文章を書くという作業の中で、素振りにあたる訓練はなんだろうか、僕はそう考えて、それは、とにかく頭に浮かんでくる文章を、そのまま音のまま、保存するような気分で、こうやって移しとるということなんじゃないかと考えた。僕は自分の思考のスピードに追いつく、という経験を一日の中のどこかでしたがっているんだと思うのだ。だからこうして、ただ書くということを通して、どうにか、何か思念を形にするということをくりかえす。読まれるということが重要なのではなくて、ただ読まれる前の文章が存在する、というような、そういう時間が必要なのである。この文章は読まれる必要がない。それはちょうど、僕があー、とか、うー、とか、そういう、意味をその影に持たないような、言葉以前の呟きを漏らすことと同じで、ただそういう時間が必要なのだ、ということなのである。それは全体性のバランスの回復、ということでもある。つまり有意味なことを生産し続けなければいけないというプレッシャーの、その反対側にあることを、同じくらいの分量なすべきである、ということである。ぼくは今これをiPadにBluetoothのキーボードをつなぐことで行なっている。これはこれで適切な装備だとは思うのだが、同時に、本当は、手書きで何かを書いた方がいいような気もしている。それは、僕の中に、やっぱり「書く」という行為は、文字を、紙の上で引っ掻くというアクションを通して行う、より身体のストローク、圧迫、そういうものを通じて何かを現出させるという状態を通して何か実感を得たいという欲望があるからであろうと思う。時に僕は、量を求める。なんの意味もない、量を求める。それはただ歩きたい、ただ踊りたいただ歌いたいという欲望に似ている、というか、それらは全て同根であって、ただこの所在なさを埋めたいというそういう欲望である。どちらもある、ということが大事である。意味を求められる意識が先行した世界に僕らは普段生きていてそれは人との関係、という中でだけ効力を発揮することなのだがそれとは全く反対の世界にある、自分自身が何か中にあるものを出したがっているその気持ちをただ満たすために存在する行動がやはり僕には、僕らには、必要なのである。公開する、という手続きは、そのプロセスをスムーズにしてくれるきっかけにすぎない。
僕らにはお膳立てが必要だ、友達も必要だ、でもその友達、というのは、つまり、何か自分が感じている欲を、スムーズに外に表出させることができるというそういう意味においての、触媒として求められるものである。でも、日中の世界では、そこには意味が必要とされる。そういう制限の中で生まれるものには、より、一般性があるわけだが、一方で、個人の欲求とは離れている。離れている部分がある。僕は詩が読めない。それとも少し関係している。意味のつながりがなくても、文章を音として、音楽として楽しむことはできる。ちょうど歌がそうであるように。ただそこに、意識の片鱗を記録したものとして、普段とは違う言葉遣いの文章が用意されているというだけでいい。ただ、何かを、文章を書きたいということがあるのだ。
誰を書きたいか、ということ。誰を書きたいのか。何か、誰かを描きたい、というときがある。僕は、自分の中にいる誰かを書きたい、というときがある。それが絵になることもある。僕が絵にして描いている形、その形状は、僕の中にいる誰かである。でも誰かは、形を持っていないからそれに暫定的な形を与えてあげて、ただ、それが僕の中にいる誰かであるということを一旦の解答とするのである。自動筆記と何が違うか。自動筆記が何か僕はよく知らないから、何が違うかはわからない。でも、とにかく大事なのはそこに量があるということである。自分が生み出した量を前にして何かを感じたい、ということ。素振りには癒しがないといけない。意味を求められて生きている中で、意味がない行動を淡々と、でも、そこに量がある、ということにいかに癒しがあるか。僕はそれをよく考えないといけない。考えるというのは、頭の中にある、ということではない。むしろ、頭の中から外に出てくるということだ。思念というものがどういう形をしているのか僕は知っているか?知らない。見たことがない。イデア、というものがあったとして、それがどういう形をしているのかは、やっぱりかりそめの姿を通してしか知ることができない。僕が生み出すものは、ただ、予測変換をどんどん繋げていったものでもいいのか。よくないだろう。それはなぜか。そこには、自分の頭の中にあるものが一切入っていないからだ。僕はただ量を生み出したい、というのではないのだ。僕は、いつでも頭の中に何かを考えながら生きているんだぞ、というその実感を、なんでもいいから具体的に目に見える、指で触れる耳で聞ける舌で味わえる、そういう具体的なものとして知りたいのだ。