2021年4月27日火曜日

ながいつぶやき(108)

美術館に行っていい色づかいを見る。かつて存在した優秀な芸術家を知る。自分もなにかいい色づかいがしたい、とおもう。着るものでもいい。

「静かでおおきな空間」がいつでも使えたらいいな、とも思う。

どこか近所でいい図書館はないだろうか、と思う。

2021年4月25日日曜日

ながいつぶやき(106)「ハマっている」ドトールへ

2021/04/24日記。
少し早く起きる。朝、最近「ハマっている」ドトールへ。あそこは空気の流れがいい。バイクでちょっとの距離なのもいい。絶妙である。大通り沿いなので視界が開けているのもいい。昼まで手帳と睨めっこをしたりした後、妙蓮寺へ。本屋に寄り、同時にやっていた、無印良品のイベントに行き、少し経ったら東京の方にバイクで向かう。作家の川内有緒さんのところの6歳の娘にジャグリングを教えに。
都内の公園でやっているのだが、ちょっと早めに着いたので、カフェに立ち寄って30分ぐらい時間を潰した。そこで、Neutral Colors(ニューカラー)という雑誌の最新刊を読んだ。中には、川内有緒さんが書いた記事がある。そして、そこには娘さんのこともちょびっと出てくる。これから会う人が書いた記事をたまたま読んでいるのはなんだか面白かった。

2021年4月24日土曜日

ながいつぶやき(105)歌を歌うことに似ている。

身体の快と不快をなるべく適切に判断できる人間でありたい。
正しいリズム、と正しくないリズム、はあるか。
多分そこには、「心地よいリズム」と「あまり心地いいとは言えないリズム」があるのみではないか。トン、トン、と、トトトトン、に優劣はない。
リズムとして、自分が感じるものが心地いいか、そうでもないか、ただそれだけ。
※※※
改めて、僕はなんでこんなもの書いてるんでしょうね、と思う。
まぁ、結局は気持ちがいいのだろう。
歌を歌うことに似ている。

昨日はたくさん移動した。
こうでありたい、こうでありたい。

2021年4月23日金曜日

ながいつぶやき(104)今の気分に一番あったものを作る

「今の気分に一番あったもの」をいつでも作りたい。
なんとなく、世の中で通用するのは瞬発的な気分で作り上げられたものよりは、じっくりと、興味がない時にも取り組まれて、苦労して作り上げたもの、と言う気がしてしまうのだが、いや、そんなことはないんだろうな、と思う。本当はね。

でも食べ物と一緒で、「これがベストだ」というもの、ってほんと、ないよな、と思うのである。仕事とかもそうだなー、と思う。食べたくないもの、というのは割とはっきりとわかるんだけど、「自分が本当に食べたいもの」なんてわからない。というか、多分、ないんだと思う。
ついつい、自分に一番あったものを、あたう限りの熟慮の末に、ベストな選択を、と思ってしまうものだけど(実に。わかっててもそう思ってしまうね)人間、大体のことは楽しめちゃうし、まぁ、悪くないな、と感じるんだろうと思う。
それよりはとにかく、前に進むこと、色々と食べてみることが大事な感じがする。そうすれば、次にまた何かが食べたい時に、サンプルの数が多いからである。
一生サンプルを増やす期間なんだ、と思うと、なんだか、もう立ち止まってないで、さっさといろんなことをやろう、という気分になるね。

作るものを決めるときも同じで、とにかく、飽きるまでやる、飽きたらやめる、でいいな、と言うのは、同じだね。

2021年4月21日水曜日

ながいつぶやき(103)

どのくらいまで世界を把握するか、って大事だな。というか、自分はどのぐらいまで世界を把握したいと思って生きているのか、ということを常に自覚していることが大事だ、と思う。

