2021年4月8日木曜日

ながいつぶやき(93)理不尽を理不尽のまま出せれば、それが真の友を呼ぶ

なんか知らんが今日は頭が冴えている。なんで? 立て続けにコーヒー3杯飲んだからかな。
僕はここに何を書くのか、と言えば、Twitterにはそぐわないようなこと言うためである。「ずっと残したいこと」ではない。結果的にずっと残したいことがここに表現される可能性はあるけど、あくまでここに書くのは、今、いきなり即興で15分間キーボードを打って、頭の中にあることを形にしたことだけ。これは運動のひとつでもある。一つの表現でもある。つまりアートでもある。これ自体は三文アートだけど、でも、それは大きなアートのための下地でもある。むしろ、三文アートとか存在しないんじゃないか、とも思う。「素振りの練習は野球じゃない」と捉えることが、どこか間違っているのと同じだ。素振りは野球ではないが、素振りのない野球はない。僕は、別人を自分のものにすることを覚えたいと思う。自分以外の人格と、人物、思考を、自分のものにしてしまう。「演じる」という表現の醍醐味はここにある。僕はこの文章を通じて、今自分が一番面白いと思っている人物を憑依させる。そういう場所でもある。書くという行為の大いなる力のひとつはそこにある。自分ではこんなものを書くつもりなんてなかった、自分にこんなものが書けると思わなかった、自分以外の誰かが書いたみたいだ、誰かが、僕の中に宿ったみたいだ、そういう感覚が味わえた時、「文章を書く」という行為には一抹の正しい力が生まれる。今も僕は一体何を書いてるんだ、と、ある部分では思っているんだけど、でも、間違いなく今僕の中に何か降りてきている着想が、そのまま、キーボードと、CPU と、スクリーンを伝って、あなたのその目に届けられている、ということはありありと感じることができる。僕の中には今、坂口恭平と、加藤典洋がいる。加藤典洋は多分ずっと僕の中にいるんだ、と思う。それは、10年ぐらい前に会ってからずっと僕の中に息づいているんだけど、恥ずかしくて顔を出させなかった、加藤さんだ。僕の中では彼といろんな戦いがあったんだけど、でも最後、僕に最後、生身の加藤典洋さんが言ってくれたのは、「青木のいいところは無償でなんでもやる、っていう、無償性なんだよ」という褒め言葉だった。僕が作った欠陥だらけの雑誌を見てそういうふうに言ってくれた。卒業論文をとても褒めてくれたときから、加藤先生はずっと僕のことを応援してくれていたんだ、と思う。僕は今なんでか知らないがずっと泣きながらこれを書いている。机に涙の粒が落ち続けるぐらいに泣きながら書いている。なんで今、これを書いているのか、全然わからない。全然わからないけど、多分僕はその理由が体ではわかっている。体が知っているから、それを、指先を通じてキーボードの上で教えてくれている。僕はこの力を、自分でとても驚いて、でも、しっかり迎え入れている。たぶん僕は自分にこういう力があることを知っていたんだけど、それを使うことを恐れていたところがある。それは、子供の時にやっていた遊びを、大人になったらやることができなくなってしまうことに似ている。本当はこれがいいと思っていることを、全然外に出せなくなってしまっている。そんな自分にずっと気づいているんだけど、発揮の仕方がわからないんだ。これでよかったんだ、と自信を持って思えて初めて、できることなんだ。でもなんで今、こんな力が開いたのか。きっとこういうことだ。自分の奥底にいる力を運び出すには、信頼する人の「開けた」態度と、言葉がいるんだが、それが、今、ある、とはっきり感じられるからだ。自分が、この人はわかっている人だ、と思える人が、ちゃんと太鼓判を押して、あとは任せたぞ、と言ってくれる、これがどれだけ力強いことか俺は知らなかった。一人でなんでもできるなんて思っていても、それは、同じ強度を持った人が、共振してくれた時に初めて揺れ出す能力のことだから、力強い他者がそこに太さを持って介入してこない限り、見出すことのできない風景がある。僕が持っている感情、思想、思考、全部出したっていいんだ、やってやれ、と言ってくれる人がいて、初めてそれは表に出てくる。その意味で、師を持て、ということも、友を持て、ということも、実は同じだ。どちらも持っている役割は同じだからだ。師は友であり、友は師である。その師であり友は、理屈ではない力を、矛盾したまま吐き出した時に充分に何かを感じとって真剣に返してくれる人のことだ。これがわかったら、同時に、「自分を表現する」ということは、自分でも訳がわからないものを「持てるもの」にして、思考の世界で交遊するということだ、とわかる。それは現実とは全く違うところにあるから、恥ずかしいと思う必要がない。本来の人間の姿がそこにあるだけで、あとは現実に戻った時、「こんなものがあるんだ」と自分が産んだよくわからない産物を一緒に、興味深く見つめるのだ。

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