2020年10月28日水曜日

いまのことをかけ(15)

 少しあいたけれども。自分がストレスを受けることについて考えている。怒られるのが極端に嫌いである。指導されることも好きではない。あなたはなんの権利があって僕にものを言うんだ、という気分になる。もちろん自分が悪いことがあれば、謝るし、それについて反省もするんだけど、なんだか僕は、普段から、実は、誰かに怒られやしないか、と内心冷や冷やしているから、それで、逆にいざ怒られてしまうと、なんで僕はこんなに気をつけているのにやっぱり怒られてしまうんだろう、と悲しくなっちゃうんだろうね。人を怒らせたくもないし、イライラもさせたくないのにね。

※※※

最近は、自分の中で、早起きして、自分と対話をする時間を持つ、ということがはっきりできているので、ここに毎日いろいろと書くことが少しバカバカしく感じ始めている。

別にそれほど公開することもないじゃないか、と思うんだろうね。

要するに、自分と向き合うきっかけとして、公開する日記、といういち手段を選んだだけであって、別にこれに拘泥することもないのである。

2020年10月24日土曜日

いまのことをかけ(14)もん

 今日も早く起きた。

このまま励行したいね。

久々の友達と会い、綴方行く。白楽まで歩く。なんだか、付き合いの長い友達ってのはいいもんだね。

2020年10月23日金曜日

いまのことをかけ(13)

 実は一日抜けているのだが、まぁ、しょうがない。

今日はいつもよりも意識的に一日を過ごした。

時間を自分で設定する。

これが続くといいな。

2020年10月22日木曜日

いまのことをかけ(12)

昨日は朝翻訳に取り組み、昼、埼玉から友人くる。

遅くまで起き、今日も遅くまで寝て、桜木町に来て少しだけ仕事する。

誰と一緒にいるかで、景色も、自分がどういう人間であるかという認識も、とにかくすべて変わるよな、と思う。

2020年10月21日水曜日

いまのことをかけ(11)「気持ち」にもいい代謝

昨日のこと。

朝は部屋掃除。昼はだいごさんくる。近所のニュータンタン麺を食べにいく。だいごさんは初ニュータンタン。知ってるかなと思っていたが。

途中からふじくんが合流。少し家で話して、一緒に自転車で妙蓮寺まで。

妙蓮寺で、いつもの、生活綴方。店番の日。今日は作家・川内有緒さんのイベントがある。偶然だがこの日、僕が店番。有緒さんはあいかわらず。といっても、3日ぐらい前に会っているのだが。

19時30分からスタートのトークイベントには、たくさんのひと。

イベントも楽しかったし、そのあとの打ち上げ、小上がりでおでんを食べたのも楽しかった。

もう、落ち込んでない。嬉しいな、ということがたくさんあった。新しい人ともたくさん出会い、そして、期間をおかずしてまた会う、という繰り返し。

「気持ち」にもいい代謝があるね。

2020年10月19日月曜日

いまのことをかけ(10) 雨音が聞こえる室内はいいな

 雨音が聞こえる室内はいいな。

コワーキングスペースの「本屋の二階」で、昼から数時間、ウェブ上で発表される原稿を書く。昨日は朝4時半まで手紙を書いていた。あまり身体が健康ではないことを感じる。マテ茶、ハマる。原付で走ってたら、後ろの原付乗りに「後ろ見なさいよ」と怒られる。しゅん。雨の日はよく見えない。

自信がついたり自信が無くなったり、いろいろである。

自分自身の変化で、世界が全て変わってしまって見えること、ってありますね。これは、要するにちょっと鬱っぽいということなのだろう。

というか僕には多分躁鬱っけがあって、とても悩んでいる人からしたら大したことはないのだろうが、それでも、調子が結構悪い時と、とてもいい時でかなり差がある。まぁ、だからどう、ということもなくもう29年間も過ごしてきたから、本当に、どうでもいいんだけど。

自分のことを把握したがっている。本を読んでは、自分のことに当てはめ、人と話しては、自分の行動に照らし合わせる。

やはり、誰かに怒られる、誰かを不快な気持ちにさせてしまった、と感じることがとても苦手なんだ、と思う。たちどころに自信が無くなってしまう。これは、みんなそんなものなのだろうか、それとも僕が極端に弱いのだろうか、そういうことは、よくわからない。

