iPhoneをちいさいワープロだと認識して使う。消費者であるより、生産者でありたいと切に思う。無心になって画面をすいすいしていたことにハッと気づいて、あ、今幼児みたいに画面にかじり付いてたよ、実に情けないな、と僕はよく思う。メガカンパニーの戦略に、完全に体も心もハックされているよ、と思う。
すべては生産という名の抵抗をする手段だと、襟を正せ。インターネットは、侵略戦争なのだ。サービスが無料である時、企業にとっての商材はユーザー自身である。
自分でつくることは、抵抗である。オフラインでむちゃくちゃ作って、ただそれを広げるためにだけ、電信網を使うこと。
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絵を描く行為と文章を書く行為とが、僕の中でシンクロしている。決まったサイズのキャンバス/文字数の中に、自由に形を描き/書き出す。「ハガキ大一枚」という制限があれば毎日スイスイ絵を描いてネットに載せられる。同じように、文章に関しても、自分が心地よいと思える文章を制限付きでとにかく書いて、それを次々に発表することが最高の練習になるはずだ。
では僕にとっての文章を書く上での制限は何かといえば、「発表をする」という行動が一つの制限性の付与である。書き終えて「公開」ボタンを押す、ということが一個のピリオドだからだ。
僕は、書くという行為によって、意識して作品をつくりたい。なぜなら僕はこの技術を一生かけて伸ばしたいからだ。
繰り返すが、文章を書いたら、ある程度の緊張感を持ってひとつの「作品」として人に差し出すこと。これが重要だと考える。なぜか。それは、人に差し出す、ということが、「気取り」と「背伸び」を促すから。
技術を伸ばすというのは、毎日ちょっとずつ、その支配領域を押し広げることである。そのためには、自分が自然にできることの、ちょっと先を見据えて、そこに辿り着こうと毎日試行錯誤しなければいけない。だから、小さくてもいいから作品にして発表することで、背伸びをするんだ。ちょっとだけでいいから、周りを意識するんだ。「どうせ大したものじゃないから」じゃダメだ。誰かから見たら大したものじゃないかもしれないけど、少なくとも自分にとっては面白いもの、大したものを作ってやるつもりでやることが大事だ。「気取らなさ」と「いい加減」を混同しちゃいけないよな。
(「森の生活」 6日目)