2015年7月28日火曜日

大学で自分を区切らないこと(2012/10/22メモ)

●大学で自分を区切らないこと
ーーーーー「いろんなものを見るため」に。


大学が終わったら学究のみちは終わりだ、などと考えてはいけない。
主立った目的が学業である、という点で大学生という地位が特別であることに変わりはないが、それはただ単に学業に費やす時間があるというだけであって、そのタームが終わったらあとはお金を稼いで死んでいく、というようなものではない。

だからこそ、今のうちにいろいろなものに手を出しておく、というのがだいじ。
図書館にいけ。
使えるリソースを使え。
先生に会いにいけ。
面白い人に出会え。
旅行に行け。
モノを作れ。
そうやって、これから一生、自分は何に興味を持って、何について研究を深めながら生きていくのかというのを見極める場と考えればよい。いや、見極めなくていい。「なにが世の中にあるのか」を見る時間なのだ。
そもそも大学という場所が単なる「制度」であるということに気づかねばならない。

だから大学の意味というのは、とことん、「いろんな経験をすること」に他ならない。

そしてたぶん実は、それは人生のどのフェーズにおいても、そのレベル、内容、やりかたが違うだけであって、本質的に変わることは無い。
小学生には小学生なりの、中学生には中学生なりの、高校生には高校生なりの「いろんなこと」の知り方があるし、社会人はやっぱりお金を稼ぎながら「いろんなこと」を経験するし、60歳のお爺ちゃんもやっぱりなにか新しいことを日々おもしろがって生きているのだ。

2015年7月10日金曜日

最近やっていること

 思うところあってまた再開。

 書いた文章の「強要度」について考えた。ツイッターとか、フェイスブックに、自分の近況とか、書きたくないんだよなー、とぼんやり思うのは何故なんだろう、と考えていた。その時、あっ、ツイッター、フェイスブックの問題点は、書いた時点で即「判断される」場に送信されていることだ、とふと思ったのだ。
送り手と読み手の間に「すき間がない」のが問題なのだ。
文章を読む時、一定の構造というものがある。一人が、一人で孤独に書いたことと、一人の人間が対峙する、というその構造である。人がひとりいて、その人が何かに触発されるなり、悩むなりして、考える。そうやって「考えている」時、人はすごく孤独でなければならない。考える時に人のことを気にして考える、というのはおかしい。それはその人自身の意見なのだから。周りを気にしだすと人は意見を変える。人の目を気にしつつ考える意見というのは、考えれば考えるほど、当たり障りのないものになる。
 だが面白い文章、考えに通底する最低要件というのは、つくづく、「人が孤独に考えた結果」だということだとおもうのだ。そこにその人にとっての切実さ、真剣味が滲み出るから読み応えがある。少なくとも、本当に書きたくて書いたのか、それともそうでもないのか、ということは、読み手には必ず伝わる。
 人は孤独に考えて、書かねばならない。青木は、孤独に考えて、孤独に自由に書きたい。大事なのは「読み手が、自分の文章を読むのか読まないのか、自由に選択できる」という担保だ。でないと、相手のタイムラインに流れることを想像した時に、「いや、あの人は読まないだろう、あの人は読んでくれるかもしれないけど、こういう長々と述べた文章を読みはしないだろう」とか、考えてしまう。長い文章を書くというのは、根本的には、「俺の話を聞いてくれ!」という自己顕示、エゴの漏洩だからだ。別にそれは構わない。むしろそういう風に自分が「これ、面白いんだぜ」と思うことを自由にみんながわーわーぎゃーぎゃー言い合うから、文化なんてものができるのだ。でもそのために、いつもいつも自分のやることに自身満々100%、というわけではないから、ある程度評価される場から離れて書かないとダメな人がいる。少なくとも青木はそうだ。その安心感があるからこそ、自分なりに孤独に考えてものが言える、言葉を雑に変えてしまえば、好き勝手なことを書ける。そう思うと、第三者が書いた内容がたちどころに自分の「タイムライン」に流れてくるツイッター、フェイスブックは、明らかに読み手に読むことを強要していて、ダメなのだ。だから、立ち止まってしまう。迂闊なことをかけない。
 自由にたくさん書く場として、ツイッター、フェイスブックは不適切である。だから雑誌を始めたんだ。

 人がまず自由に書くことの第一歩としての大きな要素は、読み手に対しての強要がない、と分かっていることによる圧力の無さである。言ってしまえば自分の机にあるノートでもいいんだけど、でももし、そのいわば「下書き」のような状態も、ちょろっと人に読んでもらえるのならば、それはちょっと嬉しいな、とそう思えるとするならば、ブログくらいが最適なのである。

 そんなことを、EJCのチケットを夜中にコンビニに印刷しに行って、思った。

 自分は、考えるのが好きなんだ、暖色の明かりが灯る部屋で、北欧の音楽とか、ジャズとかをへろへろと流して、ゆったり、自分が思うままに文章を書くのが好きなのだ。何かに縛られて書く、というのはそれはそれで必要とされる場面もあるんだけど、やっぱり私個人の本性として、思いついたことをそのままに書きたい、ということがあって、そういう媒体として、ツイッターとか、フェイスブックとか、もっと言うと雑誌とか、そいうのは似合わないんだよね。好きなんだけどさ。
 自分が思うままに筆を振るえる、キーボードを叩けるというのは気持ちがいいのだ。 それは、カラオケで歌うことにも、マッサージされることにも、パズルを解くことにも、旅について書いてあったりする本を気兼ねなくゆったり読むことにも、語学を好きなだけやることにも、どれにも似ている。そしてどれにも似ていない、ユニークなところもまた持ち合わせている。

 さて、この夏の旅行のことを考えている。この夏はとにかく旅行三昧になる。
22日に松本に空中キャバレーを見に行くことが、今日急に決まった。あの寡黙なジャグラーあきらさんが飛ぶ、というので、これは見に行かねばなるまい。一泊だけだが、楽しみだ。
 本格的な旅行のまず筆頭はEJC、ヨーロッパで行われる、世界最大規模のジャグリングのフェスティバルに行って、その後2週間ヨーロッパで行きたいところに行く計画だ。
 といっても2週間なんてたいしたことないので、たぶんクロアチアでジャグリングサークルの友達のマヤに会って、マカルスカという、マヤ曰く「海以外何もない」ところでのんびりして、そのあとはイタリアの友達に会ったり、魅力溢れるチェコ共和国に行ったりしてるうちに終わるだろう。
 それが終わったら、沖縄のジャグリングサークル「スタジオジャグリ」の合宿に参加させていただく。渡嘉敷島での合宿。ある人にそのことを言ったら、「渡嘉敷は本当にいい」とのことだったので、期待は高まるばかりである。それでなくても沖縄にこの間行ってきて、狂わんばかりにいいところだなぁ、と思った矢先なので。
 そのあとに9月に香港に行く。
 チケットが安かったので、なんだかわからぬまま取ってしまった。一体何をするんだろう。ううむ。とりあえず、月曜日に毎週あるというジャグリングの集まりには顔を出してみる予定である。
 でも、こういう旅を続けられる人生でありたい。
 別にひとところにとどまってじっくり仕事をするのも構わないけど、やっぱり、心の向くままにぺろっとチケットを取って、旅を書き続ける人生でありたい。