面倒なことってなぜこうも面倒なのか。
この記事を書くのも、一度書き始めればいくらでも書けるはずなのに、なかなか重い腰が上がらない。
これを解決するには、「いきなりやり始める」しかないよ。
始める前に余裕があればあるほど、かえって考えすぎてしまって、やるべきことの量がとてつもなく多い気がしてしまう。あとは、「これだけ時間があるのだから、まずは事前によく考えて、いいものを一発でバシッと出せないと」とかさ、思っちゃうじゃん。
後になって、なんだか関係ないことばかりやってしまってから「頭の中だけで考えてうまくいくわけわけないじゃん、バッカじゃないの」と思うのは目に見えてるのにね。
だから、とりあえず始めないとね。
「いきなり始める」方法はいくつもあるだろうが、通底するのは、システマチックにやることだろう。意思で始めないこと。
始まりも終わりも、「8割は恣意的」でいい気がする。
もちろん、「よく生きるには、自分が体と心で十分に納得したことだけをやるべきなのではないか」という想いは去来する。
勝手に自由に時間を決めて生きることができるのに、時間という外的な要素で自分を縛ってしまっては元も子もないのではないか、そもそも学校や会社というような組織が、あまりにもどうにもならない規律や時間割や内容で縛ってくるのは批判的な目で見ていたんじゃなかったのか、いや、そもそも…。と、何かを始めようとするといつでも頭をもたげるわけだが、僕はここで、いいんです、ときっぱり自分に言ってやればいいと思う。
自分の手綱を他人に握られるな、ということだけが肝要である。
今日久々に早起きをして感じるのは、時間とうまく付き合っていくには、こちらも歩み寄らないといけないということ。
対峙すべき相手は人でも自分でもなくて、時間なんだ、と思う。
そういう意味での「無我」ならば喜んで受け入れたい。
それで夢中になればいい。
それが無我夢中ですね。
つまり無我夢中とは、時間とだけ戦っていて(=無我)、結果的に自分の世界に没入している(=夢中)という状態のことだ、と。
何かをよくするには、時間をかけるしかないのは誰だって知ってるのだ。
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