2020年10月12日月曜日

いまのことをかけ(3) それこそがまさに「自分に厳しい人」だからね

 これは、なにも誰かに向かって言っているというのでは決してないのだけど。

「自分に厳しい」態度にアテられてしまうことがある。

自分に厳しい、というのは、たとえば、自分が許せない、という気持ちである。極力多くを「自分の意思」の責任とする、という態度のことである。そしてここに「厳しくない態度」が介入すると、全体のバランスが崩れてしまう。それはその人なりのエコシステムであって、というか誰しも多かれ少なかれ持っていることで、ただその大きさが違うだけ、ということではあるんだけど、やっぱり、特にその気持ちを大きく持っている人に対して、「もう少しだけでも気楽になったっていいのではないか」と思うことはある。

しかし、実際にはそういうことを言ってもダメなんだよね。
どこか一箇所、たとえば睡眠時間にしても、仕事のことにしても、なんでもいいけど、もっと楽にしてみたら、とパラメータをいじるよう助言したところで、それはその人の中では「そこを楽にしたらすべてが瓦解しうる」要素になっているのであって、もちろん気持ちは嬉しい可能性だってあるんだけど、そこで素直に「ありがとう、そうする」とは言えないはずのである。なぜなら、それはその一箇所だけの問題ではないからだし、あと、あくまで是非の判断を下すのは自分でないといけないしね。(それこそがまさに「自分に厳しい人」だからね)結果、安易に声をかけたところで、それは受け入れられないことが大半である。

純粋に、この人の助けになれたらなー、と思うんだけど、何もできないなぁ、と感じることって多いよね。まぁ、僕自身がその人の助けであれたらいいな、と結構本気で思っているからこそ、そういうときにやるせなさを感じるのだし、そういう気分はそれ自体、悪くはないけれどもさ。

だから黙って見ていて、もし本当に辛くなったときは、いつでもそこにいる、と思ってもらえている、っていうのが、なんか一番いい距離なのかもしれないし、それはとてもいい関係だ、嬉しいよな、ということを思った日でした。

※※※

昨日はギリヤーク尼ヶ崎さんの大道芸をみた。横浜の大桟橋で行われる、というので、今見なければ次いつ見られるかわからないな、と思って、行った。

彼の踊りそのものにハッとするものがあったというよりは、その佇まいに迫力があった。もう90のおじいさんで、生物としての物理的な力は弱いはずなのだが、この人は全然油断をしていないんだろうな、と感じた。

はじめに車椅子でぐわああー、と登場して、立ち上がり、観客の手を引いてニコニコしながら愉快に歩き回る、というところがあったんだけど、そこにひとつの真骨頂があった気がする。なんというか、福の神が、金色の雲の上を案内している、みたいな、神々しさがあった。

手を引かれている人たちも、なんだか嬉しそうだった。


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