わからないけど、とにかく、しょんぼりしてしまって、身体に力が入らないようなことが、よくある。

2020年10月18日日曜日

いまのことをかけ(9)本当はそもそも勇気がいるのだ

今日も、書くことでなにかを、呼び起こそうとしている。自分が考えるための文章を書いている。人が読んだところで、大した益にならないことはもちろん予想がつく。
それでも「このことは、実はみんな関係があることなのかもしれない」という一縷の望みがあるから、こうして公表されるような場所に置いてみることになる。
あとは、こういう話を、いったん自分の外に置いてみないと、とにかく、抱えきれないぐらいになってしまっている、というところが一番の理由だろう。



やさしい言葉をかけるなんていうことが自分にできるのか?
という気分になっている。

オレは、どうしようもないくらい不遜で、上から目線で、自分が発する言葉など、誰かの優しさにはなりえないのではないか、という気分になっている。

もちろん、そんなのは嫌だ。嫌だが、そんなふうに思われているんだ、と突きつけられたときに、「自分には断じてそんなことはない」と断言できるだろうか。そりゃあ、ずっと寄り添う、なんてことはできないと思う。いつまでも、適切に、喜ばれるように。それは、できない。たぶん、僕には。
しかし目の前に困っている人がいて、その人に対して、倒すか、支えるか、という二極のバロメーターがあるのならば、いつでも、「支える側」である人間でありたい、と僕は本気で思う。
生ぬるい「一見やさしい」お世辞やねぎらいや褒め言葉ではなくて、本当に必要な真実を伴った言葉で人を支える、力になれる人間だったらといつも思っている。
しかし極力真実を言うことは、基本的に「やさしい」行動ではない。ときにそれは攻撃的である。でも、なんの真実も含まれていない、うわべだけのやさしいことばは、もっと攻撃的で、残虐である、と僕はおもう。それは、この世で最も攻撃性を持つ「無関心」に等しいとおもう。
(でも僕が強い言葉を向けられるとき、それは相手に僕が向けた一抹の「無関心」に起因していたのかもしれない)

僕は、自分から積極的な嘘をつくのがとても苦手である。
別に正義感があって、とかそういうことを言いたいのではない。本当に。
その、とにかく苦手なんだ。嘘をつくのが。目があっちゃこっちゃ泳いで、しどろもどろになってしまう。わらってごまかす、というような結果になってしまう。
だから、どうせバレるので、なるべく本当のことを言うように努めている。

しかしだ。

「なるべく人の役に立てる人間でありたい」と思っていることにまったく偽りはないのに、もしかして、その「嘘をつけない」自分の態度が、まるきり人を傷つけるような力としてしか作用していないのではないか、ととても不安になることがある。



今、もうひとつ思ったことがある。
それは、「思う」ことと「言う」ことには、とても大きな隔たりがある、ということである。
なにかを言ったり、書いたりすることによって、それを受け取った人から不快感を示され、嫌われることがある。
さて、その「思ったこと」を、表現した、すると、それを受け取った人が不快になった、という過程の中で、このとき、一番の原因はなんだったのか。

それはすべて、「それをそのように表現した」ということに尽きる。

「表現がなされた」ということがすべての原因である。
けっして、「そう思っている」こと自体が悪いのではない。
「僕がこのように思うことには、正当性がある」と文句をいっても、それは的を外している。
そう思っても、それを表現しない人がいる。
そう思っても、それを別のやり方で表現する人がいる。
思うことが同じでも、その表現の仕方に差異があり、そして、「表現を受容する」以外の形で、人は他人の考えには触れられない。
結局のところ、その「思うこと」がどのように外界に表出したか、ということでしか、他人の反応は生まれない。
(でも、だからこそ、嘘をつく、ということは、実はとても切実で大事な能力なのかもしれない、といま頭をよぎった)

