別に特別意図があってここを休止していた訳ではないのだが、また復活させる。まとまった量の文章を書きたくなった。今、少しぼーっとしている。別に格別悪いことがあったのではなくて、ただ単に、ローな気分。でも、そういう時の方が、内側からたくさんのこえが聞こえてくる。だから、それを元手にしていっぱい文章は書けたりする。内側からたくさんの「こえ」が聞こえてくるという状態が、つまり僕にとっては落ち込んでいる、ちょっと鬱々としているという状態なので、これはある意味で当然といえば当然である。今日はどんなこえが聞こえているかというと、なんか、関わる人が、迷惑に思っているんじゃないか、とか、そういうこえである。これは、自分ではいかんともしがたくて非常に厄介である。自分の性向なのか、それとも、デジタル技術で、遠くの人と顔の見えないやりとりが増えたからなのか。たぶんちょっとずつどちらの要素も関連している。あるいは、急激な気候の変化で少し心身ともにやられてしまっている、とかそういうこともあるのかもしれない。あんまりそれで慌てたってしょうがないのはわかっているんだけど、特に誰かからの何か返事を待っている時、というのはどうも落ち着かない気分で、なんなら、どんどん悪い方に考えてしまうのだ。これは僕の生物として持っている防衛反応なんだろうけれど、随分過剰に作用しているなぁ、と自分でも思う。自分でも何をから騒ぎしているんだろう、と俯瞰して見ている部分もあるし、でも自分の身体は何らかのSOSを発している、というような状態で、まったく困ってしまうのである。まったく。こういう時は、何か落ち着くことを身体にしてあげるに限る。というわけで今は、お風呂を沸かしている。まぁ、行動の方から変えていくしかないんだよねえ。
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昨日はPM Jugglingの大吾さんと一緒に、木場公園の中にある美術館へ行き、ジャン・プルーヴェ展を見た。フランスを、世界を代表する建築家が作ってきた、椅子や建築を見る。途中で大吾さんが、なお君はどういうふうに絵を描いているのか、と質問してくる。設計図を眺めながらのことであった。僕にとって絵を描くというのは、ほとんど感覚でやっている。だからこういう精緻な予想図、というようなものとは関連がないようでいて、実際、完成したものについて考えるときには、感覚を使っているとも言えるので、似ているといえば似ているのかもしれないが。でもひとまず毎朝描いている絵に関しては、ただそのときに、聴きたい音楽をきく、という感覚に似ている。自分が見て楽しみたいと思うリズムをその場に出す、というくらいの感覚である。
美術館を訪れるというのはどういう体験だろうな。つまりそれは、他人が考え出したリズムを聴きに行く、ということなのかもしれない。僕は自分のリズムが枯渇してきたときに、定期的に人のリズムを聞く、ということで、しなしなになった野菜が復活するみたいに、元気を出そうとしているのかもしれない。でも、それだけだと我慢ができないので、次第に自分のリズムを刻むようになっていく。
リズムが乱れたな、と思った時は、一旦休むに限る。それは、「遮断」という手段で良い。歌いたいと思っていた歌がわからなくなっちゃって、「あ、ちょっと、待って、たんま」というくらいの感じである。無理に自分のリズムを思い出そうとしても、できない時がある。
ま、ゆっくりしようぜ、で、もう、いいのだ。ね。
結局何かに思い悩む、というのも、自分自身のリズムを刻めていないことへの焦りとも解釈できるよ。
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