2014年6月14日土曜日

そして虚しい、ジャグリングで「書く」

そして虚しい、ジャグリングで「書く」

 ここのところ、ジャグリングで何かを書くということについて考えさせてくれるような出来事ばかりでなかなか面白い。
 今日はダミアンナオミさんの話でした。
 両国パフォーマンス学会に行って来たのですが、その中で、ダミアンナオミさんというウィップパフォーマンスをしている方が、「頭でっかちにならないで、まずは道具を持って、使って」という話をされていました。(だいぶ主旨ははしょってます)
 ジャグリングで「書く」ということは、本当に無力です。
 いくらこれこれこういうジャグリングが理想だ、と言おうが、全然違ったスタイルのものすごいジャグリングのビデオを見たら、そんなものはいっぺんに吹っ飛びます。無化されます。
 いくら、こうしたら上手くなる、だの、こうしないと変なクセがつく、だのごたごたと言っていても、毎日5時間練習している人がいたら、そういう文章は、そういう人には無関係なことです。
 とにかく、ジャグリングは「やること」。考えることなんかではない。道具を取ったもん勝ちだし、道具をさわっていない時間は、ジャグリングをしている時間ではない。
 「それでも考えちゃうんだけど」っていうところに、雑誌の焦点はあるわけで、別に僕はそれでいいので、やります。
 でも、やっぱり「やる」ジャグリングの力には到底及ばないな、というのが、普通に考えた結果です。ジャグリングはやるもんだ。
 こういうところで書き散らしているのも、はっきり言えばほとんど時間の無駄なわけです。
でも、それでも書いちゃうんだ。
 「書いちゃう」っていうことには、そういう力がある。「書かずにはいられない」時の「書く」には、顕微鏡で見ないと見えないくらいだけど、先につながる「何か」がある。勿論、実行にしか力はないです。だから、もし「書く」か「書かないか」選べるんだったら、極力「書かず」に、「やった」方が良い。それこそが、「現実主義」です。でも、やっぱりそれでも、「書かないと」やっていけない、この気持を抑えられない、そういう時にのみ、「書く」ということに、面目躍如の可能性がほんの少しある。
 そこにきて思い出すのが、養老孟司さんが今月号の雑誌「kotoba」で言っていた、(というか随所で彼はこういうことを言っているが)著作というのは、思考の排泄物だということ。本屋なんか、「精神病院の待合室」(一字一句までは正確に引用していない)みたいなもんだと。僕はこれに実に共感できる。やっぱり養老さんは面白い。この、「書く」ときに感じる、というか書き終わった後に時折感じる虚しさとか、結局、書いたって大してかわんねえんだよな、みたいな「何したんだ俺」という感じは、これで全て合点がいく。要するに、自分が考たことの、顕示でしかない。
 それで養老さんは、排泄だから、書きたいと思った時に書いちゃうのは、健康ということで言えばいいことだ、と言って笑う。
 これで、Twitterが流行るなんていう事にも、実に合点が行く。日本以外であまり流行らないのは、たぶん他の国の人たちは、そういうところに吐露する以外に、思考を吐き出すための場所を持っているからだと思う。イタリア人だったら、間違いなく、対面したときに話す量。たぶん、青木が一週間で話す分の量+書く量=イタリア人が一日に話す量なんじゃないかと思うほど、彼らは、話す話す。

 そうそう、それであとの出来事は何かっていうと、エミール・ダールやウェス・ペデンのビデオを見たことです。
なにより、自分のジャグリングが超絶へたくそであることに久々に気づいて愕然としたし、生きるっていうのはこういうことなんだ、というくらいエネルギーの溢れるビデオを見せてくれたウェスもすごかったし。とにかく自分のエネルギー不足を感じて、なにちまちま「正確に書く」みたいなことにこだわっているんだろう、というような気分になったわけです。
 あとは、生のジャグリングの舞台演技を見たと言うこともありました。

 やっぱりね、「ライブ」(Live)の勢いには、書くなんていう行為は、勝てないね。
 古典が持っている力、本が持っている力、書くものが持っている力って言うのは、書かれたものそのものが持っている力であって、自分自身の力では無いと思ったほうがいい。だから何百年も生きるんだ。そんなに長生きなものなんだから、どっかに「生きもの」と違うことがあるんだ。
 自分が今欲しているのは、「生きもの」として、今やりたいことなんだ。
 「文章」は、思考のくず。その程度。それが、たまたま、いいものだと、力を持っちゃうことがある。でもそれは、本当は、あんまり、作者とは関係が無い。作者がなんと言おうと、それはそれとして、書かれたものは書かれたものとして、一人歩きを始める。
 でも、パフォーマンスは違うんだ。
 パフォーマンスは、自分が生きている間しか、そこにない。
 そこに、きっと何かの「保存の法則」があるんだ。
 短い寿命しかないもののもつ爆発的な力みたいなものが。


 それでやっぱり、俺は「書く」も好きなので、書くジャグリングの雑誌:ponteは、ますます力を入れて活動する予定です。へへへ。
 それは、少なくとも青木には「雑誌を作る」ということもひとつの「Live」だからである。
 結構面白いので、読んでみてください。
 それでは練習に行ってきます。(ダッシュ)
  ポンテ。
http://jugglingponte.com


関連リンク
第二回両国パフォーマンス学会(2014年6月14日終了しました)
ダミアン ナオミさんのスタジオのブログ

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