これはとても面倒なことだ。
人と付き合う以上、いつでも、何を、どのように表現するか、ということにいちいち結果が伴ってくる。

これは、ちょっと、やっぱり、怖いことだな、と一瞬、ひるむ。

そして、そんなもの、自分の力でなんかほとんどコントロールできないように思えるよ。
他人の反応というのは、いつだって不可知だ。うまく行かないことのほうが多いくらいだ。

しかし僕は、その面倒くささを避けて、「それとは関わらない」ことを選ばないようにしたい。

自分の取ったろくでもない行動によって嫌われることだっていっぱいあるのだが、それでも、それを避ける、という結論に至らないように、すんでのところで自分を踏みとどめている。

でも、みんなそんなふうにして、人と関わっていく、という勇気を出しているのだろう、と思う。

僕はただ、諦めないでいよう、と改めて決意をする。
人と関わるということは、みんななんでもないことみたいにやっているけど、誰にとってだって、本当はそもそも勇気がいるのだね。

やはりこの文章は書いてよかったな。
ありがとう。

2020年10月17日土曜日

いまのことをかけ(8)みんなが何かしらでつながっている

 無印の黒糖バウムをコーヒーで流し込んで、書き始める。

・朝目覚めたときに、ぱっと起き上がりたいな、と思っている。

・昨日、大船の本屋さんポルベニールブックストアまで行ってきた。作家の川内有緒さんがいらしていて、書店員見習いをやる、というイベントがあったのである。本屋自体もいつ行こうか、とずっと考えていたから、ちょうどいいタイミングだった。午後4時少し前に入ったが、店内には、僕以外にもうひとり。僕ら二人に向けて、『バウルを探して 完全版』のパネル写真を紹介してくれる。その後だんだんと人が増えていったのだが、書店の関係者がすごく多い。なにかでつながっている人がとても多い。ヨーヨーのユッキーのお姉さんもいらした。(有緒さんの著書『パリでメシを食う。』にユッキーが出てくる)昔ユッキーと練習していた時期があったことを伝える。みんなが何かしらでつながっていることがすぐに分かる場であった。有緒さんも、すぐ話をふってくれるから、色々とつながっていくのである。いいね。

・今日は新宿の方に行って、トレードショーを見に行く。

いまのことをかけ(7)対面で話すことの正しい力学であって

 朝、インタビュー。依頼されて行うインタビュー、ってあまりない。どうすればいいんだろう、とも思うのだが、ふつうに話せばいいはずだ、と思って、あまり気をはらないようにした。


昨日ちょっと言われたことがあって、そのことについてずっと考えている。これは、悲しい、というのとは少し違うのだが、うーん、まだ、こころの整理が追いついてないみたい。しばらく自分の中で落ち着かせてから、冷静に返事をしようと思っている。

容易にひとにメッセージが伝えられることは、いい面もあれば悪い面もあるな、とおもう。そんなつもりじゃない、ということまで伝わる。ということも、ある。人を前にして、そこでは言えないこと、というのがある。これは、別にそこに嘘がある、ということではなくて、それこそが、対面で話すことの正しい力学であって、面と向かっていると言えないだろう、ということ、は、それはそれでいいのである。

2020年10月15日木曜日

いまのことをかけ(6)それが気持ちいい、と思えていれば、最高じゃん、と思う。

 少し早く起きて文を書いている。

「仕事をする」という言い方を改めたくて、いろいろ自分の中で試行錯誤している。

「仕事」という言葉に誇りを持っていたり、これはとても気持ちのいい響きだ、と感じている人もいるだろう。それは知っている。僕自身にもそういう時がある。

ただここでは僕が、今、この、2020年10月15日木曜日午前8時33分に感じていることを書く。

「仕事」という語を使う時、多くの場合それは「嫌なこと」を、それ以外の「嫌じゃないこと」と隔離する意図で使われている感じがする。しかし誰だって嫌なことなんてしたくないじゃないか。わざわざ「さあ、これから嫌なことをするぞ」と自分に言い聞かせてから始めるなんて、愚行じゃないか、と思う。対外的に、これから何するの、と言われて「あ、仕事しようかなと思っている」と言うのは構わない。ここでいう「仕事」はあくまで記号で、記号として機能しているうちはまだいい。しかし「仕事だ」と言って残念そうな顔をしたくない。「仕事」を、とにかく、諦める理由の言葉として使用する症状が蔓延しているのは、どう考えても、社会的損失じゃないか。そこに、自分の力で抗うことを密かに諦めている匂いがする。そこに自分の健康との断絶があるようにも感じる。どうも、ここに流れているのは、気持ちのいい流れじゃないな、という感じがする。気持ちよくない流れよりは、気持ちいい流れの方が、いい。いいよね。

