にっき。
今日はTIDC(東京国際ディアボロ競技会)に顔出し。
台湾やマレーシアから、たくさんの選手が来日。どんどん大きくなる。
普段より台湾の選手の顔つき、少し余裕が無い。
自分が海外の大会に出てくる時の気持ちを思うと、納得。
敏腕の選手たちからすら「じんつぁん(緊張)!」という声を多く聞いた。
やはりアウェーということは誰にとっても厳しい。
台湾人は根本的にメンタルが強いんだと今まで思っていた。
蓋し、日本人とてホームなら俄然強いのである。
そんなこんなで、一日中大会に居た後に、一人こっそり抜けて早稲田まで歩いて、いつものラーメン屋で夕飯を済ませ、帰りにふと思い立って少し桜木町のスターバックスでくつろぎ、帰宅。
本当はインターネットが使いたかったのだが、スタバの回線、あまり安定しておらず。
今月、はしゃぎすぎてルーターの通信制限がもうかかってしまったので、どこか無料で、安定したインターネットが使えるカフェを探したい。
なければ図書館に通うしかないか。困った。
今日は、毎回の競技会と違って、随分楽しめた。
色々と理由は思い当たるがやはり人間関係のことがあるか。
一般的ではなく、すごく限定的な意味で。
身の施しようというか、諦観というか、そういう類の、なんだか一歩大人になったような、達観した感情芽生える。今まで少し不安定だったのである。今はもう大丈夫な気がする。
それはひとえに、「自分を支えてくれる人」としっかり向き合えるようになったからかもしれない。実は、ちょっと視野を外せば、自分を愛してくれる人はいるのだ、ということが見える。それを直視できるかどうかの問題である。
人間、物理的にも、そして感情的にも、人を直視するというのがそもそも難しい。
それが見知らぬ人であろうとよく知った人であろうと。人そのものが結構怖いのだ。
だからこそ、人間の関係というものには、慣性がある。
ほっといても、つまりあえて目線を合わせなくても、出来上がった関係がある程度の時間維持されるようにできている。
関係性の慣性は、しばらく会わなくても安心な交友関係を築いたりもするけれど、恋の問題のような、「やっかいごと」も生む。
また一度できた関係性を、「無かったことにする」ということはできないから、それが一番やっかいである。
そういう時は、やっぱり何か他のことで、自分なりに納得のいく「そこからの歩き方」を考えるより仕方が無い。人生は、「その道全て」が、そもそも人生なのであって、コンピューターのように気軽にデリートしてその部分に上書きされるわけではない。だからこそ苦しいし、でもだからこそ一回の人生に真剣になる。
人生は長さのわからない川でもある。
その中でただぷかぷか浮かんでも、もう前に進みたくないから立ち泳ぎしても、頑張って流れに逆らおうとしても、ずんずん前に泳いでいっても、結局はどんどん流されていくのだ。
結局は皆、その終わりにたどり着く。
でもそれがいつかは分からない。
僕も好きだったロビン・ウィリアムズは、今日、死んでしまった。
考えてみると、どうせ最後は滝壺に落ちるのなら、がんばって泳ぎまくって、ぷかぷか浮いている人を尻目に一心不乱にバタ足してゆくのが一番かっこいいような気がする。
とどのつまりは同じように滝壺に落ちるのだが、その時も、「ああ、気持ちよかった」と言って滝壺に落ちられるような気がする。
だから。
少しくらいなにかでつまづいても、すっきり前を向いて、「そこからの歩き方」を考えるのが、一番人生というものとの付き合い方に似合っているのだ、と思う。
目は前に付いている。
人は前を見るようにできている。
人間生きてりゃ深かった関係だって壊れるし、大事な人だっていなくなるし、辛いことだって起こる。
だからいつでも前を向いて歩き出せる準備をしておかなければなるまい。
それが人生との付き合い方なのだ。
とりあえずなかなか良い一日でした。