていていいのか。横浜でじっとしながら、仕事をたくさんした方がいいんじゃないか。僕はどうも、選択肢がありすぎる状況が苦手だ。「最適解ではない解答」を選んでしまう確率が高いような気がするからだ。
 もっと、猫ぐらい軽やかでいたい。

 先週末は、3日間、岩手県に行っていた。なんとなく移住するイメージを持ってみるために、アパートの内見もした。安くて立地のいい物件もあって、面白そうだなぁと思った。
 三陸の方にも足を伸ばしてみた。震災後、三陸は初訪問だった。陸前高田には、メモリアルセンターのような施設ができていた。道の駅も併設された、雰囲気の明るい施設である。しかし、その施設の周りを取り囲む、通常では見ることのない広さの人工的な平地が、とても美しく、また恐ろしかった。
 その平地を5分ほどまっすぐに歩き階段を登ると、防波堤の上から海を見下ろすことができる。海はとても静かで、綺麗だった。
 岩手に暮らしたら、それはそれで楽しいんだろうなぁ、とも思うし、いや、これは慎重に検討したほうがいい、とも思うし、両方である。いつだって、決断をするときは小さな決断も大きな決断も、結局「不安なまま」行うしかない。これが僕にはすごくこわい。全然うまくいく確証がないのに簡単には後に引けない選択肢を選ぶ、ということが僕にはひどく難しいことに感じられる。

※※※
 ここまでの文章と全然関係ないが、「愛」を結局「性愛」の形でしか了解しようとしないから、自分のことについても、他の人のことを考えても、苦しむのではないか。もっと、例えば「ただハグする」とかだけでとても豊かになると思うんである。僕はこれをもっと実行しないといけない気がしている。「好きの予感」と「性行為」のその底と天井の、間にある部分をもっと深く研究しないといけないんじゃないか。その間をちゃんと自分の中に取り込むことが、平穏に、かつ豊かに過ごすコツなんじゃないか、とさえ思う。「寂しい」という感情に与える栄養素を、もっともっとふくよかな、温かい、数多い選択肢から選ぶものにしたい。
 僕にはやっぱりこうしてなんでも書く場所か必要だ。

2022年10月11日火曜日

全部やる日記 15 どうしようもなくなるための自転車

 今日は一日、自転車で行動している。バイクよりも寄り道がしやすくて気分がいい。バイクで風を切って走るのは大好きなのだが、時速60kmで走っていると、余計なことを考えている暇がない。気を抜いたらバーンと車にぶつかる(まだそういう経験はしていないけど)。気が散りやすい僕にとってバイクはあぶない乗り物でもある。
 事故にならないよう、バイクに乗っている間の僕は、気を張りっぱなしだ。周囲のちょっとした気になることへの興味も、敢えて閉じるようにしている。だからバイクに乗っている時の僕は、オープンエアで颯爽と街を楽しんでいるようでいて、実はほとんどの物事を見落としている。

 自転車で1時間弱も走ると、とても遠くに来た感じがする。実際に僕がいるのは、いつも通っているカフェだ。バイクで来れば15分もかからないところ。でも受ける印象が全く違う。何かを成し遂げたのだ、という満足感と共にコーヒーをすすることになる。また、帰る時にも少し苦労して帰らないといけない、という予感があって、それがますます、今いる場所を特別に感じさせる。
 これは僕が「旅」に求めている感覚そのものだ。遠くに来てしまっていて、しかも、帰るのには時間と労力がかかる。「日常と離れてしまった」という諦観だ。僕は心配性だから、逆に旅に出たがるんじゃないかと思う。日常の些事にいちいち不安を感じているから、いっそそれに対して「僕にはどうしようもない」状態を作り出したいのじゃないか、と思う。

2022年10月10日月曜日

全部やる日記 14

 演じることについて 1

 2月に台湾で開かれるサーカスフェスティバルに招待されている。なんで僕なんか呼んだんだろう、と思う部分もあるし、いや、やってやろう、と思う部分もある。なんにせよ、不安だ。不安があるから、何か積み重ねている実感がないと落ち込んでしまう。やる気があって依頼を受けているんだけど、自分が舞台に立つ人間であるという事実が遠く感じられている。最後に舞台に立ったのは3年前だ。