「仕事」という語には、絶対、本来、そんな風ではなかったと思うんだけど、自分ではいかんともし難いことにペースを乱されている感じが付きまとう。他人にペースを握られる、ことを意味しているような節がある。他人にペースを握られると、不安になり、心配になり、鬱々とし、やるせなくなり、怒りが湧く。

自分の裁量で管理する「仕事」がいいんだろうね。他者が制限をかけるのであれば、先回りして、自分から制限を設置しにいく方がいい、ということを思う。それが気持ちいい、と思えていれば、最高じゃん、と思う。

※※※

久々に加藤典洋さんの『言語表現法講義』冒頭を読む。ああ、俺は、この本と、この著者に出会って、文章を書くということに対する態度を一変させたのだった、と思い出した。

「わかったら、何がわかったのかを、考えなさい。」(『言語表現法講義』p.204)


2020年10月14日水曜日

いまのことをかけ(5)やりたいことは山積である。

朝から教習所へ。小型二輪の免許、受かる。嬉しい。教習所では、僕以外に4人が試験を同時に受けた。そのうち、話しやすい感じのオーラを出していた3人がいて、試験が始まる前、緊張するねー、だのなんだの、ワイワイ話していた。やはりみんな乗る直前、ガクブルだったのだけど最後はみんなで受かって、いえーい、と歓喜。そのうち二人は、今日免許センターに行って交付をする、というので、僕も一緒に行った。(二人は電車、僕は別で原付で向かったが)着いたら、もうずいぶんお腹が減っていたので、下のカフェで昼を食べる。いろいろと話す。13時ごろ受付をして、免許を受け取ることができたのは、3時すぎ。いったん家に帰り、そうだ、これは見せに行こう、と思ってタネマキに行く。

やっと安心。別に絶対に必要なわけでもなく、自分で取りに行ってるんだから世話ないもんだが、やはり、一回試験に落ちて、結構まいっちゃっていたので、受かることができてよかった。まぁね、心配事は少ない方がいいですよ。

しばらく放心していたが、また戻ることにしよう。

やりたいことは山積である。

2020年10月13日火曜日

いまのことをかけ(4)なんか毎回驚いてない?

 坂口恭平のアルバム「隕石たち」を流しながら書いている。

一年、本当に早いな、と思う。今年ってあったっけ?ってさ。

1月に撮影された映像を見る。この時はまだ2月以降、世界がどんな風になっていくか知らないんだな、と思う。それで、気がついたら10月である。

それでこれは最近よく言っているんだけど、僕らってさ、なんか毎回驚いてない?

もう29歳になったけど、いまだに僕は新鮮に驚いてるよ。

※※※

昨日は昼まで、なんでかわからないのだが落ち込んでいた。本当に理由はなんでかわからない。突然、部屋にいて、孤独になった。

天気もいいし、何か具体的に悩んでいることがあるでもないし、でも、突然「俺のことは誰も助けてくれないんじゃないか」というような気分になった。

でも、そういうこと、誰しもあるよね。

いかにも暗そうな人「だけ」がとても暗い悩みを抱えてるわけでも、明るい人が「実は」とても深い闇を持っているわけでもなんでもなくて、もう、人類、みな平等に、道路に空いた穴みたいな感じで、突然、ボコン、と落ちるんだよ。

その時に、焦る裏で、「まあでもこういうのはよくあることだから」と思えるかどうかだよな。

あと、「自分には不本意だがやらなきゃいけないこと」があまりに多いと、とても悲しくなるので、そういう時は気持ちよくグレる、ということも大事だよね、と思ったりしている。


