2014年11月5日水曜日

 バイト中、演技についてずっと考えて、思わず使おうと思っている曲を口ずさんでしまう。

2014年11月1日土曜日

やりたいことをガンガンやっていくために。

あれはどうかな、この可能性はないかなとか、悩んで、考えて出した結論も、なんかなんとなくやったことも、さして結果に変わりはないんで、だったらとにかく、怒られる覚悟でやろう、という月間。
あ、やりたいなー、と思ったことは、全部やらなきゃいけないことなんだと思えばいい。
なんかこう、何をやるべきかっていうのを、お金とか時間とかメタ的な要素から考えるんじゃなくて、まず自分が何を応援したいか、何を好きだと思うのか、というのを中心に考えた方が圧倒的にいいのだということを定期的に思い出す。
なかなかそうはいかないから、定期的に思い出す。

やることはいっぱいだ。

2014年10月31日金曜日

ワークショップのこと少し

朝少し遅かったが、韓国語聞きながらディアボロ練習して、バイトへ行く車内でひたすらPONTE。
14時からとはいえバイトに行くと1日がすぐ終わる。

そういえば、今日はハロウィン。筆者は特に何もする気もないためただただ電車の中にいるお化けを眺める。

いい素材を使ったジーンズを安値で買う。ちょうど探していたから、よかった。

明後日は静岡大道芸。
雨、心配。
でもとりあえず、アレクシーに会えて、池田さんの演技が見られれば御の字。
駐車場のことも、心配。まぁ、なんとかなるだろう。

まだ詳細決まらないが、12月に台湾でジャグリングのワークショプを開く予定。
ディアボロならまだしもジャグリング。
自分でいいのか、とも思うが、自分がまずやらねば、ぐらいの気持ちで、台湾のジャグリングシーンの何か起爆剤の一端を担えたら、面白い。
だからとりあえず企画。韓国でも同じようなことがしたい。
1月に行くときに、何か、ワークショップを開こうかな。
さすれば、ワークショップが成り立つぐらいの韓国語を身につけねば。
語学は歌と一緒。
まずは歌を何度も聞くところからスタートだが、だいぶ体に染み付いてきたと思ったら、あとは歌詞カードを見ながら合わせて歌ってみる。
つい歩きながら口ずさんじゃうくらいがちょうどいい。
イタリア語、最近やってないなー、と思う。
きっと留学当初よりも下手になってる。
何か、読書の目標でも立てるか。
FBのポストを1日一行でいいから続けるか。
それがいいかも。
とにかく、軸をどんなに細くでも残しておかねば、すぐになくなる。
見えなくなるだけで消えない、とはいえ、やっぱり衰退する。

生きるって、生きて行くことだよな、とほんとに思う。

私が生きているのは、生きているうちにできることをするためです。



2014年10月30日木曜日

おうふくびんた

朝遅かったが色々。
代々木で昼からアクロバット練習、終わったら大学に行って教授と一緒に進めるプロジェクトの手続き。
だが印鑑忘れたのと担当の人がいなかったため手続き終わらず、せっかくなのでうちのジャグリングサークルの練習を見に行き、なんか居場所なくなったなー、早稲田に、と思いつつ、あとにして横浜でジャグリング練習。体育館が使えるとやっぱりいい。
だいぶ腕落ちる。
終わったらすぐに有楽町へ。バイトの送別会に少し顔出し。
ジャグリングもする。


今日から韓国語の勉強時間のトラッキングをし始める。

テキストいじりはなるべくシンプルなソフトでやろう

メモが一番いい。

2014年10月26日日曜日

韓国語

KJFというジャグリングのお祭りがあって、それを機に韓国語の勉強を開始したのだけど、だんだんと自分の知らない文字が読めるようになって行く感覚は、面白い。

初めの1日、2日は、ぎこちなくて、読める、というより、「これ、知ってる!」というぐらいの感覚だけど、4、5日経つと、突然、何も考えずに、その記号と、それが意味するところが、瞬間的に頭に浮かんでしまって、離したくても離れないものになっていたりする。

大学二年生でイタリアに出発した時は、camminareという文字列とその音が、まさにただ「あっ、知ってる」くらいの、既視感、既聴感(と言えるかな)しか持っていなかったが、今、私はこの音を聞いたときに、何かが歩いている情景を思い浮かべてしまうことから逃れられない。(そう、私は留学に行った時点で「歩く」という動詞を知らなかったのです)

これが学習の原則なのだろう。
繰り返した結果、自分でも意識する前から、もうその筋肉が動かされている。想像が出来上がっている。
無意識で出てくるレベルじゃないと、習得したとは言えない。

2014年10月23日木曜日

2014年8月31日日曜日

うちゅう

Web上でものを書くという行為は、机に向かってノートにものを書きつけている時とは結構わけが違うのである。

というのはいいとして、今日スターシップ・トゥルーパーズを観たのだけど、なんだかすごく良かった。1997年の作品。それにしては映像がよくできている。
スターウォーズのエピソード5(1980年公開)もなんとなくまた観たくなったので観たけど、こうまで違うと面白い。
ただこのスターウォーズのかつての「拙さ」が、結構味のあるものに思える。
たとえばエピソード4では、2004年に公開されたバージョンで、クリーチャーやなんかがCGで付け加えられているのだけど、余計だなぁと思う。

エピソード7はどんなになるのかなぁ。

2014年8月13日水曜日

それが人生との付き合い方なのだ。



にっき。
今日はTIDC(東京国際ディアボロ競技会)に顔出し。
台湾やマレーシアから、たくさんの選手が来日。どんどん大きくなる
普段より台湾の選手の顔つき、少し余裕が無い。
自分が海外の大会に出てくる時の気持ちを思うと、納得
敏腕の選手たちからすら「じんつぁん(緊張)!」という声を多く聞いた。
やはりアウェーということは誰にとっても厳しい
台湾人は根本的にメンタルが強いんだと今まで思っていた
蓋し、日本人とてホームなら俄然強いのである。

そんなこんなで、一日中大会に居た後に、一人こっそり抜けて早稲田まで歩いて、いつものラーメン屋で夕飯を済ませ、帰りにふと思い立って少し桜木町のスターバックスでくつろぎ、帰宅。
本当はインターネットが使いたかったのだが、スタバの回線、あまり安定しておらず。
今月、はしゃぎすぎてルーターの通信制限がもうかかってしまったので、どこか無料で、安定したインターネットが使えるカフェを探したい。
なければ図書館に通うしかないか。困った。

