僕はこれから、若い時にしか書けない文章を書くのだと思うのだけど、まあとにかく書いておく。あとで見返すと、はー、と恥ずかしい気分になっちゃうかもしれないし、あ、あとで、というのは、その、10年後とか、20年後ですよ。まぁ、とにかく書いておく、で、また、毎日投稿するつもりでいる。日記ですね。個人的な日記を書こうという気持ちです。たまたま、以前仲の良かった人のブログを覗きに行ったら、しっかり毎日書いていて、ああ、これは負けてられないね、と思ったのである。なので、この「考える雑記帳」に関しては、その「負けてられない」を満たすための場所になっていくだろう。
今まではFacebookにそのまんま投稿していたりしたけど、どうだろうね、それをやるべきかどうか。まぁ、こうやって書いてるだけでもある程度の役割は達成していて、別にそれはそれでいいんだけど、それだと「流れ」が発生しないので、流れのことを常に感じながら、やるべきことをその場で判断していこう。
今日の気づきは、朝、それなりに片付けをしてから机に向かうこと。どうしても家で働いていると、「何はともあれ、やらなくっちゃ」と思って、とりあえず机に向かっちゃうじゃないですか。あー、整理されてないなぁ、でも、それどころじゃないなぁ、って。あれ、もしそれが日常の中で習慣として根付いていることであれば、つまり茂木健一郎さんとか坂口恭平さんみたいに根付いている人にとっては「いきなり始めること」っていいんですけど、そうじゃなくて、その日その場の気分で、なんとなく焦って「何はともあれ手をつけよう」という、「覚悟のない」スタートにおいては、むしろ足を遅くさせるんですよね。だから学校の入学式とか、朝の会とか、なんだ、つまり「儀式」っていうのは、実は人間の身体にとって重要な意味を持っていて、心の向きを切り替えるための、つまりスムーズなコースインのための大事な役割があるんですね。
だから、儀式って、「効率」と真逆のように見えるけれども、実は全体的にはかなりクリティカルな意味を持っているんですね。
それで日々の習慣として、「とにかく俺はいきなり始めるんだ」という、それをやったら流れていくなー、という確信があってやってることなら、全然、汚くてもいいと思うんですよ、部屋が。なぜならもうその先が見えてるから。何が大事で何が大事じゃないか、自分でわかってるから。でも、ただただ「ああ、時間がない」みたいな気分で始める「いきなり」って、なんか、先が見えなくて不安ですね。だから結局遅くなるし、楽しくないし、詰まるし、不幸だし、ぼんやりした何かが憎いし、嫌なことばっかりなんですよ。
最終的には、いきなりトップスピードで入れるのがいいと思う。茂木さんみたいな。でも、それは、あくまで、そういう風にする、と自分で覚悟があって、それからのことですね。
いいですね。こういうことに気づく時というのは。
僕たちって、何か、日々いろんなことに気づいていますね。けど、もう、たちどころに忘れていきますね。それはもうとんでもない勢いで、気づいては忘れ、気づいては忘れていますね。たぶん僕は上記と同じようなことを、随所で、今までも書いてると思いますね。絶対。
しかし僕はもうそういう事ばっかり繰り返してきたので、(皆さんもきっとそうですよね)もう「今回こそは忘れないぞ」とか力まないようにしたほうがいいですよ、僕は。どうせ忘れるし、緊張感を伴うことって、長続きしないし。
日記は、なんか気付いたら、開いて書いてる、みたいな状態がいいね。
で、別に日記、起きたことを書くだけじゃなくていいしね。
とにかくその日、どこかのタイミングで、まあ、僕は今「後回しをやめよう」キャンペーンをやってるので、どんなに忙しくても朝が望ましいですけど、朝、書いて、何か書きたいこと書いてを発表して、もう恥ずかしげもなく、Facebookとかにも載せちゃって、どんどんみんなから反応をもらったり、みんなに読んでもらったり、僕が何を考えているのかまずは透明にしていくの、って、楽しい流れの始まりな気がしているのですね。
なぜならこれは、ひとつ、勇気を伴うこと、だからですね。これを毎日やってたら、たぶん、今まで開いてなかった扉が開くだろうね、という確信は、もうあります。なぜなら、これは「今までの自分だったらできなかったこと」だからです。
あとは、人が頭の中をずるずると毛糸を出すみたいに出してるのを見ると、なんか、それを読んだり見た人もそれをやりたくなるからです。まぁ、先に出した、人のブログを読んで自分も何かやりたくなったという、この日記のきっかけだって、同じことですね。
それは、リズムなんですね。他人がリズム良く楽器を叩いてるのを聞くと、自分も体を揺らしたり、楽器を持って参加したくなる、あの感じです。あの感じをやりたい。僕は、いつでも、広場に行ったらなんか太鼓をポカコポカコと陽気に叩いてる、そういう男でありたい。
アウトプットのことについてこのところ考えていたことを思い出した。ああ、そうか、これが野放図なアウトプットですね。この日記が。日々いろんなことを受け取っていて、それを別のものに変換して放出する機械な訳ですね僕は。そのことを忘れるとすぐ鬱っぽくなるんですね。まぁ、これは誰でもね。たまるから。だから、その実践の場としてここがあるんだ、そうかそうか。で、あわよくばみんなもそうやって、たまらないように流していこうぜ、って、誘ってるわけだ。ははぁ。そういうことね。
これこそ僕が今までやらなきゃいけないことだったんじゃないか、という気分ですね。ホントに。今までは、「えー、いいのかなぁ」とか「俺は人に影響を与える能力があるなんて思っちゃいけないんじゃないか」とか殻にこもった、楽しくない言葉を無意識で自分に対して発していたような気がするんですが、そういう憂慮する気持ちを超越した、その裏から始まる、トゥルーマンが扉を開けたあとのトゥルーマンになりたいな、ってことですね。29歳はそういう歳なんですね。
はい、ですから、僕は、扉を開けて振り返り、カメラ(とあなたの目)を見てこう言います。
”Good morning, and in case I don't see ya, Good afternoon, good evening, and goodnight”
深い海に飛び込むような気分だね。