2022年2月12日土曜日

そうすると、すこしだいじょうぶ

 言葉にする意味があることが見つかった。といっても、誰か第三者のために役に立つ意味を見つけたのではない。ただ自分にとっての意味がある。気がしているだけ。
 気持ちがぐらぐらと煮えているときは、とにかくそれを線の上に広げてみるしかない。不安や、期待や、後悔や、焦りや、いろいろな気持ちが一緒になって目の前にある。まいったなぁ、という感情がある。それは、たとえば大学の友人と一緒にカレーパスタでも食べてる時は、窓の外の景色みたいになる。でも、「じゃ」と言ってカブに乗って発進した途端に、まいったなぁ、という雲がまたやってくる。自分では処理できない感情が自分の頭の中に、形を持たない状態で存在していると、突然空を覆う雲のように、蘇ってくる。だから雲を言葉にして、自分に宛てた手紙にしておく。そうすると、すこしだいじょうぶ。

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 自分の描くもの、書くものなんて全然見られていないだろう、と思う。でもふとしたタイミングで、ああ、見られていたんだ、と突然わかったりする。そういうもの。びんに手紙を入れて投げる、という行為はそういうこと。
 僕は人に宛てても実際に手紙を書くべきじゃないか、と思っている。
 実際に手紙を書いてもいいし、とにかく、きっと、見ていることが僕にはわからなくても、伝わると信じて、とにかく書くだけ。それがその宛先の人にとっていいことなのかどうかも、僕にはわからない。ただ書いたり描いたりするしか僕には手段がないし、直接話すよりきっといいことなんだろうと思う。
 人は、人を前にしたときに、正直な自分の感情を、話し言葉、というツール一つで伝えきることなんてできないだろう、と思う。それは楽しいけど、探り合っているだけで、不安も多かったりする。だからいろんな方法で試すしかない。対話になるのかどうかもわからない。やたらな手紙なんて、ただ迷惑なだけなんじゃないか、という気持ちだってある。でも僕が雲に流されるよりは、少しでも、樹につかまって、流れていかないように、これは僕なりに自分を守る方法としてでもある、誠実に手紙を書くしかない、と思う。

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 こうしてオバケみたいな雲にクラクラしているのは、別に、誰か、人が悪い、というのでは決してない。根底には本当に、何かが好きだ、とか、そういうよい感情しかない。ただ、生きてるとこういう自分ではいかんともし難いことが起こるな、と、それだけ。
 ただその恐怖心を、わ〜〜〜〜っと叫ぶことの代わりに、じゅっと抑制して、本当にその人のためになることに使わないとダメだな、って思うだけ。
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 決めるべきことが多すぎると、圧倒されてしまうね。そういう時は、ひとつひとつ、少し目を瞑りながら、スッと押していく。