2020年10月12日月曜日

いまのことをかけ(3) それこそがまさに「自分に厳しい人」だからね

 これは、なにも誰かに向かって言っているというのでは決してないのだけど。

「自分に厳しい」態度にアテられてしまうことがある。

自分に厳しい、というのは、たとえば、自分が許せない、という気持ちである。極力多くを「自分の意思」の責任とする、という態度のことである。そしてここに「厳しくない態度」が介入すると、全体のバランスが崩れてしまう。それはその人なりのエコシステムであって、というか誰しも多かれ少なかれ持っていることで、ただその大きさが違うだけ、ということではあるんだけど、やっぱり、特にその気持ちを大きく持っている人に対して、「もう少しだけでも気楽になったっていいのではないか」と思うことはある。

しかし、実際にはそういうことを言ってもダメなんだよね。
どこか一箇所、たとえば睡眠時間にしても、仕事のことにしても、なんでもいいけど、もっと楽にしてみたら、とパラメータをいじるよう助言したところで、それはその人の中では「そこを楽にしたらすべてが瓦解しうる」要素になっているのであって、もちろん気持ちは嬉しい可能性だってあるんだけど、そこで素直に「ありがとう、そうする」とは言えないはずのである。なぜなら、それはその一箇所だけの問題ではないからだし、あと、あくまで是非の判断を下すのは自分でないといけないしね。(それこそがまさに「自分に厳しい人」だからね)結果、安易に声をかけたところで、それは受け入れられないことが大半である。

純粋に、この人の助けになれたらなー、と思うんだけど、何もできないなぁ、と感じることって多いよね。まぁ、僕自身がその人の助けであれたらいいな、と結構本気で思っているからこそ、そういうときにやるせなさを感じるのだし、そういう気分はそれ自体、悪くはないけれどもさ。

だから黙って見ていて、もし本当に辛くなったときは、いつでもそこにいる、と思ってもらえている、っていうのが、なんか一番いい距離なのかもしれないし、それはとてもいい関係だ、嬉しいよな、ということを思った日でした。

※※※

昨日はギリヤーク尼ヶ崎さんの大道芸をみた。横浜の大桟橋で行われる、というので、今見なければ次いつ見られるかわからないな、と思って、行った。

彼の踊りそのものにハッとするものがあったというよりは、その佇まいに迫力があった。もう90のおじいさんで、生物としての物理的な力は弱いはずなのだが、この人は全然油断をしていないんだろうな、と感じた。

はじめに車椅子でぐわああー、と登場して、立ち上がり、観客の手を引いてニコニコしながら愉快に歩き回る、というところがあったんだけど、そこにひとつの真骨頂があった気がする。なんというか、福の神が、金色の雲の上を案内している、みたいな、神々しさがあった。

手を引かれている人たちも、なんだか嬉しそうだった。


2020年10月11日日曜日

いまのことをかけ(2) - 「あ、今が気持ちいいな」

少し焦っている。やっておきたいこと、があとからあとから、どんどん後ろに積み上がっているから。こういう状態は、「流れていない」から気持ちよくないのだ、と思うようになってきている。あ、いまやったら気持ちいいだろうな、というタイミング、ってあるね。しかし「でも…」が一言でもつくと、そこから先は、もういかに「やらないか」ということに思考が巡っている。「いまやったら気持ちいい」というタイミングを逃さないで、飛んできた蚊を潰すような勢いで、逡巡をしない、その場の反射神経に任せる、ということかもしれない。

この日記も、そういう感覚で、いま、本当は原稿に取りかかりたいのだけど、今書いておけば今日の分のノルマは達成だよな、と思って、流れが途切れるところまで書いている。空が少し青くなってきた。日がさしてきた。洗濯物が回る音がする。ここ数日雨で洗濯ができなかったが、今日こそ干したい。外で干すか、乾燥機にかけるか。いや、今日は、乾燥機だな。ものすごく気持ちよく晴れているけど、これに騙されちゃいけない。

