2015年12月29日火曜日

職業を専門研究分野と捉えると

職業は専門分野である。

学究の徒である間だけが「研究」の期間なのではなく、一度この仕事に従事する、と決めたら、もう自分はそのことに関してエキスパートに、「専門家」になるつもりで何事も取り組むと、かえって労力は増えるが、滋味のあるふくよかな体験になるんではないか、と思う。

翻訳のフリーランスでもやってみようかしら、と考えて、いろいろ検討していたところで、なんだか、自分は別に英語の専門家でもないしなあ、と考えた時、そうか、私は、ジャグリングの人なのかもしれない、と思ったのである。

そして、書くことと、ジャグリングには自信がある。少なくとも、これから取り組んでいくこととして、つまり「仕事」としてこれを選ぶのは、あながち大はずれではない気がする。

2015年12月4日金曜日

ラスト・ナイツとヒトラー

映画『ラスト・ナイツ』を劇場で見た。
2時間近くあったがあっという間に感じる。
『セッション』を見たときを思い出す。セッションはいい映画だった。
ラスト・ナイツもセッションも、基本的には主人公の姿ばかり映される。

『ラスト・ナイツ』、多少の残酷描写はあるが、よほど苦手でなければ見られる。後味の悪いものではないので是非観に行って欲しい。
開始3分ほどで、タイトルが写しだされるシーンでさえ監督の力量を感じた。「カッコいいとはこういうことだ」というのをスッキリ見せ切っているようである。映画全編にわたってそのテイストは失われることなく、また時代物、ファンタジーによくあるような冗長な解説(的な)シーン、くどいロマンスもなく、騎士の、君主に対する忠誠心に依る復讐の一本道だけが追うべきものとして提示されていて、物語と、かえってディティールに集中できる。 
 ライデン隊長は、落ぶれてしまったかに見えるわけだが、そのあとの展開からのスピード感も良い。多少白々しいヒーロー劇も、日本人の俳優でやったらこうも様にはならないんじゃないかなぁ、というものが、西洋の俳優に演じられると、なんだか「向こう」の感じがしていいと思う。
「西洋はカッコいいよね」というような乱暴なくくりは好むところではないけれども、実際にそう思ってしまったのだから仕方がない。

    これを観てから、今度はiPadで、『ヒトラー最期の12日間』を観たら、今度は全く残酷なものとして「忠誠」が描かれていて、『ラスト・ナイツ』でいいぞいいぞ、と思っていた私は少し、しゅんとしたのであった。


2015年11月30日月曜日

ううむの気持ち

ううむ、と思っている。 ううむ。 最近色々なことに手を出しているのだが、これはどこで収束を迎えるのだろう、というような気持ち。 とりあえず、文章を書いていくことだけはやめないようにしよう、と思う。 でも、なるようになるよね、というのが、結局のところである。 文章を書きながら、ことばを勉強して、真剣にそういうもので勝負をする世界で食べられたら、それがいいな。 だから本気にならねばなるまい。
△勿論人に好かれない事は覚悟の前でなければなりませんよ。人に好かれてどうなるものですか。人にだけは好かれない方がよろしい。そんな量見だけは決して起こす可からずです。余計なことですからね、『人に好かれる』なんて、人に好かれるやうな暇があつたら、その暇にしなければならない事はいくらでもあります。
(関口存男 初等ドイツ語講座 上巻最後のページ)

中途半端な手の出し方が、一番良くないね。

2015年9月14日月曜日

香港のカフェで思ったこと

香港にいる。
チケットが安かったから香港にいる。

全然目的もないまま来たものだから、特にやることもなく、朝起きて、歩いて、周りを見て、帰って、夜寝ている。

2日目の昼、つまり今、奈良美智の作品が飾ってあるショッピングセンターを見つけたので入った。特に面白いこともなく、ちょっと疲れたな、と思った矢先にイタリアンカフェを見つけたので、入った。

誰もいなくて、とりあえずカフェマッキャートを頼んで、持ってきた新書を読んでいた。
カウンターの女性は広東語で何かを話す。
香港に来てからずっと、広東語を聴き続けて、こりゃ普通話よりいいなぁ、と思っている。
ひとつには、たぶん語尾をやたらに伸ばす感じが、どこか「いかにも想像の中の中華圏の言葉」という感じがして良いのだと思う。

