アコースティックギターでケルト音楽を練習している。音と映像を頼りに、運指をコピーするだけ。幸運にも好きな曲がとてもいいアレンジでYoutubeに載っていた。Tony McManusさんという人の演奏。そのアレンジを、トニーさんがどのように構成しているか、考え方から、ゆっくり解説されている(内容と関係ないけど、彼の喋り方は、すごく好ましい)。
でも、指の動かし方について逐一詳しい説明があるわけではなく、どちらかというと、「どうやるかは君に任せるけど、僕は、こういう考えのもとこのやり方をしているかな」という言い方をする。弾くこと自体は、基本的には見て覚えるしかない。
これを頼りに、少し流しては止め、コマ送りで観察して、1フレーズずつ何回も何回も練習している。
こういう学び方が好きだ。「攻略方法」みたいなものがほとんどなくて、自分のカンで正解を探り当てていくこの感じこそ、学びの醍醐味ダヨ、ととても興奮している。
僕は「サクッとマスター」みたいな標語を見ると、それはあんまり楽しい学びじゃないんじゃないか、と懐疑的になる。そして、楽しかろうが楽しくなかろうが、体の動きにせよ、頭の動きにせよ、ある一定のパターンの身体化は「サクッと」実現することはないんじゃないかと思う。
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先生がいようといまいと、学びをする段階はみな孤独だ。自分の体の動かし方は、自分自身で振り返って直すしかない。むしろ突き放されているぐらいの方が、自分で考えて反省するので、長い目で見ると教育としての滋養が高い感じがする。
けど、そういう風に教えることを体系化するのって難しいよね。
そもそも、学びっていうのは、自発的に熱をもった人と、たまたまそこにいた見本になるような人間の存在が重なって、偶発的に起こるものだろう。それをシステム化しようとすると、そこにはすでに矛盾があるんだろう、と思う。
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ジャグリングの学びの初期の頃を思い出している。系統だった教えられ方は特にされず、とにかく少ない情報をもとに、自分自身で正解を形成していた。
そうそう、これは語学でも一緒だね、と思っている。
とにかく響きを何度も何度も聞いて、単音と全体との対応を何十回何百回と自分の頭で考えて、仮説を立てては失敗し、少しずつ自分の体でそれを再現できるように、獲得していく。