あるいはこれは誰しもがわかっていることであって、古来より人間がずっと、歴史の中で体現しようとしてきたことであって、人類の歴史から見たら、何も重要なものではないことであると同時に、個人としての生き方の中では、非常に重要な役割を持っているとも思う。混沌を現出させたいわけではないのだ。むしろ秩序を望んでいる。自分が考えていることが綺麗な形に、整った形になって外に出てくることを望んでいる。でも、そうしようと思うと、考えが外にでてくるそのコースをひん曲げたり途中で止めたりして、とにかく面倒なプロセスを通さないと、日常生活で汎用性のある「意味のあること」として出すことができない、ということを知ってるはずである。だから、ただこの、頭の中にある形を、なんとかしてそのまま捉えようとして、こうして推敲をしない生のままの文章という形にしている。この場合の綺麗さ、というのは、思念が頭に浮かんでから、キーボードに指が触れ、それを押しそしてそれが電気的に画面に伝わり、文字となってディスプレイに映される、という時間のずれを通して実現されるものである。この時間のずれ、ということが、1番大事であると同時に、致命的な、想像の躍動感をうしなわせる恐ろしい存在でもある。自分が思った通りに何かが作れるということは、ないのであるが、その思い通り、ということの定義をどう捉えるか、そこには深い海がある。だからやっぱり、全部ある、っていうのが大事だ。こういうふうに、一見したら論理なんかなさそうで、つながりなんかよくわからなくて、人に読ませる気もなさそうな文章が大量に存在している、一方でとても整ったもの、それは、ある意識の中での意味内容の発生からその具現化までに多くの編集を経て、整っているものも、大量にあるという、そのどちらもあることによって、初めて自分にとっての、充実感があるのではないかという感じがある。パンにする以前の生地のような状態も見てみたい、そういうふうに思ってこの文章を書いたんだ、と今の僕には納得させられる。作品になる前の、原料、鉄として精錬される前の鉄、そういうものを、見ておくこと自体が癒しをもたらすのである。へえ、こういうものでできているんだ、って思うからね。あとは、素振りがやりたいんである。運動としての書くこと、というのはつまりこういうことだ。行為としてただ書くことがそこに存在するというのはこういうことだ。「書く」という一つの単語の裏には、たくさんの他の身体的動作が混じっている、ということを常に意識する。そこには、まず紙を用意すること、パソコンを開くこと、場所を選ぶこと、文章が書き出されたのちに、それをどのタイミングで推敲するのかということ、その出来上がった何かを、発表するのか、本にするのか、本にするなら、どの程度気持ちを入れた本にするのか、とにかくそこにたくさんの、「思念を文字にする」ということ以外のアクションが入っている。つまらないだろう、意味ばかりあると、疲れるだろう、意味ばかりあると。僕はそれを自分に対して言ってあげたくて、こんな文章を書いている。自分がしたいことに夢中になるっていうのはつまりこういうことで、全然人から見たら何を言っているのかわからなくたっていいじゃないか、というようなことを、とにかく自分でも呆れるぐらいの量行うこということである。文字起こしも残っていて、明日も早起きしたいし、こんなことをことをしている場合じゃな、いというそういうことも、それも意味に縛られている、というふうに解釈する。やるべきことなんて本当はないのに、やるべきことがあると思い込んだ方が楽になるから、生活の上でそういうふうにしているだけで、本当はもっと向き合うべき感情があり景色があり、感触があり、だって、猫がどういう毛の生え方をしているか、どういう手触りを毛をしているのか、それだけだって、いっぱい味わいたいじゃないか、だのに明日のスケジュールのことを心配しているのも、なんか、全然違うじゃないか。ネットの海に漂っているいいものを見ている場合じゃないじゃないか。見ているんじゃない感じるんだ。感じるのである。感じるためには、ただ書くことだけが必要なこともあるしただ描くことだけが必要なこともある。「見られる」と「全然見られない」、の中間ぐらいに、「意味がすっきりしている」と「意味が全然わからない」の間に、このような素振りの文章があるということが1番バランスがいいかもしれない。少しは期待をしているということだろう。でも、それは、裏切られてもいい期待なのである。
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