すっかり聴き入っていると、あとから3人のサラリーマン風の日本人が入ってきた。
カウンターの女性に向かって話す英語の訛りで分かる。

私はちらと机に置いた日本語タイトルの新書を見やって、また外を見た。
彼らは「アメリカーノ、ノーミルク。」
と言い席に着く。

すると彼らは韓国語を話し始めた。


ああ、そうなんだ、と私は少し驚いた。
顔も態度も話し方も、どれを取っても明らかに日本人だと思っていたのだが。

今も彼らは後ろどなりのテーブルで、何か熱心に話して、時々冗談を言って笑っている。

唐突に、私は、アジアの言語はなんて力がみなぎっているのだろう、と感じた。

韓国の人と日本人がこんなにも近く感ぜられることも意外だったし、それでいて全く彼らの話す言葉の意味がわからないこともまた、とてつもなく面白いのだ。

そしてはたと、この人たちが言っていることを、理解してみたいな、と強く思った。

私は香港で、韓国語を喋りたくなったのだ。

2015年9月3日木曜日

「なにが知的にカッコイイのかが問題である 『アルジャーノンに花束を』読後感から出た文章」

最近自分に訪れた変化がある。
それは、「こんな人がいたら俺はきっとむちゃくちゃ悔しいだろうな」という人間像を理想とするようになったことだ。
主に知性の面において。
今まで何か考えていたわけでもないから、変化というより、最近追加された「指針の立て方」、といったところだけれど。
これは、すごくいい。
自分がカッコイイと思う人、というのは、そりゃあ、否応なしにカッコイイ。

いい大学に行っている、ということを明かすことをためらう人は多いと思う。
というか、いや、このことをためらうということは、裏を返すとそれが、「イヤミととられるかもしれない」と思っているということ、それは、その発言をする相手がそう受け取るであろうと思っていること、さらに進めてみると、それは「相手を下に見ていること」なんじゃないかなとも思う。

だが、それってなんか違うんじゃないか。
たとえどこに属して勉強していようとも、その個人が熱心に自分の興味を追っているかということとは、一切関係がないんじゃないか。

それで、実際問題になってくるのは、どれだけ大きい相手と戦っているか、じゃないか。
どれだけ大きい知的な目標があるか、でもいい。
この表現芸術の良さをどうしてもことばで表してみたい、というものでも、それは学問とは呼べないかもしれないけど、追求するべきこと、としては同じ地平にある。

今自分の大学時代を振り返ると、「勝負相手」が矮小すぎたという気がするのである。
早い話、知性や生活のあり方がクールじゃなかった。

「自分は何に興味があって、これのことを知りたいからこういう場所で勉強をしている」ということが明確であれば、全然、恥ずかしがることなんかない。
そしてそれが、クールなものごとであるなら、なおのこと、何にも恥ずかしくはない。
むしろそれを徹底していないのならば、それを恥じるべきである。
いい大学に通っていようと、自分が何に興味があるのかもよくわからないようなのは、それこそ恥ずかしい。

実際に興味がわかっていてそれを追求しているのならば、大学の名前なんか上も下もないもんだと思う。
あまりに大学の名前に付随する「余計な安堵感」が多すぎる。
いやほんとに、肩書きとかどうでもいいよなぁ、と今は心底思う。
"いい大学"に行ったからこその発言とか、そういうのでなく、もう、本当に、いや、どうでもいいよなぁ。

自分がクールであろうとする、ということは、恥ずかしいことではない。
おしゃれをするのだってそうだ。
一部の日本人はおしゃれな人を見てすぐ「チャラい」とか言うけれども、いいじゃないか、ほっとけば、と思う。
服を選ぶのが外見のおしゃれなら、自分の興味を選ぶのは、内面のおしゃれである。自分がしたいおしゃれをすればいい。
外見でおしゃれをするのは別に得意じゃない、と思うのなら、内面のおしゃれをすればいい。

どういうものがおしゃれか、クールか、というのは自分で決める。

たとえば、最近私は、真に血の通った芸術は、最高におしゃれな、自己の内面の飾り方であるなぁ、と思う。
俺はこういう人間でありたいんだ、ということを自分で決めて、自分でそれを突き通す。
そいう堅い意志がないと、本当にいいものを生み出す芸術家になんてなれない。