※※※

ものを書くには、とにかく「自分が今書きたいことを書く」以外に、気持ちよくうまく書くことってきっとできないだろう。だからこのブログに関しては、それなりにうまく行く。今、刹那的に感興をそそられたことを書いているだけだから。長丁場の書き物をする場合って、やっぱり、その「刹那」を最大限にその尺で伸ばしてあげる、という工夫がいる。でも同じ感興が延々続く、ということは実際にはないので、そういう書き方から脱却する必要があるような気もする。

だからシステムが重要になるんだろう。

まぁ、言ってないで、いいからやれ、という話でもあります。

2021年4月20日火曜日

ながいつぶやき(102)

昨日、道路を走っていたら自分の人生がなんだか相対化されるようなことを見た。
生きている、というのはそもそも当たり前の前提ではないよなぁ、という恐れ、生々しい実感を得た。

ううむ。

2021年4月19日月曜日

ながいつぶやき(101)

体を動かすのはやっぱり気持ちがいい。昨日久しぶりに、全力で走り回った。まぁ、30分ぐらい、子供たちと遊んだ、というだけなのだけど。

逆にこういう経験をすると、ここ数年間、全力で走る、というのをもう数ヶ月に一回しかやっていないのって、なんか、危機的状況なんじゃないか、という気がしてくる。

※※※

昨日も桜木町のカフェにこもって、淡々と仕事をして、終わったら即座に執筆。

なんか、流れが途絶えているような気もする。本を書くぞ、と思った時に思い描いていた感じとはだいぶ違ってきている感じ、何か、自分はとんでもなくつまらないものを書いているんじゃないか、という感じがしてくる。

でも、一旦間をおいて、少し別の仕事をしてからまた原稿に向かうと、不思議と面白い話を思い出したりする。

でも、正直言って、何が面白くて、何が面白くない、とか全くわからなくなってくる。これは、もうちょっと、時間が必要かもな、という感じもする。

それと、思った以上に、僕は「ざっくりと大筋をまず語る」ということがなんだか苦手なんだ、ということを発見している(まぁ前から知っていたといえば知っていたが)。一度細かい話を書き出すと、もうそこを詰めること、延々と同じ箇所を書いたり削ったり、ということを繰り返してしまって、全然先に進まなくなってしまうのである。

これは、一旦今日、大筋を固める、ということをしないといけない気がしている。

がんばれがんばれ。

2021年4月18日日曜日

ながいつぶやき(100) 人は「知っていることを書く」のではない。

 人に向けて発言をしたいという欲はどこからくるのか? なぜTwitterで僕は何かを呟きたくなるのか? 心の中を省察してみると、それは何かを「創り出したい」という欲に似ている感じがする。
 僕は昔、工作をするのが好きだった。お菓子の箱なんかがあると、それをとっておいて、あとで迷路に改造したり、何か他のものに見立てて使ったりしていた。
 そういうような、「常に何かを作っていたい」という気分と、何かを言いたい、という気持ちはとても似ている。 

 方法とかける時間がそれぞれ異なるだけで、何かを言うということは、本質的には、何かを作る、ということだね。これ、頭の中にあるだけだとダメだなぁ、と思う気持ちが、外に形を持ったものとして現出させる意欲で、その発露である、という点で、一緒なんだ。

※※※

 なんか、くだらないことばっかり書いているなぁ、とたびたび思う。
 でも、それも含めて、もういいや、なんでも、と思ってとりあえずこの頭の中にあるものを、自分が楽しむという目的一つで外に出す、というのが一番いい、ということにするつもりでいる。人間生きていると、何か調子が良くても、必ずどこかでストップがかかって、行きすぎないようになっていて、うまいことバランスが取れてるんだな、世界って、と思ったりする。

※※※
 思い切り勉強をしたい、という欲が、今、ある。どうも自分の知識が本当に少ないものに思えてしまって、もっともっと、「自分が本当に知らないことは何か」を探すような旅に出たいと思っている。

※※※

 ああ、でも、ものを書く、というのはまさにそういう行いでもあるんだ、と今、ようやく思った。人は「知っていることを書く」のではない。知らないところがどこか、ということを知って、そこから書くという作業が始まるんだ。