今日は、毎回の競技会と違って、随分楽しめた。
色々と理由は思い当たるがやはり人間関係のことがあるか。
一般的ではなく、すごく限定的な意味で。
身の施しようというか、諦観というか、そういう類の、なんだか一歩大人になったような、達観した感情芽生える。今まで少し不安定だったのである。今はもう大丈夫な気がする。
それはひとえに、「自分を支えてくれる人」としっかり向き合えるようになったからかもしれない。実は、ちょっと視野を外せば、自分を愛してくれる人はいるのだ、ということが見える。それを直視できるかどうかの問題である。
人間、物理的にも、そして感情的にも、人を直視するというのがそもそも難しい。
それが見知らぬ人であろうとよく知った人であろうと。人そのものが結構怖いのだ。
だからこそ、人間の関係というものには、慣性がある。
ほっといても、つまりあえて目線を合わせなくても、出来上がった関係がある程度の時間維持されるようにできている。
関係性の慣性は、しばらく会わなくても安心な交友関係を築いたりもするけれど、恋の問題のような、「やっかいごと」も生む。
また一度できた関係性を、「無かったことにする」ということはできないから、それが一番やっかいである。
そういう時は、やっぱり何か他のことで、自分なりに納得のいく「そこからの歩き方」を考えるより仕方が無い。人生は、「その道全て」が、そもそも人生なのであって、コンピューターのように気軽にデリートしてその部分に上書きされるわけではない。だからこそ苦しいし、でもだからこそ一回の人生に真剣になる。
人生は長さのわからない川でもある
その中でただぷかぷか浮かんでも、もう前に進みたくないから立ち泳ぎしても、頑張って流れに逆らおうとしても、ずんずん前に泳いでいっても、結局はどんどん流されていくのだ。
結局は皆、その終わりにたどり着く。
でもそれがいつかは分からない。
僕も好きだったロビン・ウィリアムズは、今日、死んでしまった。
考えてみると、どうせ最後は滝壺に落ちるのなら、がんばって泳ぎまくって、ぷかぷか浮いている人を尻目に一心不乱にバタ足してゆくのが一番かっこいいような気がする。
とどのつまりは同じように滝壺に落ちるのだが、その時も、「ああ、気持ちよかった」と言って滝壺に落ちられるような気がする。

だから。

少しくらいなにかでつまづいても、すっきり前を向いて、「そこからの歩き方」を考えるのが、一番人生というものとの付き合い方に似合っているのだ、と思う。

目は前に付いている。
人は前を見るようにできている。

人間生きてりゃ深かった関係だって壊れるし、大事な人だっていなくなるし、辛いことだって起こる。

だからいつでも前を向いて歩き出せる準備をしておかなければなるまい。

それが人生との付き合い方なのだ。

とりあえずなかなか良い一日でした。

2014年8月11日月曜日

ジャズを聴く

 めっきりジャズにはまってます。別に知識がある訳じゃないですが、ジャズを聴きながら部屋でゆっくりすると、最高に気持ちがいい。ことの発端は、ジャズについての授業を大学で取ったこと。内容は、「ジャズはどのように戦後日本で受容されてきたのか」というもの。詳しい説明は省きますが、音楽の受容一つで、深い考察ができることに感動したものです。
 音楽を聴きながら集中して何かをするというのは、どこかに出掛けて美味しいものを食べに行ったりするよりも、心が遠くに行くことがあります。
私が聴くのは、ジャズだったり、世界の国々の伝統音楽だったりするので、余計に気持ちが日本以外のどこかに行ってしまいやすい。
 MacBookの中身を整理して、iTunesをちゃんとアルバムワークを設定してきれいにしたので、それをランダム再生して、スピーカーに有線でつないで大きめの音量で流しています。
 落ち着くって、いいねえ。


 で、そうだ、Facebookで、友達のパフォーマーが、「フロウアートで生活してる人ってどれくらいいる?」というディスカッションをしてて、なかなか面白そうだったので紹介しようと思ったのだがまぁ機会があればまた今度。




にっき。

朝は珍しく勝手に7時半に起きる。昨日は4時寝だったのに。 朝、母が作ったシナモンロール再び。昼はカフェドクリエのパスタ。 午前中出掛けて、出先でのんびりしたにも拘らず、帰ってから部屋でジャズを流しながらTRANSITを読んでいて、床に直に寝てしまう。 起きたらもう夕飯。麻婆豆腐。 Macに向かい、いろいろ。書くジャグリングの雑誌:PONTEのことは、時間ができてから、結構いろいろ考えられるようになった。

日記みたいなブログってそういえばしばらく書いてない

どうも、べいだ〜です。

こういう書き出しで、よく昔ブログを書いてました。
一時ははまったものです。
中学生から、大学生になるくらいまで書いていましたが、なんだか時間の無駄のような気がしてイタリア留学に行く前にぱったり更新するのをやめました。(ズボラだというのもある)

今に至ってふとそんなものを再開しようと思いました。

かつては結構な時間をかけてブログを書いたものです。今見返してみると、中にはまぁまぁ考えて書いてるじゃん、と思えるようなものも。(くだらんものが多いけど)
まとめて書かなければならないというブログの特性のおかげで、一応少しくらいは、推敲に時間をかけて、考えて書いていた。きっと。
そして書いているときは、必死でした。誤植とかも、無いようにしていました。
無駄だと思ってやめたけど、なんだかんだで「書く」ことの体操になっていたのかもしれない。わからないけど。一日3、4時間くらいかけてたときもあったし。

むしろ安易で短絡的な「シェア」と「いいね!」とついでに誤植でまみれた今の発信の方が、遥かに軟弱で散逸的で受動的であります。

だからこそ、自分で雑誌なんか立ち上げたくもなったのだろう。

というわけで。
なんか、青木には、人に見せたいものがいっぱいあるんだな、と気づきました。
細かいちょろちょろした「見せかけ」にいろいろこだわってしまっていた今日この頃でしたが、とりあえずここを拠点に、「考える」ベースを作っていきたいと思います。ウェブベースで見せたいものを発信していく。
こういう、テキストだけで勝負する場所がひとつくらいあってもいいんだ。
書くことで自分の思っていることを整理したいっていうのはこういうことなんだ。