その人は、語るべきものを持っているか、ということが一番「セクシーかどうか」を決める。

ものを知りたい、という好奇心から読書や、実験をする、というのは普通である。
普通であるのに、日本では、どこか「お勉強」という考え方が離れないから、お勉強は「先生のいうことを聞くという行為」だという一般通念が強勢である。
もちろん、勉強っていうのはそういうんじゃない、もっと自由で際限のない喜びをもたらす行為だ、というのはわかりきっている人もたくさんいるけど一方で、日本でそういう意識が一般的ではないのは間違いないと思う。

イタリアに行って得た一番の気づきは、この知性に関することであった。
「君はなにを勉強してるの?」
とよく聞かれた。
当時の私にはうまく答えられなかった。
自分の通っている学部の名前を言ったが、それは違うのである。
だが、イタリアで見たヨーロッパの学生は、少なくとも自分が興味を持っているものを、はっきり言う人が多かった。
別にそれは自慢でも、見え張りでもない、ただフラットに、「ああ、俺とんこつラーメン、好きでさ」ということをいうくらいの、「僕は電子工学をやってるよ」というさらっとしたものだった。
ああ、それでいいんだなあ、と思った。

好きな食べものと同じくらい、この世界には、興味を持って追求したいことがいっぱいあるはずである。
「無い」なんておかしい。

それを明るく「私はこれが好きです!」と笑顔で言える自分であればいいな、と心から思った。
「まぁ、一応、国際教養学部っていう学部で…一応英語で授業だったけど…」とかもじもじしながら、ふにゃふにゃ、「ああ、一応、早稲田で…」とか、あ〜あ、何やってんだよ、と思う。
とにかくイタリアに行って、これだけは恥ずかしかったな。

大学教育を受けたくらいなら、やっぱり「セクシーな知性」を身につけるとはどういうことか、くらいはわかっている人間でありたい。
もうすぐ24歳になってしまうけど、今これに気づけていて、もっと早く気づきたかったな、という思いと、ああ、今気づいてよかった、と思うのと、両方である。

『アルジャーノンに花束を』は、茂木健一郎さんがツイッターで言及していたアメリカの作家による長編小説で、これは読みたいなと先から思っていたので、借りてきた。
表紙から想像されるストーリーとはまるで違って、これ、表紙ピンクやめろよ、と思った。もっと中立的な表紙はなかったのか。この絵を描いた人は一体中身を読んだのだろうか。やれやれ。

内容は、穏やかなSFである。だが描写は極めて現実的。宇宙船とか、変な生き物とかは一切出てこない。だが「人間の頭をよくする」という現実にはほぼありえないであろう手術を軸にしているので、やはりSF(サイエンス・フィクション)だ。
白痴の青年が手術で天才になって、世界の誰も手にしたことの無いような知性と教養を手にしていく。しかし、同じ手術を受けたねずみが、やはり賢くなったのちに次第に能力が今度は低下していくのを観察し、自分の運命を徐々に悟っていく、という話。

星をつけるなら、4.5/5で、とてもいい。
これを書いた人、ダニエル・キイスさん、よくもまぁ、ここまで人間が、こいういう状態だったらどうなるか、ということを深く集中して描けるなぁ、と思う。たぶん、実際こう感じるだろうな、ということが、とてもよく描かれている。全然、感情がデフォルメされていない。
漫画とか、だいたいそうだけれど、絵面どころか感情もデフォルメされているものがおおい。
コピーのコピーみたいなもの。

それはそれで面白けりゃいいんだけど、それと別で、「古典作品」を読むことの意義には、「デフォルメされていないもの」を受け取る、ということがあるのだと改めて確認した。


2015年7月28日火曜日

大学で自分を区切らないこと(2012/10/22メモ)

●大学で自分を区切らないこと
ーーーーー「いろんなものを見るため」に。


大学が終わったら学究のみちは終わりだ、などと考えてはいけない。
主立った目的が学業である、という点で大学生という地位が特別であることに変わりはないが、それはただ単に学業に費やす時間があるというだけであって、そのタームが終わったらあとはお金を稼いで死んでいく、というようなものではない。

だからこそ、今のうちにいろいろなものに手を出しておく、というのがだいじ。
図書館にいけ。
使えるリソースを使え。
先生に会いにいけ。
面白い人に出会え。
旅行に行け。
モノを作れ。
そうやって、これから一生、自分は何に興味を持って、何について研究を深めながら生きていくのかというのを見極める場と考えればよい。いや、見極めなくていい。「なにが世の中にあるのか」を見る時間なのだ。
そもそも大学という場所が単なる「制度」であるということに気づかねばならない。