2021年4月16日金曜日

ながいつぶやき(99)面白がってくれたら、勝ち。 面白がってくれなかったら、どんなに語り手の思いが強くたって、ダメ。

別にこの文章に意味はない。
律儀に毎日書く必要なんてない。
でも必要かそうでないかで人生を捉えるなら、生きていること自体必要じゃない。
毎日何かを続けるということは、必要であるかどうかとは全く別の次元の話だ。
言葉で明確に「必要性」を説いてくる人間にはくれぐれも気をつけるように。

※※※
別にそういう体験が最近あったから言っているのでは決してない。
自分の頭の中に存在する別の人格について言っている。
※※※

再び、「話を美化すること」について考えている。どうしても、思い出は美しくしてしまうし、自分の都合のいいように解釈してしまう。まるで自分を小説の主人公みたいにして扱うことを、大なり小なり人は自然にやっている。
それは、事実を歪曲している、ということなのだろうか。
「できるだけ真実を語るべき時」と、「あえて面白く言っちゃうべき時」の境目ってどこにあるんだろうか。知性を感じさせるための緊張感はどれぐらい保つべきなのか。もしも省ける部分があったとしたら、それは極力省くのが正解なのか、それとも…。

いや待て、そもそもそんなこと、どうでもいいんじゃないの、と不意に思った。

※※※

語りについて言える評価の軸は、語られることが「面白いか面白くないか」それだけである。
自分を含め、聴く人が興味を持つかどうか。「語る意味」とか「正当性」とか「妥当性」とか「切実さ」とか、とにかく二次的な評価を作者が先に考えるようなことは、実に、全部どうでもいい。

なるべく面白いことを、面白がってくれる人のもとで語る、という以上のことを、考えるべきでない。

ギャグ漫画と一緒だ。

面白がってくれたら、勝ち。
面白がってくれなかったら、どんなに語り手の思いが強くたって、ダメ。

ながいつぶやき(98)面倒なことってなぜこうも面倒なのか。

面倒なことってなぜこうも面倒なのか。
この記事を書くのも、一度書き始めればいくらでも書けるはずなのに、なかなか重い腰が上がらない。
これを解決するには、「いきなりやり始める」しかないよ。
始める前に余裕があればあるほど、かえって考えすぎてしまって、やるべきことの量がとてつもなく多い気がしてしまう。あとは、「これだけ時間があるのだから、まずは事前によく考えて、いいものを一発でバシッと出せないと」とかさ、思っちゃうじゃん。
後になって、なんだか関係ないことばかりやってしまってから「頭の中だけで考えてうまくいくわけわけないじゃん、バッカじゃないの」と思うのは目に見えてるのにね。

だから、とりあえず始めないとね。
「いきなり始める」方法はいくつもあるだろうが、通底するのは、システマチックにやることだろう。意思で始めないこと。
始まりも終わりも、「8割は恣意的」でいい気がする。
もちろん、「よく生きるには、自分が体と心で十分に納得したことだけをやるべきなのではないか」という想いは去来する。
勝手に自由に時間を決めて生きることができるのに、時間という外的な要素で自分を縛ってしまっては元も子もないのではないか、そもそも学校や会社というような組織が、あまりにもどうにもならない規律や時間割や内容で縛ってくるのは批判的な目で見ていたんじゃなかったのか、いや、そもそも…。と、何かを始めようとするといつでも頭をもたげるわけだが、僕はここで、いいんです、ときっぱり自分に言ってやればいいと思う。
自分の手綱を他人に握られるな、ということだけが肝要である。
今日久々に早起きをして感じるのは、時間とうまく付き合っていくには、こちらも歩み寄らないといけないということ。
対峙すべき相手は人でも自分でもなくて、時間なんだ、と思う。