ゆくゆくはもっとなんていうか、分かりやすい形で、分類して、まとめていきたいです。
なので、ここは、一応の、場所。

Japan Juggling Journal(通称JJJ)っていうのを立ち上げたいと思ってるんだよね。いろいろ、模索してます。英語発信を主な軸に、日本のジャグリングで起きていることを伝える基地にできたら良い。
それをPONTEと密接な関係にして、何か起きたら良い。ついでにウェブページをかっこよく、シンプルに、スマートに、ナイスに、ひゃっほうな感じに、したい。
あと、ただの情報だけじゃなくて、ジャグリングの新しいアイデアを、しっかり系統づけていくようなことができたらいいなと思う。これはもう、具体的にやることとして。
最近のジャグリングと、昔僕がやり始めた頃(2006年とか)の違いは、最近はもはや皆の自己主張の場ばかりになって、中身が技名などで系統づけられてないということがあるだろうと思います。
いや、ぜんぜん、自己主張はいいんだけど。
まぁ、それとは別の、「ジャグリング社会」を見据えたこと、というか。
それで、系統だてることは、結局自分の知識(経験?)の整理にもなるからいいのです。

だから、そういうのを、せっかくインターネットという世界の皆様がたが見ている場が目の前に用意されているので、英語やらなんやらでまとめようと思う訳です。
「国際教養学部」の学生だしね!一応ね!英語苦手だけどね!

なんだっけ、あと今日考えたのは。
そうそう。今はPONTEが雑誌だけなんだけれど、結局、やりたいのは「ジャグリングを面白くすること」であり、最近思うのは、「ジャグリングが依って立つ場所が欲しいなあ」ということ。昔なら、結構みんな技神をみてるとか、なんだかんだで西村さんのブログをチェックしてるとか、いろいろあって、毎日帰ってパソコンをつけると、更新されていないか確かめるのを日課にしていたものですが、最近はめっきりそういうのがない。(他の人はそうでもないのかな)
私にとっては、すっかりそれがFacebookに取って代わられてしまいました。
それは同じメディアなんだけれど、やっぱり、個人的な交換日記みたいな、なんていうか、もんのすごーーーく私的なメディアであるわけです。(こういうところ、本当はもっと厳密に言いたい。大学生だし。…あっ、もう俺大学生じゃないや)というところで、「ブログ」という、まぁ一応公的な場所にさらされているメディアでがんばってみる。ウェブサイトもしかり。

そんなようなことをしてみようかと思うのです。

いまだったら、いろんなことができるよなー。

時間もとれるし、行動範囲もずいぶん広がったし、種々のことがらに関して、ジャグリングを始めたころの8年前と比べて、曲がりなりにも8年分の経験を積んだし、まぁ、ね。いろいろね。

なので、かんがえていることをとにかく書きながら整理しつつ、実行に移るまでのハシゴのように使っていきたいと思います。

世界の使い方は自分で考えるのだ。



とりあえず今日は何をしたのかということ。

一日中部屋にこもってMac Book Proいじってました。
先日、青木愛用のMacBookPro、通称「PONTE号」(未だかつて私のパソコンをこの名で呼んだものはいない、私も含め)が内蔵HDDを認識しなくなって、「ありゃまぁ」となっていて、しばらくぐーぐるしたりなんだりしつつ様子を見ていたのですが結局直らず、少々値段の張るSSD(要は、書き込み読み込みが速い内蔵記録媒体)を買う。それに入れ替えたりなんだりしたけれど直らんので、ケーブルの故障であるということが分かり、最終的には東京の丸善の上にある「クイックガレージ」というところで直してもらいました。約8000円で。まぁ、こんなもんか。ほかのマザーボードとか、ロジックボードなどのお高い部品の損傷じゃなかったのでよかった。まぁとにかくそんなんで、焦って買っちゃったSSDを入れたら、Macが劇的に速くなったので、これを機に環境を0から再構築してました。

あとはコーヒー飲んだり、母が作ったシナモンロール食べたりしてました。

とりあえず。

雑なところから、すくすく育てていきます。

Bloggerは使いやすいなあ。

2014年7月17日木曜日

音読主義

音読主義になってみよう。
結構前々から気付いておきながら実行していなかったんだけど、膨大な量の文章を空で言えるようになるっていうのは、有効な方法であり、否、本質的でさえあるかもしれない。
話せるというのは言える、ということだからである。

重要なのは、「意味を考えずにやる」ってことだと思う。

というのも、音読ばっかりしてたら、自然意味の方は後から自発的に気になって調べたり、自分で考えたりするんで、そういう風に勝手に意味がわかるまで待つぐらいののんびりさが、かえって自然な習得を促すと思うのだ。
あんまりこういう単純作業には、余計な「おまけ」をくっつけない方が集中できそう。

よむよむ


ことばと世界と青春の半透明の紙

早稲田の中央図書館にイタリア語の新聞があるので、読んでみた。(Corriere della Sera)前にも何度か手に取ったことはあったんだけど、ちゃんと「理解しよう」という志を持って読んだのは正直初めてだった。
(ついでにドイツ語の新聞も引っ張りだして読んでみた。少し分かったので、実に満足。余談ですがドイツ語検定4級合格通知が今日来てました。嬉しい。引き続きドイツ語とは付き合っていきたい)
イタリア語のCarta(新聞)を読んでいて、留学中の、「イタリア語で世界を見る」わくわくする感じ、を思い出した。
あの時には周りに イタリア語ばっかりあって、日本人でない友達と話すときはいつもイタリア語だったし、自動販売機の表示はイタリア語だったし、駅に行ったらイタリア語しか表示されていないし、悩みを友達に言う時だってイタリア語だし、考えてみれば言語的には「四面楚歌」な状態だった。(この場合四面カンツォーネ)でもそんな風景が、自然にいつも「『伊』世界」を見せてくれた。イタリア語のフィルターだけで見通された世界の様相を見せてくれた。
「何語で表現されようが同じものは同じものでしょ」と言う向きもあるかもしれないが、外国語で自分の意志を真剣に伝えようとしたことがある人なら分かると思うのだけど、何語で言うかによって、言うことまで変わっちゃうのである。
言語の違いというよりそもそも「勉強不足で語彙の選択肢が制限されている」ということが大きいと思うが。
というより、世界があって、それをことばで「言い、指し示す」っていう理解をするんじゃなくて、そもそも目に映るものを「ことばで分節してる」っていう説を、心から納得して自分の哲学に適用しているなら、自然「ことばによって世界の見え方が変わる」という結論が出てくるはずである。