だから大学の意味というのは、とことん、「いろんな経験をすること」に他ならない。

そしてたぶん実は、それは人生のどのフェーズにおいても、そのレベル、内容、やりかたが違うだけであって、本質的に変わることは無い。
小学生には小学生なりの、中学生には中学生なりの、高校生には高校生なりの「いろんなこと」の知り方があるし、社会人はやっぱりお金を稼ぎながら「いろんなこと」を経験するし、60歳のお爺ちゃんもやっぱりなにか新しいことを日々おもしろがって生きているのだ。

2015年7月10日金曜日

最近やっていること

 思うところあってまた再開。

 書いた文章の「強要度」について考えた。ツイッターとか、フェイスブックに、自分の近況とか、書きたくないんだよなー、とぼんやり思うのは何故なんだろう、と考えていた。その時、あっ、ツイッター、フェイスブックの問題点は、書いた時点で即「判断される」場に送信されていることだ、とふと思ったのだ。
送り手と読み手の間に「すき間がない」のが問題なのだ。
文章を読む時、一定の構造というものがある。一人が、一人で孤独に書いたことと、一人の人間が対峙する、というその構造である。人がひとりいて、その人が何かに触発されるなり、悩むなりして、考える。そうやって「考えている」時、人はすごく孤独でなければならない。考える時に人のことを気にして考える、というのはおかしい。それはその人自身の意見なのだから。周りを気にしだすと人は意見を変える。人の目を気にしつつ考える意見というのは、考えれば考えるほど、当たり障りのないものになる。
 だが面白い文章、考えに通底する最低要件というのは、つくづく、「人が孤独に考えた結果」だということだとおもうのだ。そこにその人にとっての切実さ、真剣味が滲み出るから読み応えがある。少なくとも、本当に書きたくて書いたのか、それともそうでもないのか、ということは、読み手には必ず伝わる。
 人は孤独に考えて、書かねばならない。青木は、孤独に考えて、孤独に自由に書きたい。大事なのは「読み手が、自分の文章を読むのか読まないのか、自由に選択できる」という担保だ。でないと、相手のタイムラインに流れることを想像した時に、「いや、あの人は読まないだろう、あの人は読んでくれるかもしれないけど、こういう長々と述べた文章を読みはしないだろう」とか、考えてしまう。長い文章を書くというのは、根本的には、「俺の話を聞いてくれ!」という自己顕示、エゴの漏洩だからだ。別にそれは構わない。むしろそういう風に自分が「これ、面白いんだぜ」と思うことを自由にみんながわーわーぎゃーぎゃー言い合うから、文化なんてものができるのだ。でもそのために、いつもいつも自分のやることに自身満々100%、というわけではないから、ある程度評価される場から離れて書かないとダメな人がいる。少なくとも青木はそうだ。その安心感があるからこそ、自分なりに孤独に考えてものが言える、言葉を雑に変えてしまえば、好き勝手なことを書ける。そう思うと、第三者が書いた内容がたちどころに自分の「タイムライン」に流れてくるツイッター、フェイスブックは、明らかに読み手に読むことを強要していて、ダメなのだ。だから、立ち止まってしまう。迂闊なことをかけない。
 自由にたくさん書く場として、ツイッター、フェイスブックは不適切である。だから雑誌を始めたんだ。

 人がまず自由に書くことの第一歩としての大きな要素は、読み手に対しての強要がない、と分かっていることによる圧力の無さである。言ってしまえば自分の机にあるノートでもいいんだけど、でももし、そのいわば「下書き」のような状態も、ちょろっと人に読んでもらえるのならば、それはちょっと嬉しいな、とそう思えるとするならば、ブログくらいが最適なのである。

 そんなことを、EJCのチケットを夜中にコンビニに印刷しに行って、思った。

 自分は、考えるのが好きなんだ、暖色の明かりが灯る部屋で、北欧の音楽とか、ジャズとかをへろへろと流して、ゆったり、自分が思うままに文章を書くのが好きなのだ。何かに縛られて書く、というのはそれはそれで必要とされる場面もあるんだけど、やっぱり私個人の本性として、思いついたことをそのままに書きたい、ということがあって、そういう媒体として、ツイッターとか、フェイスブックとか、もっと言うと雑誌とか、そいうのは似合わないんだよね。好きなんだけどさ。
 自分が思うままに筆を振るえる、キーボードを叩けるというのは気持ちがいいのだ。 それは、カラオケで歌うことにも、マッサージされることにも、パズルを解くことにも、旅について書いてあったりする本を気兼ねなくゆったり読むことにも、語学を好きなだけやることにも、どれにも似ている。そしてどれにも似ていない、ユニークなところもまた持ち合わせている。