 今日は少し研究をしていた。JJFの配信を見たり、他の動画を見てみたり、文章を書いて考えたりする。でも、お客さんの前で何かを演じる、という行為を通してしか、お客さんに何かを見せる技術は磨かれないんじゃないか、という気もしている。だから、自信がなくなっちゃうのだ。そんな経験、これから数ヶ月でそうできるもんじゃないよと。

 でも一方で、いや、これはむしろ、生活の問題なのではないか、という気もしている。

 もっと根本的に考えてみよう。僕はお客さんの前に立って何がしたいんだろう。何か、いい時間を過ごしてほしい、というふうに思っているんじゃなかろうか。人と人としての、ある種の対話をしたいと思っているんじゃなかろうか。

https://note.com/jugglernao/n/ned2f696be393

 2年と少し前、僕は大吾さんと、公園に行って道具を作った。自然の中で道具を作ることが「デトックスだ」と大吾さんが言う。これを、僕は今改めて、いいなと思った。

 ジャグリングの道具を作るという行為は、ジャグリングと関係のある行動だけど、それがもたらしている癒しは、ジャグリングそのものに依るのではない。ジャグリングを介して、人が自然の中で触れ合っている、そういう感覚である。

 その感覚を、より磨くことはできないか、そんなことを考えている。僕はそんな演技をできたらなぁ、と思う。「五感に常に何か不規則な入力がある」ような演技。「演技」と言うからいけないんだろうか。技、というよりも、僕は僕がいることによって、その空間がどこか明るいものになったな、面白いものになったな、とそういう感覚を感じたい、とどのつまりはそれだけなのである。それをより洗練させてやる、というただそれだけのことなのかもしれない。

 ただそれだけ、ではあるけど、一生追い求める課題だ、とも思う。

 ジャグリングから一段降りて、「自分が人に普段見せる姿」について考えている。

※※※

 2022/10/10

 今日は久々に、以前70日間連続で通っていたむさしの森珈琲にきた。よーし、文章を書くぞ、と言うつもりできたのだが、結局動画をみていた。文章はまた、帰ってから、4000字を頑張って書こうと思う。

 やっぱり僕は、方法的に書く、ということをしないといけない。書きたいことはいっぱいあるんだけど、「上手く書けないこと」を恐れて全然書けないでいるのだ。

 絵は、別に無茶苦茶上手くはないけど、毎日書けている。それはやはり、ハガキ大に一日一枚、と定量を決めているからである。文章でもそれをしなくちゃな、と思っている。

2022年10月4日火曜日

全部やる日記 13

 昨日は誕生日だったが、特別なことをする、というよりは、少し遠くまで行くか、ぐらいの気分で、相模原の方にある女子美術大学に、柚木沙弥郎さんの展示を見に行った。いいものだった。駅から遠く離れ、バスで30分ぐらいかかる山の上にあった。通うの大変だろうな、あの大学。
※※※
 久しぶりにイタリアに留学をしていた頃の写真を見た。
 Facebookで「誕生日おめでとう」とコメントをくれた友達のプロフィールを見に行ったら、数枚写真を戻っただけで2011年に辿り着いた。ベルギー出身のおじいさんロブが教室で撮った集合写真だ。僕もよく知っている、シエナ外国人大学の教室である。ロブはにっこり笑って写真に映っている。ロブの周りを囲むのは全員女性で、20人ぐらいいる。ブラジルから来た人、ドイツから来た人、中国から来た人、いろいろな国籍の人がいる。
 僕自身も、周りにいろいろな国からきた老若男女がいる環境に身を置いていた。教室の匂いだって思い出せる。休憩時間によく飲んでいたコーヒーの味だってありありと思い出せる。自動販売機で1ユーロのコーヒー。プラスチックの容器に入って、プラスチックの小さなマドラーが付いている。少し化学的な味がする。

