2014年5月10日土曜日

『シュヴァンクマイエルのキメラ的世界』が、なかなか面白かった。鑑賞中に書いたこと、引用など

TSUTAYAでシュヴァンクマイエルの作品や、その他シュヴァンクマイエル関係のDVDを借りて一気観した。
特に最後に観た『シュヴァンクマイエルのキメラ的世界』が、なかなか面白かった。鑑賞中に書いたこと、引用など。

(CG技術について聞かれて、にこにこしながら優しく答える)

ヤン・シュヴァンクマイエル
「別に保守的ではないがあの手の技術が好きじゃない
あまりに完ぺきで何かが欠けてる 
技術だけが目立つ
手作りだと完ぺきではないしー
小さなミスもたくさんあるだろう
でもそのミスこそ大切でそれも含めて『私の』作品だ」

エヴァ・シュヴァンクマイエロヴァー
(なぜ家に多数の彫像を置くのか聞かれて少し怒ったように答える)
「バカげた質問ね」
「彫像を置く理由なんて言えない」

(ドキュメンタリー映画 "Les Chimères des Svankmajer” 邦題「シュヴァンクマイエルのキメラ的世界」より。文中の『』で囲った部分は、原字幕では傍点)

インタビューで、「なんで」って尋ねるのは簡単だし、そういう質問への答えも、出そうと思えばいくらでもでっちあげられるが、創造的な仕事をしている人の作品において、たとえばそれを作った理由とか、それをそういうふうにした理由について、「なんで」か答えられるようなことってほとんどない。

シュヴァンクマイエルはかっこいい。
なにがかっこいいって、もう、どうにも言えないけど、おじいさんなのにかっこいい。宮崎駿みたいにかっこいいし、宮崎駿以上にかっこいい。

チェコの歴史が非常に気になって来た。
特に、1900年代後半の歴史。

触覚のエロティシズム。
触覚ってそういえば忘れていたなあ。
チャットで失われる第一のものかも。
「触覚の予感」が失われる感じ。

「チェコ語を再び真面目にやりたくなってきた。」
という文を書こうとして、ふと。

どうせ音声学とか、その他言語学の道には当分足を
踏み入れない(と思う)ので、なんならいっそ、一切言語学の学問的な勉強をせずに、一から自分で、気になったことを検証してみて、自分なりの「ことばの感覚」を参考書無しでひもといてみよう。在野の言語学。

初めに、

「チェコ語が再びやりたくなってきた。」

という文章を書いて、そのあと、「真面目に」という副詞を付けようとした。

「チェコ語が再び真面目にやりたくなってきた。」

と、なんだか少しおかしな感じがする。
なんでだろう。

チェコ語をやりたくなってきた。:○
チェコ語がやりたくなってきた。:○

おんなじ意味だ。おかしくもない。

チェコ語を再びやりたくなってきた。:○
チェコ語が再びやりたくなってきた。:○

うん、まだギリギリ大丈夫な感じがする。

チェコ語を再び真面目にやりたくなってきた。:○
チェコ語が再び真面目にやりたくなってきた。:??

こうなると、ちょっと二番目の文章は、まるで「チェコ語」が主語である、つまり、「チェコ語さんがなんか真面目にやろうとしている」みたいな印象を一瞬与える。(読み手によって違うかもしれないが。)

あんまりにも「が」を付けた単語と述語が離れていると、「が」がついた単語が主語だと思えてしまうから、なんか変な感じがする。

シュヴァンクマイエル夫妻の生活がすごく魅力的だった。

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