そういう意味での「無我」ならば喜んで受け入れたい。
それで夢中になればいい。
それが無我夢中ですね。
つまり無我夢中とは、時間とだけ戦っていて(=無我)、結果的に自分の世界に没入している(=夢中)という状態のことだ、と。

何かをよくするには、時間をかけるしかないのは誰だって知ってるのだ。

2021年4月14日水曜日

ながいつぶやき(97)

旅が恋しい気持ちを執筆にぶつけている。

旅で得る充実した気分は、終わった後にその旅を反芻する時、一番完璧な形になる気がしている。自己の移動と人との交流が鑑賞対象となるとき、その旅が物語という一個の作品になる。

だが旅について語ったり、文章を書いたりすることで言えば、僕は美化や誇張とずっと戦っている。話を盛ってしまう自分との戦いとも言い換えられる。

特に外国で体験したことなど、ついつい面白おかしく、武勇伝みたいに話してしまいがちである。僕は、話に、真に面白い内容が含まれていない場合、その話はその面白さの度合いにあった語りで外に出されるべきではないか、と思っている。

語り方次第で話は面白くなる、というのはもちろん事実である一方で、自分自身が本当にそれを切実に語りたいと思っているのかどうか、という点は、ずっと心に留めておく。

※※※

本当に、具体的に、計画を立てるとやる気が出てくる。

漠然とした不安には、とにかく、お金でも、時間でも、なんでもとにかく具体的に計画を立てることが大事だ。

目を見る相手を明確にするのだ。

2021年4月13日火曜日

ながいつぶやき(96)"Don't estimate too much".と自分に言い聞かせている

"Don't estimate too much".
と自分に言い聞かせている。
今までの人生で「培ってきた」(と、思い込んでいる)知識や判断能力を使わないようにしたいんだ。損してるんじゃないか、と急に思えてきたからだ。
僕には「なんでもかんでもあらかじめいろんな可能性を想定してしまう」癖があって、これには助けられてきたが、一方で悩まされてもきた。
それでだ。僕はこの「高い予想能力(みたいな何か)」によって多くの被害を防げていたと思っていたけど、実際のところは、「やれなかったこと」とか「間違った予想をしたがゆえの被害」による損ばかりしていたんじゃないか、と思えてきたのだ。
だから、もうこの「自分の予想能力への無意識の信頼」をいきなり、今日から、やめようと思っている。なんでも絶対にやってみないとわからない、ということにしよう、と。そういう感じで一日動いてみたら、もうすでに予想外のことが起きている。

目立つ欠点に対しては、何かしら対策をしようと思うことができるけど、問題なのは、実は「それが欠点だとは思ってもいなかった」ということの方ではないか、と思うのである。
※※※
バイクのヘルメットを買いに少しだけ遠くまで。まぁ、新しいカブに乗る口実でもある。ネットでそこそこの安いものを買ってもいいかな、とも思っていたが、いやいや、やはり長く使うものだし危ないしちゃんと買おう、と思い、用品店へ。仕事の合間をぬって行ったら、思っていたよりきちんとモノが揃っていて、店員さんも今まで行ったどのバイク屋よりもいい感じであった。頭のサイズ測りますか、と聞かれ、とりあえずサイズだけでも知ろう、と思って、測ってもらったのち、色々と要望を伝えていたら、なんだか向こうも楽しくなってきたようで、一緒になって冗談飛ばしながら、30分ぐらい延々悩んだ。他にも買おうと思っていたものも諸々一緒に見てもらって(「まぁこれくらいでいいかなと思いますけど、ネットとかでもいいんじゃないですか」とまで言ってくれる(笑))しまいには「エンジンの音が聞きたい」というので、駐輪場まで一緒に行って、一緒にカブを堪能した。いやはや、こういうことが「お店」というものの、醍醐味だよ、と思うね。

2021年4月12日月曜日

ながいつぶやき(95)

