2020年10月28日水曜日

いまのことをかけ(15)

 少しあいたけれども。自分がストレスを受けることについて考えている。怒られるのが極端に嫌いである。指導されることも好きではない。あなたはなんの権利があって僕にものを言うんだ、という気分になる。もちろん自分が悪いことがあれば、謝るし、それについて反省もするんだけど、なんだか僕は、普段から、実は、誰かに怒られやしないか、と内心冷や冷やしているから、それで、逆にいざ怒られてしまうと、なんで僕はこんなに気をつけているのにやっぱり怒られてしまうんだろう、と悲しくなっちゃうんだろうね。人を怒らせたくもないし、イライラもさせたくないのにね。

※※※

最近は、自分の中で、早起きして、自分と対話をする時間を持つ、ということがはっきりできているので、ここに毎日いろいろと書くことが少しバカバカしく感じ始めている。

別にそれほど公開することもないじゃないか、と思うんだろうね。

要するに、自分と向き合うきっかけとして、公開する日記、といういち手段を選んだだけであって、別にこれに拘泥することもないのである。

2020年10月24日土曜日

いまのことをかけ(14)もん

 今日も早く起きた。

このまま励行したいね。

久々の友達と会い、綴方行く。白楽まで歩く。なんだか、付き合いの長い友達ってのはいいもんだね。

2020年10月23日金曜日

いまのことをかけ(13)

 実は一日抜けているのだが、まぁ、しょうがない。

今日はいつもよりも意識的に一日を過ごした。

時間を自分で設定する。

これが続くといいな。

2020年10月22日木曜日

いまのことをかけ(12)

昨日は朝翻訳に取り組み、昼、埼玉から友人くる。

遅くまで起き、今日も遅くまで寝て、桜木町に来て少しだけ仕事する。

誰と一緒にいるかで、景色も、自分がどういう人間であるかという認識も、とにかくすべて変わるよな、と思う。

2020年10月21日水曜日

いまのことをかけ(11)「気持ち」にもいい代謝

昨日のこと。

朝は部屋掃除。昼はだいごさんくる。近所のニュータンタン麺を食べにいく。だいごさんは初ニュータンタン。知ってるかなと思っていたが。

途中からふじくんが合流。少し家で話して、一緒に自転車で妙蓮寺まで。

妙蓮寺で、いつもの、生活綴方。店番の日。今日は作家・川内有緒さんのイベントがある。偶然だがこの日、僕が店番。有緒さんはあいかわらず。といっても、3日ぐらい前に会っているのだが。

19時30分からスタートのトークイベントには、たくさんのひと。

イベントも楽しかったし、そのあとの打ち上げ、小上がりでおでんを食べたのも楽しかった。

もう、落ち込んでない。嬉しいな、ということがたくさんあった。新しい人ともたくさん出会い、そして、期間をおかずしてまた会う、という繰り返し。

「気持ち」にもいい代謝があるね。

2020年10月19日月曜日

いまのことをかけ(10) 雨音が聞こえる室内はいいな

 雨音が聞こえる室内はいいな。

コワーキングスペースの「本屋の二階」で、昼から数時間、ウェブ上で発表される原稿を書く。昨日は朝4時半まで手紙を書いていた。あまり身体が健康ではないことを感じる。マテ茶、ハマる。原付で走ってたら、後ろの原付乗りに「後ろ見なさいよ」と怒られる。しゅん。雨の日はよく見えない。

自信がついたり自信が無くなったり、いろいろである。

自分自身の変化で、世界が全て変わってしまって見えること、ってありますね。これは、要するにちょっと鬱っぽいということなのだろう。

というか僕には多分躁鬱っけがあって、とても悩んでいる人からしたら大したことはないのだろうが、それでも、調子が結構悪い時と、とてもいい時でかなり差がある。まぁ、だからどう、ということもなくもう29年間も過ごしてきたから、本当に、どうでもいいんだけど。

自分のことを把握したがっている。本を読んでは、自分のことに当てはめ、人と話しては、自分の行動に照らし合わせる。

やはり、誰かに怒られる、誰かを不快な気持ちにさせてしまった、と感じることがとても苦手なんだ、と思う。たちどころに自信が無くなってしまう。これは、みんなそんなものなのだろうか、それとも僕が極端に弱いのだろうか、そういうことは、よくわからない。