それで、まぁそういうのは良くて、重要なのは、そういう感覚が、自分の「青春」と強く結びついているということである。
単純に、19歳の夏にイタリアに行ったからである。(あっ、そんな若かったんだ、て今自分でも思った)
やっぱり大学生のうちに留学に行くといいよなあ、と思うのは、つまり若いうちの方が、特に新鮮な経験が、より「鮮烈に」「いい思い出として」残るような気がするからである。自分自身にエネルギーがある時代に触れたものは、自分が盲進の体でぶつかっていくから、反作用も大きくて、より「強い」ものとして記憶に残る。




さてこうやって、イタリア語のよさと、自分がイタリア語と、めげずに付き合って来たことを喜ばしいことだと思えたことは、よかった。
だけど、同時に今まで自分がいかにただ語「学」にだけとらわれていたか、ということが、悔しく思えてきた。
なんと惜しいことをしていたろう。

もっと、面白いこと、ことばの、「その先にある愛すべきこと」に飛び込めば良かった。

結局俺は今まで、語学を通して、「語学」しか見ていなかったんだなぁと思う。

そういう意識を少しでも払拭したいと思って、最近はなるべく「語学」という言い方ではなくて、「ことばの勉強」みたいな言い方をするように努めてはいたけど、やっぱり、言っているだけじゃだめだなぁ、て思う。というか言い方はそこまで問題ではなかった(笑)

「ことばを通して『世界を愛する』」。
新聞を読むとか、文学読みたいな、とか、人と話したいな、とか、そういう、「愛」とか「あったかい」がいっぱいあるものに飛び込む。

これ、 言葉で言うとなんだか誰でも分かっているようなありきたりな文言に聞こえるけれど、実はこれさえできれば、たぶん誰でも、「言葉を習得する」ということが単なる「通過点」になって、その先の本当に「自分が好きなもの」がわんさか見えるから、ずいぶんことばを勉強することが、簡単で、楽しいものになると思うのである。

そういえば、留学中に新聞なんてほとんど読まなかったし、そもそも、「イタリアにいる」ということを、目一杯活用できていた気がしないなぁ。

というわけで、イタリアの空気が少しだけ鼻の頭をかすめた日でした。

こんな時もあったな。(@Roma,Fontana di Trevi,2012)

2014年7月16日水曜日

今すごくしたいこと

今すごくしたいことは、個々に言えば一杯あって、たとえば語学やりたいとか、納得の行く雑誌づくりがしたいとか、旅行行きたいとか、もう好きなだけジャグリングしたいとか、色々あるんだけど、なにがイヤかって、そのひとつひとつを「味わう」時間がないっていうことです。

でもこれはひとえに自分のせいです。といっても、だらしないから、というより、覚悟が足りないからかな、と思います。まずひとつのことにきっちりぐっと専念して、それを楽しむのって、要は一旦他のものを「全て捨てる」ってことだから、なんか勇気がいるんですよね。

朝型にして、あと、「もう俺はコレだけやるんだ」っていうのを、どっかで腹くくってみないと、そういう「味わい」はないのかも 。同時に、Hungry精神ってそういうことかな、と思う。

2014年7月15日火曜日

創作の方法か

 創作には色々方法があって、自分ができることを使って、なにかこう湧き出るものをなんとか形にするわけだけど、ダンスってやっぱり初原的だよなって思う。きっとダンスのジャムセッションが楽しいのは、常に「気持いい状態でいられるからだろうし、なんていうか、身体の「快楽」にすごく忠実なんだろう。
 それに対してジャグリングっていうのは、結構フラストレーションがたまるやりかたで、落としちゃいけないし、なんだり、って、気を遣うべき所がいっぱいありすぎる。
 それで、「落とすのもジャグリングだよね」っていう宣言は、なんていうか、もっと快楽原則に従うようにやった結果なのかもしれない。

違うかもしれない。

2014年7月11日金曜日

Floor



エロティックなジャグリングだけど、なんか無機質すぎてそんなにピンと来ない。
ガンディーニジャグリングは、およそ私が生まれたくらいの頃から(1993年、2歳のときか。)ジャグリングを使った表現を模索しています。
なんか、書こうと思ったけど、特に感想ないな。
別に俺はこの作品に関しては好きじゃないなぁ。




2014年7月7日月曜日

今の心境がここに出ているんだと思う

もうむちゃくっちゃむっちゃくっちゃやることいっぱいあるから、
あるからこそ、無駄なことに時間を費やしてしまう。

翻訳で、やることをいっぱい抱えている。これはもはや、神の「翻訳家になれ」というお達しとしか思えない。たぶんこれらの仕事を全部きちんと片付けた暁には、レベル5のナゾノクサを一回だけ顔出しして、95レベのカメックスで92レベのゲンガーを倒したときにナゾノクサに入る経験値に匹敵するくらい経験値が入って、私はナゾノクサの次のやつになる。何になるんだかは忘れた。間違いない。

 そもそも自分にとって翻訳とは何か。気がついたら、自分は外国語がとんでもなく好きになって、そのうち、相対的に好きな学習分野、というより、外国語学習そのものが快楽を提供してくれるようになった。趣味になった。今は、そういう「趣味」の域を超えるための試練のときなのかもしれない。「仕事」になるための。

今現在も、ニューエクスプレス・フィンランド語のCDをなんとなく流しながら打っている。でもこれは単に趣味なんであって、やっぱり仕事にしようと思ったら、自然、もっと苦しんで能力を身につけないといけない。これからやって、最短距離で仕事になりそうなのは英語かイタリア語だけど、そのどちらも、まだ、全身全霊をかけて打ち込むほどの魅力を持っていない。でも、きっと魅力というのは、「打ち込み始めた時」に初めて姿を現すものなのかもしれない。