全然集中できない時、ってあるね。そしてそれはもう、ちょっと自分ではどうしようもないくらい集中ができないのである。そもそも集中なんて自分にはする能力がないんじゃないの、っていうくらいできなくなってしまう。

※※※

nendoの佐藤オオキさんがどこかで、「インプットの日とアウトプットの日を分けている」と言っていた。そういうことはあるだろうな、と自分でも思うが、うまく分けられていない。分けたいね。分けられるように、あえて、「アウトプットをやらない日」を作るのには、勇気がいるね。

※※※

確定申告を、えい、とやった。やってみれば、作業の量は多かったが、半日で終わった。

まぁ、そういうものです。


2021年4月11日日曜日

ながいつぶやき(94)

意識が変性しているね。ものを書くときの。ものを書くというのは、いきなり飛び込んでやるもんだ、という意識である。もちろんこれは日々変化するものでもあるので、こうじゃないと、ていうのではないけどね。
※※※
近所のレッドバロンに入荷した自分のバイクを見にいった。2回目。なんとなく姿を見にいきたくなって。それで店員さんと話していて、整備、結構時間かかるんすね、と言ったら、「もしかして平日とかもいらっしゃれるんですか」というので、ええ、事前にわかってればいつでも来られます、と言ったら、パーっと事務室にかけていって、また戻ってきて、整備を早めにします、と言ってくれた。よしよし。
※※※
現実から脱出する方法について考えている。いや、確かにドラマの『DARK』は観終わったけど、そういう話ではなく。(なんか今耳がドイツ語寄りになってて、イギリスの英語とか聞くとかなりドイツ語に聞こえてしまうという現象が起きている)頭の中にあるものを、形にすることでどう旅をするか、ということを考えている。