 初めてシエナという町に着いて、何があるのか確かめに行こう、と言って友達と夜中に寮を出てぶらぶらした。国立のワイン醸造所まで歩いて、そこを取り囲む城壁に座って、パーティを眺めた。
 台湾から来たリャンウェイが帰る日には、一緒に寒い寒いと言いながら、城壁の上をぐるっと歩きつつ、ビールを飲んで過ごした。
 全てが新しかった。出会うものひとつひとつに喜んでいた。人と仲良くなったり、喧嘩したりした。
 秋らしいスッキリした晴れの気候が、ヨーロッパで過ごした記憶をはっきりくっきりと思い出させる。シエナは、多少暑い日でも湿度が低いから過ごしやすかった。洗濯物なんか、すぐ乾いちゃったな。
 僕がイタリアで暮らしていたのは19歳だった。多感な時期だったから、あの留学はこんなにも嬉しいものとして思い出されるんだろうか。あれぐらいの年齢でなかったら、鮮烈な喜びは味わえないものだろうか。僕は今でもああいう気分になれるものだろうか。

 僕は希望を抱いている。その気になったら、今でもああいう懐かしい感じを味わうことができるんだろう、と思っている。
 ただ自発性が必要だ。20歳になるぐらいまでは、自分が動かなくても、勝手に、幼稚園、小学校、中学校、(ある人は)高校、大学と、多くの人が進むものとして、とりあえずのステージが用意されている。
 今は、もっと自由だ。自由だから何もしなければ何も動かない。
 
 別に31歳になったから何か一念発起するわけじゃないんだけど、たまたま写真を見ていてそういうことを思った。

2022年10月2日日曜日

全部やる日記 12

 あまり毎日の記憶がはっきりしていなくて、特に書くこともないかなと思うのだけど、書くこともない、と思っている気分の中の、本当にごく小さな、例えばもらった葡萄を食べている時に皮についていたゴミの感じとか、そういうものに時間の経過を感じ取る。それが、まぎれもなく「実際に存在した過去の時間」を象徴しているように感じられるからだ。
 僕は今、最高にやる気がない状態が続いている。惰性のようなインプットしか身体が受け付けない状態になっている。あんまりいろいろなことに興味が湧かない。やらなければいけないこともたくさんあるけど、それに向かおうと思うと、虚脱感がある。寝不足かもしれない。運動不足かもしれない。住環境の悪さかもしれない。何か、自分で小さな一歩一歩を積み上げて大きなことをしよう、という気力が湧かない。

※※※

2022/10/02

 今日は、8時ごろに一度起きたものの、また寝て、10時ごろ起きる。パン屋まで歩く。コンビニで買うドーナツでもよかったのだが、なんとなく、ヨーロッパ的な朝を迎えたくて、徒歩4分のところにあるパン屋で、パンオショコラを買う。ここのパンは美味しい。食べながらぐるっと辺りを一周歩いて、石堂書店で少し立ち話をしてから、(アキくんがきていた)また家に戻る。何をしていたんだろうか。本を読んでいたような気がする。やらなければいけない仕事があるのはわかっていたが、そして普段なら、まぁやるか、とやることができるんだけど、なんだか今日はできなかった。
 僕は休み方を覚えたほうがいいのかもしれない。身体と脳の休め方がいまいちよくわからない。昼に本屋の二階に行って、なんとか今日までの文字起こしを終えるものの、あまりに眠すぎたのでもう一度家に帰る。ぽんちゃんがトコトコと上から降りてきて、ベッドの脇に座って餌をくれないか、という表情でこちらを見ていた。僕は「ぽんちゃん」と呼んで、手を差し出して、するとぽんちゃんは、机の脚に頭を擦り付けながらこちらに歩いてきて、手の匂いを嗅いで、スリッと小さな頭を指先にこすりつけてきた。
 2時間ほど寝た。もう3時半になっていて、あーあー、という気分だが、寝たおかげで多少頭はスッキリしている。もう一度本屋の二階へ。昨日今日明日、と、生活綴方ではイベントが重なっていて、それを目当てにやってくるお客さんで賑わっている。
 結局ほとんど仕事らしい仕事をしないまま1日が終わる。
 銭湯には行った。でも、やっぱり少し、いつもみたいにゆっくり湯船に浸かることはできなかったような気がした。