でも、初めに打ち込めなかったらやっぱりだめだから、そもそも自分にとって「とんでもなく魅力を持っている」ということは大事である。insanely greatではないが、insanely attractiveであることが大事なのである。なんでだろう?たぶん、ひとつの分野で突出するには、他の人をやっていないことをしなければいけないからだろう。そして、他の人がやっていないことをみつけて、やるのは、すごく「めんどくさい」のだ。自分がそれにぞっこんでないかぎり、絶対に見つけられないものなのだ。

 これは自分の今の趣味のジャグリングにも言える。ジャグリングは、今は趣味だ。全くの、趣味だ。お金をもらったことだってあるけど、今は趣味だ。でも、これをやっぱり仕事にしたい、となると、何か越えなきゃいけない「峠」がある。そしてその峠を越えるには、それ相応の「ジャグリングへの恋」をしていないといけない。

 語学では、たぶんもうその峠が来た。そして、この峠を、今後3、4年くらい同じペースで登り続けたら、たぶん何かの道がひとつ開ける。見たこともない、「分かるのが普通」、という域に入る。そう信じてやれば、きっとそうなる。信じる所からしか、面白い道は始まらない。「そんなの、まちがってるよ」と人に言われても、屁でもない。なぜなら、未来を知っている人は誰一人としていないから。自分が「これがいいんだ」と信じるところに、跳躍があって、それが「スゴい」か「スゴくない」かの境目になるんだと思う。

 今何をがんばったらいいのか、本当に分からない。だから、とりあえず全部頑張っている。それに損はない。たまにばてて心まで悲しくなるけど、寝ると治る。頑張らないで虚しくなるより、だいぶいい。頑張りたいことがあるのに、それに目をつむってとりあえずの快楽に身を落とすことほどあとあと後悔することもない。

今これを書くことで、ストレス解消になっているのかもしれない。
書くことって、自分の頭から何か、溢れ始めたときに、一気に、ドッと書けるようになる。逆に、自分の頭がすっからぽんか、良くて8分目くらいの時に何か「書こう」としても、絶対に書けない。無理して放り出す感じは、いらいらする。

頭には、「エンジンがかかる時」がある。

そのエンジンのかかるときは、上級者はコントロールできるのだろうけど、普通は、ランダムに訪れるから、それをぱっとつかまえて、その場でだーーーーーーっと書き上げるすべを身につけるしかない。

そのうち上級者になれたらいいな、と思う。そのためには、きっと「プレッシャーがかかる」ことがいい。もぎさんみたいに予定にサンドイッチにされてるようになれば、自然ひとつひとつやることの馬力が跳ね上がるはず。だから、わくわくする予定を、あえていっぱい入れちゃって、無理してそれまでに仕上げるのがいいのか、と思う。

だからとりあえず今日はもう少し頑張ろう。

2014年6月23日月曜日

無責任に

無責任に生きるのは簡単だけど、たぶんやっぱりそれなりに損する部分がきっとどっかにあるんだろう。
今はそれを見つけるように頑張るべき時期なんだろう。

うん。

2014年6月17日火曜日

每天進步一點點,幸福快樂到永遠。

相変わらずドイツ語が楽しい。
これがすごく楽しくて、ほっといても勝手に毎日少しずつやっちゃうんで、ジャグリングを始めたばっかりの頃を思い出すような思い出さないような。チェコ語も少しはやりたいんだけど、やっぱりなんか優先順位的にドイツ語が勝っちゃって、チェコ人のみなさまには申し訳ない。ヘレナ先生。
あとフィンランド語もぼつぼつやりたいんだけど、なんか、あれだ。ぼつぼつやろう。
もはや私は早稲田に、語学をやる以外に特に通う用事がない、みたいになっている。
今日は初めて、「マイナー言語研究会」なるものにちょっと顔を出してみた。
といっても発足は本当についこの間。
それをたまたま図書館の近くの掲示板でみつけたんで、とりあえず行ってみた。
まだ始まったばかりでなにもわからないといえばなにもわからないのだけど、直感的に感じたこととして、特に代表の方が、あっ、俺と自然に言語について話せる人だ。と、非常に心持ちが良くなった次第であります。少人数のゆるサーって、またいい。気がついてみると、卒業したら図書館入れないんだよね。カード買おうかな。
まぁ大学は、一応取らなきゃいけない単位はひとつだけあるんだけれど、まぁ、きちんとそれさえ行けば、いずれ卒業できるし。卒業してからなにしよう、と考えるのもまた楽しい。自分の思ったように大学を「編集」して、切り取って、はっつけて、なるべく最大限興奮しながら過ごすようにするのが、若い時間をフルパワーで過ごすコツ。



【うまくなること】

うまくなってるっていうのは、一週間ごとにみても、やっぱりうまくなってる、っていうことなんだろう。そのはずなのだ。
上に上がっていくグラフがあったとして、そのどの部分を切り取っても、やっぱりうまくなっているっていうことが大事なんだ。じゃないと、いつまでたっても人より早くはうまくならないのだろう。

每天進步一點點,幸福快樂到永遠。

っていうのは、シルクドゥソレイユのKAで京劇をやっていた星合(しんほあ)という大好きな友達が言っていたことなんだけれど、やっぱり、毎日、進歩があるっていうのがすごく面白いことで、ぼくはこれの意味が正しく取れているのかどうか、よくわからないんだけど、毎日少しづつ進歩していくことで、幸せで楽しいことが永遠に続く、っていう、そういうことなんだと思ってる。
ぼくはこれがすごく気に入っている。


2014年6月16日月曜日

TRASH(FUNNY BONES公演感想)

今年の4月に書いていたものをなんだかiPad 放置していたので適当に加筆修正して載せる。

TRASH(FUNNY BONES公演感想)
    
