早稲田の中央図書館にイタリア語の新聞があるので、読んでみた。(
Corriere della Sera)前にも何度か手に取ったことはあったんだけど、ちゃんと「理解しよう」という志を持って読んだのは正直初めてだった。
(ついでにドイツ語の新聞も引っ張りだして読んでみた。少し分かったので、実に満足。余談ですがドイツ語検定4級合格通知が今日来てました。嬉しい。引き続きドイツ語とは付き合っていきたい)
イタリア語のCarta(新聞)を読んでいて、留学中の、「イタリア語で世界を見る」わくわくする感じ、を思い出した。
あの時には周りに イタリア語ばっかりあって、日本人でない友達と話すときはいつもイタリア語だったし、自動販売機の表示はイタリア語だったし、駅に行ったらイタリア語しか表示されていないし、悩みを友達に言う時だってイタリア語だし、考えてみれば言語的には「四面楚歌」な状態だった。(この場合四面カンツォーネ)でもそんな風景が、自然にいつも「『伊』世界」を見せてくれた。イタリア語のフィルターだけで見通された世界の様相を見せてくれた。
「何語で表現されようが同じものは同じものでしょ」と言う向きもあるかもしれないが、外国語で自分の意志を真剣に伝えようとしたことがある人なら分かると思うのだけど、何語で言うかによって、言うことまで変わっちゃうのである。
言語の違いというよりそもそも「勉強不足で語彙の選択肢が制限されている」ということが大きいと思うが。
というより、世界があって、それをことばで「言い、指し示す」っていう理解をするんじゃなくて、そもそも目に映るものを「ことばで分節してる」っていう説を、心から納得して自分の哲学に適用しているなら、自然「ことばによって世界の見え方が変わる」という結論が出てくるはずである。
それで、まぁそういうのは良くて、重要なのは、そういう感覚が、自分の「青春」と強く結びついているということである。
単純に、19歳の夏にイタリアに行ったからである。(あっ、そんな若かったんだ、て今自分でも思った)
やっぱり大学生のうちに留学に行くといいよなあ、と思うのは、つまり若いうちの方が、特に新鮮な経験が、より「鮮烈に」「いい思い出として」残るような気がするからである。自分自身にエネルギーがある時代に触れたものは、自分が盲進の体でぶつかっていくから、反作用も大きくて、より「強い」ものとして記憶に残る。
さてこうやって、イタリア語のよさと、自分がイタリア語と、めげずに付き合って来たことを喜ばしいことだと思えたことは、よかった。
だけど、同時に今まで自分がいかにただ語「学」にだけとらわれていたか、ということが、悔しく思えてきた。
なんと惜しいことをしていたろう。
もっと、面白いこと、ことばの、「その先にある愛すべきこと」に飛び込めば良かった。
結局俺は今まで、語学を通して、「語学」しか見ていなかったんだなぁと思う。
そういう意識を少しでも払拭したいと思って、最近はなるべく「語学」という言い方ではなくて、「ことばの勉強」みたいな言い方をするように努めてはいたけど、やっぱり、言っているだけじゃだめだなぁ、て思う。というか言い方はそこまで問題ではなかった(笑)
「ことばを通して『世界を愛する』」。
新聞を読むとか、文学読みたいな、とか、人と話したいな、とか、そういう、「愛」とか「あったかい」がいっぱいあるものに飛び込む。
これ、 言葉で言うとなんだか誰でも分かっているようなありきたりな文言に聞こえるけれど、実はこれさえできれば、たぶん誰でも、「言葉を習得する」ということが単なる「通過点」になって、その先の本当に「自分が好きなもの」がわんさか見えるから、ずいぶんことばを勉強することが、簡単で、楽しいものになると思うのである。
そういえば、留学中に新聞なんてほとんど読まなかったし、そもそも、「イタリアにいる」ということを、目一杯活用できていた気がしないなぁ。
というわけで、イタリアの空気が少しだけ鼻の頭をかすめた日でした。
こんな時もあったな。(@Roma,Fontana di Trevi,2012)