2020年4月12日日曜日

狂ったようにつくりたいよね(てーてん観測)

今日は比較的早く起きた。
8時半ぐらいかな。僕としては早い。
昼まで仕事をして、ふじくんを待つ。
相変わらず、水曜日と土曜日には必ず会って、イタリア語(と英語)をやっている。
生産的か、と言われると、どうなのだろう。
何もつくってないしな。

そう、僕はつくりたくてつくりたくてしょうがないはずなんだ。
みんなそのはずなんだ。
本当は何かをつくりたくてしょうがないんだ。
「何者かになりたい」なんてこと、本当は絶対にないとおもう。
ただ自分が心底ワクワクするようなものを作り出すことに熱中したいだけだ。

それは、自分の頭が「好きだ!」と恋した方向に世界を操作して、それを自分の知覚が確認できるようにする、というおこないのこと。

夜ご飯は、隣のホアさんとふじくんとでラーメンを食べにいった。
近所のラーメン屋。
先日二郎系を食べたホアさんは、このいたって普通のラーメンやさんのラーメンに対し「こっちの方が、美味しいね」と言っていた。
僕もそう思う。

夜9時からジャグラー、ショーグンと電話した。
最近どうですか?と。
少し気分が落ち込んでいた、のかな。

ひとしきり盛り上がって、「続けるーズ」というしょうもない名前の団体を発足した。
僕はこういう命名にかけては自信がある。
いいよね、「続けるーズ」。いい、いい。悪くない。

なんでも続ければいい。

何かを続けなくても死にゃあしない。結果なんか出さなくたって、断じて死なない。断じて。自分なんか高めなくたって、息の仕方と食べ物の食べ方ぐらい誰もが知っている。全部余計。

だからつくりたいものをつくり続ける。
このブログだってそう。
書いた時点でもう自分に対するコミュニケーションは終わってるんだ。
あとはあなたが受け取ってください。
つくりたいものを好きなだけつくろう。

つくるものつくって、笑顔で生きよ。

※※※

「僕はほら、用意周到だからもう今の時点でこんなに危機感を感じていますよ」と言っているように見えることを承知で書く。

先ほどの小さな地震が心底怖かった。
コロナコロナと言っている間に地震が来てもおかしくない、本当に。
そしてこう書いておきながら、「まぁでも来ないだろう」と思っている自分もまたいる。よくわかる。
だが僕は本当に怖がりなので、もしかしたら、本当に、大地震がきて、もう、全然立ち直れないようになってしまうかもしれない、とも本気で考える。
でも、「まぁでも万が一の時でも僕は死なないだろうし、地震で様々なものが崩壊しても、いずれは平穏な時がくる」と考えているのもよくわかる。
よくわかってるんだぞ、俺。

こうして平和にブログを書いていられるのも今のうちかもしれない、という予兆はする。しかし同時に、僕はこうやってなんの予防線だか知らないが、予防線としてこういうことを書いているんだろう、と思う。

まぁ、あとはどうしようもないから、自分は運がいいと思い込んでることは全然否定せずに、まぁでも万が一なんかあったら、と少しでも準備すればそれでよろしい。
もともと「平穏」なんてない。

※※※

「つくりたくてしょうがない」と書くと、余計に何かをつくりたくてしょうがなくなってくる。
つくりたいな、つくりたいな。

日々の仕事だって、それを何かを作る作業であると本気でおもいこめ。
「記録」を作ったっていいさ。「価値」を作ったっていいさ。「文章」を作っているのだっていいさ。
もし作業そのものが創造的じゃないと思えるなら、作業はそのまんまでいいから、それを「自分が語れるお話というもの」にしちゃえばいいのさ。そういうキャラクターになりきればいい。
キャラクターづくりは、創造という行為に密接に結びついている。

仕事に打ち込む自分づくり、とは役作りなのだ。

なので、とことんおかしい役を演じよう。とことんバカを演じよう。「創造性」なんかまるで気にしていない、大事なことなんかわかっていないやつを演じよう。

その役を演じられるならば、本当の自分は、それを外から見ている、ということになる。
常に狂った人の「外」にいることになる。
自覚があれば、それだけでよろしい。
他人には言わなくて十分、よろしい。
僕は、何を作ろうかな。
「作品」っていい言葉だ。
品を、作るのだ。
遠慮なんかなく、狂ったように仕事を作品にしていきたいね。

そして、そのつくったものは、自分でニコニコと誇れるものであれ。

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