    長らく、といっても5、6年間のことだが、私はこのファニーボーンズというコンビの演技が好きである。初めて彼らの演技を見たのは、六本木だった。本当はドイツからはるばる来ていたGet the shoe というコンビを見るために行ったのだったが、ついでに他にもやっていた大道芸を見たのである。そのうち一組がファニーボーンズだった。
    ファニーボーンズは、英国出身のクリスと日本人のけーぼーのニ人組。パントマイムやジャグリングもするが、それらは技術を見せるためというよりは、コメディの手段として使われる。だいたいどの演目も最終的にコメディになるような、「笑い」をベースにしたショーが彼らのスタンスだ。演劇の要素も強く、ジャグリング中心の大道芸では出せない、観客との一体感が魅力である。中でも彼らの面白おかしいパフォーマンスを際立たせるキャラクターが、「東京ゾンビーズ」。詳しくは実際に見ていただきたいのと、楽しみをフイにしたくないので説明は最低限にしておくが、簡単に言えば、大きなゾンビが演目中に登場するのである。これが本当に面白い。5、6回はこの演目を見ているはずだが、未だにゾンビーズが出てくると目がキラキラしてしまう。『TRASH』は、彼らにとって初めての舞台ソロ公演。大道芸では見慣れているファニーボーンズが、舞台上でどういうことをするのか、非常に楽しみであった。
    場所は池袋駅から徒歩10分ほどのところにある、シアターグリーン。こじんまりとはしているが、綺麗ですっきりとした劇場である。舞台と客席の距離が近い。劇場の小ささというのは、特にジャグラーだとよく感じるのだが、演じる側が多少やりづらい。だが臨場感が増す。場合によっては、ただ広いだけの劇場と比べると、かえって魅力的である。あまり広いと動画で見るのとそう大差がなかったりする。実際に足を運んで観劇するなら、「ひと」を感じられる距離感がいいな、というのはよく思う。
    劇場に入ってすぐ、薄暗く照らされた、ゴミ置き場に模した舞台装置のかわいさが目を引いた。早速、「ファニーボーンズらしさ」を感じる。
    内容は、大道芸の方を見慣れている私からすると、ほぼ「いつも通り」であった。このことは、またゾンビーズや、お馴染みの演目が、こんな近さでゆったりと見られる、という期待でもあったし、一抹の物足りなさでもあった。だが大いに楽しんだのには変わりがないので、見に行って本当によかった。
     序盤は、スカイダイビングをネタにしたコメディ。ファニーボーンズらしく、オチから本筋に入るまでが鮮やかであった。彼らの演技には隙が無いな、といつも思う。長年同じ演目で演じ続けて来ている蓄積のおかげもあるだろう。アドリブがあるにしても、大体、冗長すぎず、かといって一瞬で流すのでもなく、適当な長さでうまくまとめる。これは見る側が思うほど簡単ではない。クリスのジェスチャーやけーぼーのコミカルな演技は、言葉無しで少々複雑なことでも伝えてくる。
    欲を言わせて頂けるのであれば、もっと新ネタを見たかったと言えば見たかったのだが、しかしあれだけうまいこと全てのネタをつなぎ合わせ、最後まで雰囲気を損なわず、飽きさせることなく一時間以上も演じ続けるだけでも脱帽である。非常に力のあるパフォーマーだと思う。
    さて、ファニーボーンズの魅力とは、一体なんなのだろう。一番に思い浮かぶのは、彼らの所作である。クリスの変顔、けーぼーの小ネタ。決して、「技術」にあるのではないな、と思う。むしろ「技術」は当たり前のものとして、如何に自分を見てもらえるかということが、彼らの関心であろう。だから決して、ファニーボーンズの演技を見て、「うわぁ、スゴイ」とは思わない。たとえばテープを使ったパントマイムのアイデアの素晴らしさに嘆息することはあるが、彼らが鍛錬した技術そのもの、とは言えない気がする。彼らが舞台で演じている様子を見ると、彼らが、好きになる。彼らの「技」を好きにはならない。この点において私は、ジャグラーの多くが、少なくとも日本のジャグラーの多くが、ダンサーのように「自分を見せる」ことを不得手とする原因の説明の手がかりを見出す。
    なぜかというと、ジャグリングは、「じぶんとモノとの関係」だからである。すなわち、ジャグリングの練習をするということは、特別意識をしない限り、「モノについて考えること」なのだ。それに対して、ダンスはどうか。ダンスは、つまり「舞い」は、「じぶんの肉体をどう扱うのか」ということとして考えられる。パントマイムにしても、おそらくそうだろう。もしかすると、「じぶんと、自分の想像力との関係」かもしれない。
なんにしても、今起こっていることが、観客の反応を通してしかわからない、という点に、大きな違いがあるような気がする。
そういうわけで、ジャグリング「で演じる」ということと、ジャグリングを「見せる」ということにはまた、大きな隔たりがあるなあと思うものである。