わからないけど、とにかく、しょんぼりしてしまって、身体に力が入らないようなことが、よくある。

2020年10月18日日曜日

いまのことをかけ(9)本当はそもそも勇気がいるのだ

今日も、書くことでなにかを、呼び起こそうとしている。自分が考えるための文章を書いている。人が読んだところで、大した益にならないことはもちろん予想がつく。
それでも「このことは、実はみんな関係があることなのかもしれない」という一縷の望みがあるから、こうして公表されるような場所に置いてみることになる。
あとは、こういう話を、いったん自分の外に置いてみないと、とにかく、抱えきれないぐらいになってしまっている、というところが一番の理由だろう。

※

やさしい言葉をかけるなんていうことが自分にできるのか?
という気分になっている。

オレは、どうしようもないくらい不遜で、上から目線で、自分が発する言葉など、誰かの優しさにはなりえないのではないか、という気分になっている。

もちろん、そんなのは嫌だ。嫌だが、そんなふうに思われているんだ、と突きつけられたときに、「自分には断じてそんなことはない」と断言できるだろうか。そりゃあ、ずっと寄り添う、なんてことはできないと思う。いつまでも、適切に、喜ばれるように。それは、できない。たぶん、僕には。
しかし目の前に困っている人がいて、その人に対して、倒すか、支えるか、という二極のバロメーターがあるのならば、いつでも、「支える側」である人間でありたい、と僕は本気で思う。
生ぬるい「一見やさしい」お世辞やねぎらいや褒め言葉ではなくて、本当に必要な真実を伴った言葉で人を支える、力になれる人間だったらといつも思っている。
しかし極力真実を言うことは、基本的に「やさしい」行動ではない。ときにそれは攻撃的である。でも、なんの真実も含まれていない、うわべだけのやさしいことばは、もっと攻撃的で、残虐である、と僕はおもう。それは、この世で最も攻撃性を持つ「無関心」に等しいとおもう。
(でも僕が強い言葉を向けられるとき、それは相手に僕が向けた一抹の「無関心」に起因していたのかもしれない)

僕は、自分から積極的な嘘をつくのがとても苦手である。
別に正義感があって、とかそういうことを言いたいのではない。本当に。
その、とにかく苦手なんだ。嘘をつくのが。目があっちゃこっちゃ泳いで、しどろもどろになってしまう。わらってごまかす、というような結果になってしまう。
だから、どうせバレるので、なるべく本当のことを言うように努めている。

しかしだ。

「なるべく人の役に立てる人間でありたい」と思っていることにまったく偽りはないのに、もしかして、その「嘘をつけない」自分の態度が、まるきり人を傷つけるような力としてしか作用していないのではないか、ととても不安になることがある。

※

今、もうひとつ思ったことがある。
それは、「思う」ことと「言う」ことには、とても大きな隔たりがある、ということである。
なにかを言ったり、書いたりすることによって、それを受け取った人から不快感を示され、嫌われることがある。
さて、その「思ったこと」を、表現した、すると、それを受け取った人が不快になった、という過程の中で、このとき、一番の原因はなんだったのか。

それはすべて、「それをそのように表現した」ということに尽きる。

「表現がなされた」ということがすべての原因である。
けっして、「そう思っている」こと自体が悪いのではない。
「僕がこのように思うことには、正当性がある」と文句をいっても、それは的を外している。
そう思っても、それを表現しない人がいる。
そう思っても、それを別のやり方で表現する人がいる。
思うことが同じでも、その表現の仕方に差異があり、そして、「表現を受容する」以外の形で、人は他人の考えには触れられない。
結局のところ、その「思うこと」がどのように外界に表出したか、ということでしか、他人の反応は生まれない。
(でも、だからこそ、嘘をつく、ということは、実はとても切実で大事な能力なのかもしれない、といま頭をよぎった)

これはとても面倒なことだ。
人と付き合う以上、いつでも、何を、どのように表現するか、ということにいちいち結果が伴ってくる。

これは、ちょっと、やっぱり、怖いことだな、と一瞬、ひるむ。

そして、そんなもの、自分の力でなんかほとんどコントロールできないように思えるよ。
他人の反応というのは、いつだって不可知だ。うまく行かないことのほうが多いくらいだ。

しかし僕は、その面倒くささを避けて、「それとは関わらない」ことを選ばないようにしたい。

自分の取ったろくでもない行動によって嫌われることだっていっぱいあるのだが、それでも、それを避ける、という結論に至らないように、すんでのところで自分を踏みとどめている。

でも、みんなそんなふうにして、人と関わっていく、という勇気を出しているのだろう、と思う。

僕はただ、諦めないでいよう、と改めて決意をする。
人と関わるということは、みんななんでもないことみたいにやっているけど、誰にとってだって、本当はそもそも勇気がいるのだね。

やはりこの文章は書いてよかったな。
ありがとう。