 さて、この夏の旅行のことを考えている。この夏はとにかく旅行三昧になる。
22日に松本に空中キャバレーを見に行くことが、今日急に決まった。あの寡黙なジャグラーあきらさんが飛ぶ、というので、これは見に行かねばなるまい。一泊だけだが、楽しみだ。
 本格的な旅行のまず筆頭はEJC、ヨーロッパで行われる、世界最大規模のジャグリングのフェスティバルに行って、その後2週間ヨーロッパで行きたいところに行く計画だ。
 といっても2週間なんてたいしたことないので、たぶんクロアチアでジャグリングサークルの友達のマヤに会って、マカルスカという、マヤ曰く「海以外何もない」ところでのんびりして、そのあとはイタリアの友達に会ったり、魅力溢れるチェコ共和国に行ったりしてるうちに終わるだろう。
 それが終わったら、沖縄のジャグリングサークル「スタジオジャグリ」の合宿に参加させていただく。渡嘉敷島での合宿。ある人にそのことを言ったら、「渡嘉敷は本当にいい」とのことだったので、期待は高まるばかりである。それでなくても沖縄にこの間行ってきて、狂わんばかりにいいところだなぁ、と思った矢先なので。
 そのあとに9月に香港に行く。
 チケットが安かったので、なんだかわからぬまま取ってしまった。一体何をするんだろう。ううむ。とりあえず、月曜日に毎週あるというジャグリングの集まりには顔を出してみる予定である。
 でも、こういう旅を続けられる人生でありたい。
 別にひとところにとどまってじっくり仕事をするのも構わないけど、やっぱり、心の向くままにぺろっとチケットを取って、旅を書き続ける人生でありたい。

2015年2月15日日曜日

フランスのこどもたちがサーカスを楽しんでいることについて

明日『ラパン!ラパン!』という公演をする「ウサギ食べるズ(レ・モンジェ・ドゥ・ラパン)」の一員、ドミニクさんが行っていた(と思われる)サーカス学校についてちょっと勉強しようと思って色々見ていたら、これを見つけて、ああ、サーカスが文化として根付いているって、なんかやっぱりいいな、と思った。
勿論この映像だけで判断できないし、ヨーロッパ人がみんなみんなサーカスに親しんでる、というわけでもないだろうけどそれでも、日本と比べたら断然受容のされ方は違って、きっと、もっと皆サーカスをこどもも大人も気軽に楽しめる土壌があるのかなぁと思い、いやはや、いいですねぇ。


2015年2月13日金曜日

グリンピースを目指したら良いんじゃないか

最近公的に書く機会が増えているので、どうも欲求のままにがががっと書くことが上手く出来なくて、まぁそれはそれなりにいろいろと勉強にもなって面白いのだけど、たまには思ったことをそのままに書きたいのです。

グリンピースになる、というのはどうだろう。

批評をするとどうしても自分は弱気になりがちです。本当は、結構「こんなこと書いていいのかなぁ」とか、やっぱり思います。
それでも、批評、っていうか、忌憚のない意見みたいなものって、栄養のある野菜みたいに、必要というか、存在意義が無いもの、ではないんじゃないかな、と思います。

ほめられるのは、当然嬉しいし、次への糧にもなります。
つまり何かをしてほめられるというのはまさに「アメ」で、お菓子なのです。
甘いものはやっぱり皆好きです。
でもやっぱりそればっかり食べていると太っちゃうし、栄養は偏るし、あんまり健康的ではない。

それで、いい批評というのは、グリンピースたるべきなんじゃないか。

皆結構、特に子供とか、グリンピースやピーマンやニンジン、嫌いだけど、その中には実は、成長に必要な栄養素が含まれている。

そういう意見を言うのって、やっぱり難しいです。
自分では、そういうことを言えているかどうか、まだ分からないです。たぶん言えてないと思う。
それでも、


批評を受ける側になるにしても、その批評は果たしてただただ良くない悪口みたいな、腐ったものとか、食べないほうがいい毒なのか、それとも、一見して苦いんだけど、実はふんだんに栄養を含んだものなのか、よく判断できるようになれたら、「大人」なんじゃないかなぁと思うわけです。