2014年6月15日日曜日

イギリス

http://www.nationalcircus.org.uk

 イギリスのロンドンで、プロが使えるスペースがあるらしい。
気になる。

2014年6月14日土曜日

そして虚しい、ジャグリングで「書く」

そして虚しい、ジャグリングで「書く」

 ここのところ、ジャグリングで何かを書くということについて考えさせてくれるような出来事ばかりでなかなか面白い。
 今日はダミアンナオミさんの話でした。
 両国パフォーマンス学会に行って来たのですが、その中で、ダミアンナオミさんというウィップパフォーマンスをしている方が、「頭でっかちにならないで、まずは道具を持って、使って」という話をされていました。(だいぶ主旨ははしょってます)
 ジャグリングで「書く」ということは、本当に無力です。
 いくらこれこれこういうジャグリングが理想だ、と言おうが、全然違ったスタイルのものすごいジャグリングのビデオを見たら、そんなものはいっぺんに吹っ飛びます。無化されます。
 いくら、こうしたら上手くなる、だの、こうしないと変なクセがつく、だのごたごたと言っていても、毎日5時間練習している人がいたら、そういう文章は、そういう人には無関係なことです。
 とにかく、ジャグリングは「やること」。考えることなんかではない。道具を取ったもん勝ちだし、道具をさわっていない時間は、ジャグリングをしている時間ではない。
 「それでも考えちゃうんだけど」っていうところに、雑誌の焦点はあるわけで、別に僕はそれでいいので、やります。
 でも、やっぱり「やる」ジャグリングの力には到底及ばないな、というのが、普通に考えた結果です。ジャグリングはやるもんだ。
 こういうところで書き散らしているのも、はっきり言えばほとんど時間の無駄なわけです。
でも、それでも書いちゃうんだ。
 「書いちゃう」っていうことには、そういう力がある。「書かずにはいられない」時の「書く」には、顕微鏡で見ないと見えないくらいだけど、先につながる「何か」がある。勿論、実行にしか力はないです。だから、もし「書く」か「書かないか」選べるんだったら、極力「書かず」に、「やった」方が良い。それこそが、「現実主義」です。でも、やっぱりそれでも、「書かないと」やっていけない、この気持を抑えられない、そういう時にのみ、「書く」ということに、面目躍如の可能性がほんの少しある。
 そこにきて思い出すのが、養老孟司さんが今月号の雑誌「kotoba」で言っていた、(というか随所で彼はこういうことを言っているが)著作というのは、思考の排泄物だということ。本屋なんか、「精神病院の待合室」(一字一句までは正確に引用していない)みたいなもんだと。僕はこれに実に共感できる。やっぱり養老さんは面白い。この、「書く」ときに感じる、というか書き終わった後に時折感じる虚しさとか、結局、書いたって大してかわんねえんだよな、みたいな「何したんだ俺」という感じは、これで全て合点がいく。要するに、自分が考たことの、顕示でしかない。
 それで養老さんは、排泄だから、書きたいと思った時に書いちゃうのは、健康ということで言えばいいことだ、と言って笑う。
 これで、Twitterが流行るなんていう事にも、実に合点が行く。日本以外であまり流行らないのは、たぶん他の国の人たちは、そういうところに吐露する以外に、思考を吐き出すための場所を持っているからだと思う。イタリア人だったら、間違いなく、対面したときに話す量。たぶん、青木が一週間で話す分の量+書く量=イタリア人が一日に話す量なんじゃないかと思うほど、彼らは、話す話す。

 そうそう、それであとの出来事は何かっていうと、エミール・ダールやウェス・ペデンのビデオを見たことです。
なにより、自分のジャグリングが超絶へたくそであることに久々に気づいて愕然としたし、生きるっていうのはこういうことなんだ、というくらいエネルギーの溢れるビデオを見せてくれたウェスもすごかったし。とにかく自分のエネルギー不足を感じて、なにちまちま「正確に書く」みたいなことにこだわっているんだろう、というような気分になったわけです。
 あとは、生のジャグリングの舞台演技を見たと言うこともありました。

 やっぱりね、「ライブ」(Live)の勢いには、書くなんていう行為は、勝てないね。
 古典が持っている力、本が持っている力、書くものが持っている力って言うのは、書かれたものそのものが持っている力であって、自分自身の力では無いと思ったほうがいい。だから何百年も生きるんだ。そんなに長生きなものなんだから、どっかに「生きもの」と違うことがあるんだ。
 自分が今欲しているのは、「生きもの」として、今やりたいことなんだ。
 「文章」は、思考のくず。その程度。それが、たまたま、いいものだと、力を持っちゃうことがある。でもそれは、本当は、あんまり、作者とは関係が無い。作者がなんと言おうと、それはそれとして、書かれたものは書かれたものとして、一人歩きを始める。
 でも、パフォーマンスは違うんだ。
 パフォーマンスは、自分が生きている間しか、そこにない。
 そこに、きっと何かの「保存の法則」があるんだ。
 短い寿命しかないもののもつ爆発的な力みたいなものが。


 それでやっぱり、俺は「書く」も好きなので、書くジャグリングの雑誌:ponteは、ますます力を入れて活動する予定です。へへへ。
 それは、少なくとも青木には「雑誌を作る」ということもひとつの「Live」だからである。
 結構面白いので、読んでみてください。
 それでは練習に行ってきます。(ダッシュ)
  ポンテ。
http://jugglingponte.com


関連リンク
第二回両国パフォーマンス学会(2014年6月14日終了しました)
ダミアン ナオミさんのスタジオのブログ

書くことなんてほぼ0だよ

今少し酔ってる。
書きたい。

書くことなんていうのは、本当に微々たる力しかないんだな。
ジャグリングのことなんか語る時は、特にそう。
エミール・ダールの作品を見て驚いてしまった。
ジャグリングってこんなにすごいことだったんだ、と驚いてしまった。
自分がいかにジャグリングのことを忘れていたか思い知った。
ジャグリングは、やっぱり「すること」なんだ。
書くことなんかじゃないんだ。
それはね、俺の先生が言ってくれたんだ。


ジャグリングは、することなんだ。
ジャグリングは「鉄の壁」だ。
書くって言うのは、それを爪でひっかくだけの行為だ。猫が壁に爪をたてるのと同じなんだ。傷つくのは自分のほうなんだ。


いっくら上手い文章が書けたって、ジャグリングの世界ではヒーローになんかなれやしないんだ。
ジャグリングは、上手くなきゃしょうがないんだ。
ジャグリングは、ジャグリングそのものは、いたって雄弁だ。

ジャグリングが語れないことを、俺は書くしかないんだ。

それで今ウェスのTHROW JOYを見たら、ますます血がたぎってしまった。
最高。






2014年6月6日金曜日

エリックのインタビューを終えて

 書くジャグリングの雑誌:ponte の編集長として、 またなんでもやる下っ端として、ていうか単に「創作意欲が湧いた一個人」として、ジャグラー、エリック・ベイツにインタビューをした。

 インタビューというものの経験がほとんどなくて、毎回どうしたらいいか迷っている。インタビューのなんたるかなど、全く分からない。まずもって、日本語でインタビューをしたことすらほとんどない。よってそんなことを英語で行うと、毎度必ず、恥をかく。編集してあるからまだ読めるものの、インタビューを行っている最中は、もう、あっぷあっぷだし、次に何を言うか一生懸命考えながら同時に言っていることを聴くような有様だから、よく大事な内容をスルーしてしまっていたりする。後で聴き直して「なんでここにつっこまないんだよ」ということに気づくことなんかざらである。それでもあえて慣れない言葉でインタビューをやってみようと思えるのは、それだけ、アーティストがジャグリングを語ることばの中に光るものを見つけられるからだし、なんだかんだで楽しいからだし、あとは却って、英語やその他のことばで聴く方が、自分で勝手に「素敵」に解釈することが多いから、かもしれない。これはもう、アホな私のせいとしか言いようがない。語学に対する気持が気持ばっかりだから、英語がろくに身に付かない。