昨日の夜は、きぞはるさん、ぼぶそんさん、ダイゴさん、僕の4人でオンラインで話した。話はずいぶん長くなり、僕が抜けたのは話し始めて4時間半ぐらい経ってからだった。

今日は、ギリヤーク尼崎さんをチラッと見に行こうとおもっている。90歳の身体で踊る姿を、見られる機会、はこれからそう多くないだろうと思う。

幸い天気もいいし。

そのまま公園で仕事をしてもいいかもね。でも、少し雨も降るらしい。やはり、中に入ろう。

こういうとき、判断基準が「楽しいかどうか」だけになればいいのだが、今は溜まっている仕事があてそうもいかない。つまり、「仕事をためない」ということがまず第一段階である、ということになる。でもそれも、流れができて、「あ、今が気持ちいいな」とわかったときに一気にやり終えてしまえば、溜まることがない、それが故に、次に流れが来たときも躊躇なく乗れる、ということなんだと思う。

2020年10月10日土曜日

いまのことをかけ(1) - よーいどん、とゴールテープが必要なのね

 今日は台風の日だというのに、これから二輪の検定だ。一本橋を渡っている最中に突風が吹いて落ちた場合、やっぱり僕の技術不足ということになるんだろうか。検定を受けたらもうお昼だけど、台風が激しくなるのはちょうどお昼過ぎだという。教習所で待機しないといけないのだろうか。

うーむ。大変だ。

メルマガの原稿が続々集まってきている。予想通りというか、それぞれの特徴が出ていて面白い。何より、「お題をもとに書く」というのがいいんだろうなと思う。ある程度の方向は決まっていないと、創造性っていうのは発揮しづらいものだよ。この「日記」も、ある意味ではお題である。「いま頭に浮かぶことを書け」というお題なのだ。それから、脱線はしていけばいい。「なんでも書いていいよ」っていうのはね、非常に書きにくいんである。「なんでもいい」というのは、実はとてもやりづらいものなんである。「なんでもよくない」お題が必要だ。これは、生きる上でもそうだ。

よーいどん、とゴールテープが必要なのね。

だからこの日記は当面、「いまのことをかけ」というお題でやっていこう。

今、というのは、まさに今、その、投稿画面を開いたその瞬間、ということである。

2020年10月9日金曜日

Good afternoon, good evening, and goodnight!

 僕はこれから、若い時にしか書けない文章を書くのだと思うのだけど、まあとにかく書いておく。あとで見返すと、はー、と恥ずかしい気分になっちゃうかもしれないし、あ、あとで、というのは、その、10年後とか、20年後ですよ。まぁ、とにかく書いておく、で、また、毎日投稿するつもりでいる。日記ですね。個人的な日記を書こうという気持ちです。たまたま、以前仲の良かった人のブログを覗きに行ったら、しっかり毎日書いていて、ああ、これは負けてられないね、と思ったのである。なので、この「考える雑記帳」に関しては、その「負けてられない」を満たすための場所になっていくだろう。

今まではFacebookにそのまんま投稿していたりしたけど、どうだろうね、それをやるべきかどうか。まぁ、こうやって書いてるだけでもある程度の役割は達成していて、別にそれはそれでいいんだけど、それだと「流れ」が発生しないので、流れのことを常に感じながら、やるべきことをその場で判断していこう。

今日の気づきは、朝、それなりに片付けをしてから机に向かうこと。どうしても家で働いていると、「何はともあれ、やらなくっちゃ」と思って、とりあえず机に向かっちゃうじゃないですか。あー、整理されてないなぁ、でも、それどころじゃないなぁ、って。あれ、もしそれが日常の中で習慣として根付いていることであれば、つまり茂木健一郎さんとか坂口恭平さんみたいに根付いている人にとっては「いきなり始めること」っていいんですけど、そうじゃなくて、その日その場の気分で、なんとなく焦って「何はともあれ手をつけよう」という、「覚悟のない」スタートにおいては、むしろ足を遅くさせるんですよね。だから学校の入学式とか、朝の会とか、なんだ、つまり「儀式」っていうのは、実は人間の身体にとって重要な意味を持っていて、心の向きを切り替えるための、つまりスムーズなコースインのための大事な役割があるんですね。

