別にパソコンの中のメモ帳でもいいんだけど、なんとなく、公開して誰かに見られる前提があった方がより楽しいから、そうしてみる。
僕は、頭に浮かんできたことを文字にしたいだけだ。と言ってもそれは単純なことでもなくて、頭に音声言語として浮かんだことをそのまま文章にしている、というのでもないのだ。こうして文字にすることで、自分が何を考えているのか、初めてわかる、そしてそれをインスピレーションにして、再び違うことを考える、という行程が含まれている。
おしゃべりをしているようなものなんだけど、でもちょっと違う。
まず出力スピードが違う。そのことによって、思考が変性している。書くときと喋る時では、その速度の違いから、生まれるものも自ずと変わる。
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ある提出すべき文章を書くのに行き詰まった時、それが「書きたいことが全然書けていない」という不満に変換される前に、なにかで一旦文章を書く筋肉をほぐす、という「文字書き体操」理論を提唱したい。「何かをしたい」と思うのは、本当にその「動作を行いたい」だけである、ということを心に留めたい。
たとえば僕が「ジャグリングをしたい」と思うとき、それは、本当にその「ジャグリングの動作をしたい」ということである。別に、「優れたジャグリングを含む演技を作り、それを大きな舞台で発表し、その上でそれに関わる人たちに満足感を感じてもらいたい」までは含んでいない。ただ「ボールを投げたい」というピュアな欲望でしかない。
「ジャグリングそのもの」と、「ジャグリングそのものが引き起こすさらに先の事態」とでは、分けて考える必要がある。
理想は、まずはその動作の中に浸っていたい、という欲望を満たし、そこから何かが抽出される、という順序だ。その方が遥かに楽で、しかも気持ちがいい。生まれてくる文章の質は高いとは限らないが、少なくとも何かは生まれてくる。「質より量」はこのようにして達成されるのだ。
でも、ちょっとそれがいい感じの成果物になったら嬉しいから、その時点で編集、という概念が持ち込まれてきて、その時点でそれは、「書きたい」という欲望とは全く別のものに変質していることに注意しよう。
「文章を書きたい」という欲望は「キャッチボールがしたい」と同程度の、低次の欲求なのだと理解しよう(劣っているということではない、ただ低次である、物事が進む段階として、下層にある、fundamentalなものである、ということだ)。
でもそう思えば、僕は絵を描くことに関してはそれを実行できている。絵を描きたいのは、ただ絵を描きたいからだ。それ以上の欲求とは関係がない。もしそれを展示したい、とかそういうふうに思うとしたら(ちょっと思ってる)それは「絵を描きたい」という欲望とは全く別の次元にある行動である。そういう意味では、絵を展示するなら、「絵を描く」というその、身体の動作とは分けて考える必要がある。
気が済むまでその身体の動作を行う、ということを軸に生活を組み立てたいな。
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