2021年4月8日木曜日

ながいつぶやき(93)理不尽を理不尽のまま出せれば、それが真の友を呼ぶ

なんか知らんが今日は頭が冴えている。なんで? 立て続けにコーヒー3杯飲んだからかな。
僕はここに何を書くのか、と言えば、Twitterにはそぐわないようなこと言うためである。「ずっと残したいこと」ではない。結果的にずっと残したいことがここに表現される可能性はあるけど、あくまでここに書くのは、今、いきなり即興で15分間キーボードを打って、頭の中にあることを形にしたことだけ。これは運動のひとつでもある。一つの表現でもある。つまりアートでもある。これ自体は三文アートだけど、でも、それは大きなアートのための下地でもある。むしろ、三文アートとか存在しないんじゃないか、とも思う。「素振りの練習は野球じゃない」と捉えることが、どこか間違っているのと同じだ。素振りは野球ではないが、素振りのない野球はない。僕は、別人を自分のものにすることを覚えたいと思う。自分以外の人格と、人物、思考を、自分のものにしてしまう。「演じる」という表現の醍醐味はここにある。僕はこの文章を通じて、今自分が一番面白いと思っている人物を憑依させる。そういう場所でもある。書くという行為の大いなる力のひとつはそこにある。自分ではこんなものを書くつもりなんてなかった、自分にこんなものが書けると思わなかった、自分以外の誰かが書いたみたいだ、誰かが、僕の中に宿ったみたいだ、そういう感覚が味わえた時、「文章を書く」という行為には一抹の正しい力が生まれる。今も僕は一体何を書いてるんだ、と、ある部分では思っているんだけど、でも、間違いなく今僕の中に何か降りてきている着想が、そのまま、キーボードと、CPU と、スクリーンを伝って、あなたのその目に届けられている、ということはありありと感じることができる。僕の中には今、坂口恭平と、加藤典洋がいる。加藤典洋は多分ずっと僕の中にいるんだ、と思う。それは、10年ぐらい前に会ってからずっと僕の中に息づいているんだけど、恥ずかしくて顔を出させなかった、加藤さんだ。僕の中では彼といろんな戦いがあったんだけど、でも最後、僕に最後、生身の加藤典洋さんが言ってくれたのは、「青木のいいところは無償でなんでもやる、っていう、無償性なんだよ」という褒め言葉だった。僕が作った欠陥だらけの雑誌を見てそういうふうに言ってくれた。卒業論文をとても褒めてくれたときから、加藤先生はずっと僕のことを応援してくれていたんだ、と思う。僕は今なんでか知らないがずっと泣きながらこれを書いている。机に涙の粒が落ち続けるぐらいに泣きながら書いている。なんで今、これを書いているのか、全然わからない。全然わからないけど、多分僕はその理由が体ではわかっている。体が知っているから、それを、指先を通じてキーボードの上で教えてくれている。僕はこの力を、自分でとても驚いて、でも、しっかり迎え入れている。たぶん僕は自分にこういう力があることを知っていたんだけど、それを使うことを恐れていたところがある。それは、子供の時にやっていた遊びを、大人になったらやることができなくなってしまうことに似ている。本当はこれがいいと思っていることを、全然外に出せなくなってしまっている。そんな自分にずっと気づいているんだけど、発揮の仕方がわからないんだ。これでよかったんだ、と自信を持って思えて初めて、できることなんだ。でもなんで今、こんな力が開いたのか。きっとこういうことだ。自分の奥底にいる力を運び出すには、信頼する人の「開けた」態度と、言葉がいるんだが、それが、今、ある、とはっきり感じられるからだ。自分が、この人はわかっている人だ、と思える人が、ちゃんと太鼓判を押して、あとは任せたぞ、と言ってくれる、これがどれだけ力強いことか俺は知らなかった。一人でなんでもできるなんて思っていても、それは、同じ強度を持った人が、共振してくれた時に初めて揺れ出す能力のことだから、力強い他者がそこに太さを持って介入してこない限り、見出すことのできない風景がある。僕が持っている感情、思想、思考、全部出したっていいんだ、やってやれ、と言ってくれる人がいて、初めてそれは表に出てくる。その意味で、師を持て、ということも、友を持て、ということも、実は同じだ。どちらも持っている役割は同じだからだ。師は友であり、友は師である。その師であり友は、理屈ではない力を、矛盾したまま吐き出した時に充分に何かを感じとって真剣に返してくれる人のことだ。これがわかったら、同時に、「自分を表現する」ということは、自分でも訳がわからないものを「持てるもの」にして、思考の世界で交遊するということだ、とわかる。それは現実とは全く違うところにあるから、恥ずかしいと思う必要がない。本来の人間の姿がそこにあるだけで、あとは現実に戻った時、「こんなものがあるんだ」と自分が産んだよくわからない産物を一緒に、興味深く見つめるのだ。

2021年4月6日火曜日

ながいつぶやき(92)【延期】「ジャグリングの展示」は、延期となりました。

しばしこのブログで必死に宣伝していた「ジャグリングの展示」が、延期となりました。

最短でも「GWが明けてから」になりそうです。

理由はさまざまですが、端的に言うと「明らかに時間が足りない」ことが主な理由です。

まだそこまで大々的に宣伝はしておらず、ギリギリセーフか…とは思っているのですが、楽しみにしてくださっていた方々、ごめんなさい!

そもそも、「展示」という形式でイベントを必ずしもやるかも含め、一旦保留した再スタートになります。

当初の構想と全然違うものになるそうな気はしますが、展示は、妥当性を、これ以上はちょっと納得できない、というぐらいまで、はっちゃめちゃに納得した上で、形を整えて、やりたい。というのが今の気分です。

いずれにせよ、やはり一旦仕切り直し。

でも。

今心の中に、自分の中にあるものを世に出したい衝動がメラメラと湧いてきています。

「展示をしよう」というきっかけを与えられて、初めは主にジャグリング雑誌の「YANA」をうまく紹介できるように、でもさらに大きい枠を用意しよう、と各方面にも迷惑をかけながら、躍起になってまとめようと考えていましたが、なんだかうまくいきませんでした。