だから、儀式って、「効率」と真逆のように見えるけれども、実は全体的にはかなりクリティカルな意味を持っているんですね。

それで日々の習慣として、「とにかく俺はいきなり始めるんだ」という、それをやったら流れていくなー、という確信があってやってることなら、全然、汚くてもいいと思うんですよ、部屋が。なぜならもうその先が見えてるから。何が大事で何が大事じゃないか、自分でわかってるから。でも、ただただ「ああ、時間がない」みたいな気分で始める「いきなり」って、なんか、先が見えなくて不安ですね。だから結局遅くなるし、楽しくないし、詰まるし、不幸だし、ぼんやりした何かが憎いし、嫌なことばっかりなんですよ。

最終的には、いきなりトップスピードで入れるのがいいと思う。茂木さんみたいな。でも、それは、あくまで、そういう風にする、と自分で覚悟があって、それからのことですね。

いいですね。こういうことに気づく時というのは。

僕たちって、何か、日々いろんなことに気づいていますね。けど、もう、たちどころに忘れていきますね。それはもうとんでもない勢いで、気づいては忘れ、気づいては忘れていますね。たぶん僕は上記と同じようなことを、随所で、今までも書いてると思いますね。絶対。

しかし僕はもうそういう事ばっかり繰り返してきたので、(皆さんもきっとそうですよね)もう「今回こそは忘れないぞ」とか力まないようにしたほうがいいですよ、僕は。どうせ忘れるし、緊張感を伴うことって、長続きしないし。

日記は、なんか気付いたら、開いて書いてる、みたいな状態がいいね。

で、別に日記、起きたことを書くだけじゃなくていいしね。

とにかくその日、どこかのタイミングで、まあ、僕は今「後回しをやめよう」キャンペーンをやってるので、どんなに忙しくても朝が望ましいですけど、朝、書いて、何か書きたいこと書いてを発表して、もう恥ずかしげもなく、Facebookとかにも載せちゃって、どんどんみんなから反応をもらったり、みんなに読んでもらったり、僕が何を考えているのかまずは透明にしていくの、って、楽しい流れの始まりな気がしているのですね。

なぜならこれは、ひとつ、勇気を伴うこと、だからですね。これを毎日やってたら、たぶん、今まで開いてなかった扉が開くだろうね、という確信は、もうあります。なぜなら、これは「今までの自分だったらできなかったこと」だからです。

あとは、人が頭の中をずるずると毛糸を出すみたいに出してるのを見ると、なんか、それを読んだり見た人もそれをやりたくなるからです。まぁ、先に出した、人のブログを読んで自分も何かやりたくなったという、この日記のきっかけだって、同じことですね。

それは、リズムなんですね。他人がリズム良く楽器を叩いてるのを聞くと、自分も体を揺らしたり、楽器を持って参加したくなる、あの感じです。あの感じをやりたい。僕は、いつでも、広場に行ったらなんか太鼓をポカコポカコと陽気に叩いてる、そういう男でありたい。

アウトプットのことについてこのところ考えていたことを思い出した。ああ、そうか、これが野放図なアウトプットですね。この日記が。日々いろんなことを受け取っていて、それを別のものに変換して放出する機械な訳ですね僕は。そのことを忘れるとすぐ鬱っぽくなるんですね。まぁ、これは誰でもね。たまるから。だから、その実践の場としてここがあるんだ、そうかそうか。で、あわよくばみんなもそうやって、たまらないように流していこうぜ、って、誘ってるわけだ。ははぁ。そういうことね。

これこそ僕が今までやらなきゃいけないことだったんじゃないか、という気分ですね。ホントに。今までは、「えー、いいのかなぁ」とか「俺は人に影響を与える能力があるなんて思っちゃいけないんじゃないか」とか殻にこもった、楽しくない言葉を無意識で自分に対して発していたような気がするんですが、そういう憂慮する気持ちを超越した、その裏から始まる、トゥルーマンが扉を開けたあとのトゥルーマンになりたいな、ってことですね。29歳はそういう歳なんですね。

はい、ですから、僕は、扉を開けて振り返り、カメラ(とあなたの目)を見てこう言います。

Good morning, and in case I don't see ya, Good afternoon, good evening, and goodnight”

深い海に飛び込むような気分だね。