2014年5月18日日曜日

イタリアのてぃぴこ

私情がだいぶ挟まっているとはいえ、イタリアほどノスタルジックなステレオタイプが似合う国もないな。

2014年5月14日水曜日

キュビスムの日本での受容

大学の先生のお手伝いで、キュビズムの日本での初期の受容について調べることになった。

特に、キュビスムが日本にどういう経路で、どういうものとして、伝わって来たのか、ということについて。


なんだか、何をするもんだか分からん世の中だ。


でも面白そうなのでがんばってみよう。

2014年5月11日日曜日

とらなくていいんだよ

「とらなくていいんだよ」


「写真を撮られる」というのは異質な感覚で、大体において不快感を与える。

電車の中で、若い二人の親と、子供が乗ってくる。日曜日。
どこかにでかけるようである。
電車は比較的空いている。
お母さんと子供は空いた席に座り、立っていたお父さんも、しばらくして向かいの席に座る。
座ってからしばしiPhoneをいじった後、お父さんが、何も言わずに向かいに座った3、4歳くらいの息子の写真を撮る。
突然、子供は「とらなくていいんだよ」と、大声で言いながら悲しい顔をする。

お父さんは黙って微笑して写真を眺めている。

子供の写真をiPhoneで撮るということに、なにか、「愛」とはむしろ正反対のものを感じた。

2014年5月10日土曜日

『シュヴァンクマイエルのキメラ的世界』が、なかなか面白かった。鑑賞中に書いたこと、引用など

TSUTAYAでシュヴァンクマイエルの作品や、その他シュヴァンクマイエル関係のDVDを借りて一気観した。
特に最後に観た『シュヴァンクマイエルのキメラ的世界』が、なかなか面白かった。鑑賞中に書いたこと、引用など。

(CG技術について聞かれて、にこにこしながら優しく答える)

ヤン・シュヴァンクマイエル
「別に保守的ではないがあの手の技術が好きじゃない
あまりに完ぺきで何かが欠けてる 
技術だけが目立つ
手作りだと完ぺきではないしー
小さなミスもたくさんあるだろう
でもそのミスこそ大切でそれも含めて『私の』作品だ」

エヴァ・シュヴァンクマイエロヴァー
(なぜ家に多数の彫像を置くのか聞かれて少し怒ったように答える)
「バカげた質問ね」
「彫像を置く理由なんて言えない」

(ドキュメンタリー映画 "Les Chimères des Svankmajer” 邦題「シュヴァンクマイエルのキメラ的世界」より。文中の『』で囲った部分は、原字幕では傍点)

インタビューで、「なんで」って尋ねるのは簡単だし、そういう質問への答えも、出そうと思えばいくらでもでっちあげられるが、創造的な仕事をしている人の作品において、たとえばそれを作った理由とか、それをそういうふうにした理由について、「なんで」か答えられるようなことってほとんどない。

シュヴァンクマイエルはかっこいい。
なにがかっこいいって、もう、どうにも言えないけど、おじいさんなのにかっこいい。宮崎駿みたいにかっこいいし、宮崎駿以上にかっこいい。

チェコの歴史が非常に気になって来た。
特に、1900年代後半の歴史。

触覚のエロティシズム。
触覚ってそういえば忘れていたなあ。
チャットで失われる第一のものかも。
「触覚の予感」が失われる感じ。

「チェコ語を再び真面目にやりたくなってきた。」
という文を書こうとして、ふと。

どうせ音声学とか、その他言語学の道には当分足を
踏み入れない(と思う)ので、なんならいっそ、一切言語学の学問的な勉強をせずに、一から自分で、気になったことを検証してみて、自分なりの「ことばの感覚」を参考書無しでひもといてみよう。在野の言語学。

初めに、

「チェコ語が再びやりたくなってきた。」

という文章を書いて、そのあと、「真面目に」という副詞を付けようとした。

「チェコ語が再び真面目にやりたくなってきた。」

と、なんだか少しおかしな感じがする。
なんでだろう。

チェコ語をやりたくなってきた。:○
チェコ語がやりたくなってきた。:○

おんなじ意味だ。おかしくもない。

チェコ語を再びやりたくなってきた。:○
チェコ語が再びやりたくなってきた。:○

うん、まだギリギリ大丈夫な感じがする。

チェコ語を再び真面目にやりたくなってきた。:○
チェコ語が再び真面目にやりたくなってきた。:??

こうなると、ちょっと二番目の文章は、まるで「チェコ語」が主語である、つまり、「チェコ語さんがなんか真面目にやろうとしている」みたいな印象を一瞬与える。(読み手によって違うかもしれないが。)

あんまりにも「が」を付けた単語と述語が離れていると、「が」がついた単語が主語だと思えてしまうから、なんか変な感じがする。

シュヴァンクマイエル夫妻の生活がすごく魅力的だった。