そもそもどこを目指して走っているのか、何にもわからんかった。

でもそのおかげで、全然違う経路にはなったけど、これは、本当にやりたいことかもしれない、という、まだ小さいけれど、これだけは疑いえない、という真珠の核みたいなものが、見つかった気がします。

ちょっと、今までに味わったことがない気分。

少なくともそれが成長したものは、いつになるか保証がまだできませんが、皆さんにいずれお見せできると思います。

※※※

まぁ、言ってしまえば、やはり、本を書いている。

僕の人生の中で今までなかった、「本当に書きたいことを書きたいだけオールアウトでつぎ込んだ本」を一度、まずは書いてみたいと思っている。

それで、今、初めて、ああ、こういう風にやればいいのかもしれない、という、PONTEを始めた、2014年ぐらいからずっと探していた「やり方」の端緒を見つけたような気がする。長かった。

村上春樹と同じ、29歳だから、まだ間に合う。

どうか、この気分が続いてくれ。

その気分を忘れないため、到着するところだけははっきりするように、「あとがき」のような読み味の「はじめに」を、手短に、今日、1000字弱で書き上げた。こんなこと、今まで書いたことない、ということが書いてある。

※※※

そんなわけで一旦、明日からこの「ながいつぶやき」は、また、平常運転の、隙の多い話に戻ります。パァ🌞

2021年4月5日月曜日

ながいつぶやき(91)「ジャグリングの展示をつくる 12」15年間ジャグリングという単語ととも過ごしてきたことを、何かもっと大きな流れに変換する

「ジャグリングの周り」について考えている。「ジャグラーがジャグリングをしていないとき」について考えている。

少し長めに、明日発行されるメルマガに文章を書いた。多分これは今回の展示の軸になるんじゃないかとおもう。これが本の前書きになってもいい、とすら思う。

自分がジャグリングで「これがいいのさ」と思っていること。

ジャグリングを通して持った意識。

ジャグリングがきっかけで出会った人。

技術だけではなくて、そういう要素が、その人のジャグリングの色だ。それは当然だと思うのだが、同時に、それがはっきりと外に表明されること、人の目に見える形で発信されること、ってなかなかないな、と思う。

そして、そういう「ジャグリングの技術以外の部分」が、クオリティの高い形式でせっせと発信されていくと、それこそ、一つの文化を形成する気がしている。

もちろん、余計なお世話かもしれない。なんだか、僕が全然世の中を知らないだけかもしれない。

ただ僕の頭の中には例えば、エリック・オーベリが Object Episodesでいつか言っていたような、「ジャグリングには、スケートボードとか、そういうところに比べると、カルチャーがなくて」(だいぶ雑に要約)ということがきっかけとしてあって、しばらくの間考えていたのだった。

「ジャグリング」という単語が一つあって、その単語から想起されることの厚み、というのか、まだ僕の頭の中でも言い方が固まっていないんだけど、そういうものが、つまり「文化」と呼ばれて参照されるものなんじゃないか、という気もしていて。

僕が個人として、少なからず、15年間ジャグリングという単語ととも過ごしてきたことを、何かもっと大きな流れに変換する、傍流から、意味のある流れとして合流していくには、そういう観点からのアプローチがもしかして有効かもしれない、と思っているのだ。

だからその始まりとして、今回の展示は、捉えることができるのかもしれない。

あるいは、とんだ勘違いかもしれないけどね(笑)

でも、少なくとも、そういう気でいるんだ。それが、楽しい。

2021年4月4日日曜日

ながいつぶやき(90)「ジャグリングの展示をつくる 11」

人間、真剣にものを考えると必ずいい流れが来るんだ、と今、如実にわかったのだった。
ある本を改めて読んだのだが、ああ、こういうことか、と一瞬で全部わかった。
ひとまずタイトルが決まった。
少し調整するかもしれないが、これでいけると思う。
というか、もし変えるにしても、どういう考え方でいけばいいのか、これがわかった。