 エリック・ベイツとのインタビューで、インプロを音楽に合わせてたくさんやる、ということがあった。
 これを聞いてあとから思った。
音楽に合わせてジャグリングをする。これは要するにジャグリング以外のものが自分に与える印象を、ジャグリングに変換してみる作業、と言える。
 だったら、必ずしもその「ジャグリング以外のもの」が、音楽である必要はないんじゃないだろうか。たとえばこれを、音楽ではなくて、絵画からインスピレーションを得ながらやったら、また違ったものが生まれて来るんだろうか。ただしかし、普通は、ジャグリングは、音楽と一緒に提供するものなので、音楽でインプロをするのががあくまで「基本」ではあるけれども。
 ここに関しては、もう既に、ダンスやその他表現芸術の分野で、理論化が進んでいるのかもしれない。もしかすると、ジャグリングの世界で「新しい」と騒がれていることは、もれなく、他の世界で「古い」とされていることなのかもしれない。
 でも同時に、その至らなさこそが、ジャグリングのいいところなのだ。
 理論化などほぼ全くされていない。
 ほとんど誰も、「自分の通った道筋」を「整備された道」にしないことが、ジャグリングの自由さと、同時につたなさを創り出しているのだ。
ジェイ・ギリガンが言っていた「ジャグリングがまだ若い芸術である時代に生まれられてよかった」というのも、こういうことだ。

編集で徹夜しちゃったから、今日はきっと眠くなる。

2014年5月18日日曜日

イタリアのてぃぴこ

私情がだいぶ挟まっているとはいえ、イタリアほどノスタルジックなステレオタイプが似合う国もないな。

2014年5月14日水曜日

キュビスムの日本での受容

大学の先生のお手伝いで、キュビズムの日本での初期の受容について調べることになった。

特に、キュビスムが日本にどういう経路で、どういうものとして、伝わって来たのか、ということについて。


なんだか、何をするもんだか分からん世の中だ。


でも面白そうなのでがんばってみよう。

2014年5月11日日曜日

とらなくていいんだよ

「とらなくていいんだよ」


「写真を撮られる」というのは異質な感覚で、大体において不快感を与える。

電車の中で、若い二人の親と、子供が乗ってくる。日曜日。
どこかにでかけるようである。
電車は比較的空いている。
お母さんと子供は空いた席に座り、立っていたお父さんも、しばらくして向かいの席に座る。
座ってからしばしiPhoneをいじった後、お父さんが、何も言わずに向かいに座った3、4歳くらいの息子の写真を撮る。
突然、子供は「とらなくていいんだよ」と、大声で言いながら悲しい顔をする。

お父さんは黙って微笑して写真を眺めている。

子供の写真をiPhoneで撮るということに、なにか、「愛」とはむしろ正反対のものを感じた。

2014年5月10日土曜日

『シュヴァンクマイエルのキメラ的世界』が、なかなか面白かった。鑑賞中に書いたこと、引用など

TSUTAYAでシュヴァンクマイエルの作品や、その他シュヴァンクマイエル関係のDVDを借りて一気観した。
特に最後に観た『シュヴァンクマイエルのキメラ的世界』が、なかなか面白かった。鑑賞中に書いたこと、引用など。

(CG技術について聞かれて、にこにこしながら優しく答える)

ヤン・シュヴァンクマイエル
「別に保守的ではないがあの手の技術が好きじゃない
あまりに完ぺきで何かが欠けてる 
技術だけが目立つ
手作りだと完ぺきではないしー
小さなミスもたくさんあるだろう
でもそのミスこそ大切でそれも含めて『私の』作品だ」

エヴァ・シュヴァンクマイエロヴァー
(なぜ家に多数の彫像を置くのか聞かれて少し怒ったように答える)
「バカげた質問ね」
「彫像を置く理由なんて言えない」

(ドキュメンタリー映画 "Les Chimères des Svankmajer” 邦題「シュヴァンクマイエルのキメラ的世界」より。文中の『』で囲った部分は、原字幕では傍点)

インタビューで、「なんで」って尋ねるのは簡単だし、そういう質問への答えも、出そうと思えばいくらでもでっちあげられるが、創造的な仕事をしている人の作品において、たとえばそれを作った理由とか、それをそういうふうにした理由について、「なんで」か答えられるようなことってほとんどない。

シュヴァンクマイエルはかっこいい。
なにがかっこいいって、もう、どうにも言えないけど、おじいさんなのにかっこいい。宮崎駿みたいにかっこいいし、宮崎駿以上にかっこいい。

チェコの歴史が非常に気になって来た。
特に、1900年代後半の歴史。

触覚のエロティシズム。
触覚ってそういえば忘れていたなあ。
チャットで失われる第一のものかも。
「触覚の予感」が失われる感じ。

「チェコ語を再び真面目にやりたくなってきた。」
という文を書こうとして、ふと。

どうせ音声学とか、その他言語学の道には当分足を
踏み入れない(と思う)ので、なんならいっそ、一切言語学の学問的な勉強をせずに、一から自分で、気になったことを検証してみて、自分なりの「ことばの感覚」を参考書無しでひもといてみよう。在野の言語学。

初めに、

「チェコ語が再びやりたくなってきた。」

という文章を書いて、そのあと、「真面目に」という副詞を付けようとした。

「チェコ語が再び真面目にやりたくなってきた。」

と、なんだか少しおかしな感じがする。
なんでだろう。

チェコ語をやりたくなってきた。:○
チェコ語がやりたくなってきた。:○

おんなじ意味だ。おかしくもない。

チェコ語を再びやりたくなってきた。:○
チェコ語が再びやりたくなってきた。:○

うん、まだギリギリ大丈夫な感じがする。

チェコ語を再び真面目にやりたくなってきた。:○
チェコ語が再び真面目にやりたくなってきた。:??

こうなると、ちょっと二番目の文章は、まるで「チェコ語」が主語である、つまり、「チェコ語さんがなんか真面目にやろうとしている」みたいな印象を一瞬与える。(読み手によって違うかもしれないが。)

あんまりにも「が」を付けた単語と述語が離れていると、「が」がついた単語が主語だと思えてしまうから、なんか変な感じがする。

シュヴァンクマイエル夫妻の生活がすごく魅力的だった。