どういうことか。

とにかく、楽しいことしかしない、これができたらいいな、ということをなるべく具体的にイメージして、それを実現する場でしかないんだ、ということがわかったのだ。

大体、今回の展示の道筋は、これでついた気がする。
あとは計画をして、進めるだけだ、という感じ。
ここからだ。
※※※
日本以外とつながる、ということをもっと意識していいな、とも思っている。
僕には幸いにしてその辺りの下地は十分すぎるほどあるのだ。

ここからが腕の見せ所だあぁ。

2021年4月2日金曜日

ながいつぶやき(89)「ジャグリングの展示をつくる 10」

今日はあまり触れられず。

特に書くこと、なし。

ただ、少し、イベントについて、進展、あった、かも。

「ジャグリングのジャグリングじゃないところ」が結構肝だとは思っているんだけど、逆に「ジャグリングそのもの」もそれはそれで提示したい、というところもあって、それはいい感じに叶うかもしれない。

2021年4月1日木曜日

ながいつぶやき(88)「ジャグリングの展示をつくる 9」

今日、初めて本格的に展示のことに取り組んだ。抜本的にまず展示の内容について改めて考え、メモ紙にいっぱい書いて、色々並べてみた。

本を書くのがまず先だ、と直感でわかる。

そのため、いくつか自分が手本にしたい本を並べて、それを取っ替え引っ替え読みながら、実際にB5用紙を折って、簡単な束見本みたいなものを作ってイメージをして、原稿も少し書いた。

旅のことについて、時間が経ってから思い出して書いてもなかなか面白くするのは難しいというのは、PONTEの頃からわかっている。書いたはいいが、本になっていない以前の原稿も、ベースとして使った方がいいだろう。えい、もう、腹をくくれ。

こういう時、本当に苦しい。でも、楽しいとも言える。

誰しもが通るんだ。こういうのは。決して特別じゃない。ちょっとでもいいものを生み出そうとしたら、そこには、誰だって理不尽なくらいの葛藤がある。挫折したり、妥協するのは簡単である。でももう発言をすると決めた以上、社会にいいものを一つでも増やすという気持ちでいなきゃ、ほとんどいらないものを作ることになってしまう。それだけは悔しい。いらないものを作るぐらいだったら、黙っとけばいい。でも黙っていられないんだったら、みんなが楽しくなるようなものを作らないといけない。

そして、自分で、「ここが狙うところだ」という線引きをしなきゃいけない。どうしても、人間は打算的になって、いい感じに落とし込めそうな、「みんなが妥協できるところ」みたいな、70%ぐらいのいいところを考えてしまう。そんなの、どこにも答えは転がっていない。そんなものない。

自分でなるべく高いところに線を引くこと。それこそがものを作ったり、何かを見せる人の責任だと思う。

「妥当な線」なんて存在しない。「まずはこれくらい」なんてものは存在しない。そんなものを狙っていたらいいものなんて作れない。いきなり一番いいものが作れないといけない。少なくともそういう気でやっていないといけない。

ここ数日、ずっと自分の水準が低いことが頭に来ている。不機嫌だ。そんなところに窓辺で猫を呼び寄せるために、「オイ、オイ 」と缶チューハイ片手に連呼する猫おじさんがくるもんだから、「ヨソでやれー!」と怒りたくもなる。

果たすべきことに対しての時間のなさを呪っているのでもあるし、自分が常に決断の先頭にいる、ということの怖さに向かい合うための、エンジンの鼓動でもある。

見てろよ、ほんとに。

※※※

展示の内容を生み出す作業と、それ以外のパソコン作業が両立する気がしない。

展示のことを考える頭と、そのほかのことをする頭が全然違う。1日の中でも、作業時間を分けないとだめだ。そして、なんだか僕は運が悪くて、こういう時に限っていつもより多く仕事が来たりする。翻訳、すごく多い。まいったまいった。

まぁ、やる。