昨日は朝翻訳に取り組み、昼、埼玉から友人くる。
遅くまで起き、今日も遅くまで寝て、桜木町に来て少しだけ仕事する。
誰と一緒にいるかで、景色も、自分がどういう人間であるかという認識も、とにかくすべて変わるよな、と思う。
昨日は朝翻訳に取り組み、昼、埼玉から友人くる。
遅くまで起き、今日も遅くまで寝て、桜木町に来て少しだけ仕事する。
誰と一緒にいるかで、景色も、自分がどういう人間であるかという認識も、とにかくすべて変わるよな、と思う。
昨日のこと。
朝は部屋掃除。昼はだいごさんくる。近所のニュータンタン麺を食べにいく。だいごさんは初ニュータンタン。知ってるかなと思っていたが。
途中からふじくんが合流。少し家で話して、一緒に自転車で妙蓮寺まで。
妙蓮寺で、いつもの、生活綴方。店番の日。今日は作家・川内有緒さんのイベントがある。偶然だがこの日、僕が店番。有緒さんはあいかわらず。といっても、3日ぐらい前に会っているのだが。
19時30分からスタートのトークイベントには、たくさんのひと。
イベントも楽しかったし、そのあとの打ち上げ、小上がりでおでんを食べたのも楽しかった。
もう、落ち込んでない。嬉しいな、ということがたくさんあった。新しい人ともたくさん出会い、そして、期間をおかずしてまた会う、という繰り返し。
「気持ち」にもいい代謝があるね。
雨音が聞こえる室内はいいな。
コワーキングスペースの「本屋の二階」で、昼から数時間、ウェブ上で発表される原稿を書く。昨日は朝4時半まで手紙を書いていた。あまり身体が健康ではないことを感じる。マテ茶、ハマる。原付で走ってたら、後ろの原付乗りに「後ろ見なさいよ」と怒られる。しゅん。雨の日はよく見えない。
自信がついたり自信が無くなったり、いろいろである。
自分自身の変化で、世界が全て変わってしまって見えること、ってありますね。これは、要するにちょっと鬱っぽいということなのだろう。
というか僕には多分躁鬱っけがあって、とても悩んでいる人からしたら大したことはないのだろうが、それでも、調子が結構悪い時と、とてもいい時でかなり差がある。まぁ、だからどう、ということもなくもう29年間も過ごしてきたから、本当に、どうでもいいんだけど。
自分のことを把握したがっている。本を読んでは、自分のことに当てはめ、人と話しては、自分の行動に照らし合わせる。
やはり、誰かに怒られる、誰かを不快な気持ちにさせてしまった、と感じることがとても苦手なんだ、と思う。たちどころに自信が無くなってしまう。これは、みんなそんなものなのだろうか、それとも僕が極端に弱いのだろうか、そういうことは、よくわからない。
わからないけど、とにかく、しょんぼりしてしまって、身体に力が入らないようなことが、よくある。
無印の黒糖バウムをコーヒーで流し込んで、書き始める。
・朝目覚めたときに、ぱっと起き上がりたいな、と思っている。
・昨日、大船の本屋さんポルベニールブックストアまで行ってきた。作家の川内有緒さんがいらしていて、書店員見習いをやる、というイベントがあったのである。本屋自体もいつ行こうか、とずっと考えていたから、ちょうどいいタイミングだった。午後4時少し前に入ったが、店内には、僕以外にもうひとり。僕ら二人に向けて、『バウルを探して 完全版』のパネル写真を紹介してくれる。その後だんだんと人が増えていったのだが、書店の関係者がすごく多い。なにかでつながっている人がとても多い。ヨーヨーのユッキーのお姉さんもいらした。(有緒さんの著書『パリでメシを食う。』にユッキーが出てくる)昔ユッキーと練習していた時期があったことを伝える。みんなが何かしらでつながっていることがすぐに分かる場であった。有緒さんも、すぐ話をふってくれるから、色々とつながっていくのである。いいね。
・今日は新宿の方に行って、トレードショーを見に行く。
朝、インタビュー。依頼されて行うインタビュー、ってあまりない。どうすればいいんだろう、とも思うのだが、ふつうに話せばいいはずだ、と思って、あまり気をはらないようにした。
昨日ちょっと言われたことがあって、そのことについてずっと考えている。これは、悲しい、というのとは少し違うのだが、うーん、まだ、こころの整理が追いついてないみたい。しばらく自分の中で落ち着かせてから、冷静に返事をしようと思っている。
容易にひとにメッセージが伝えられることは、いい面もあれば悪い面もあるな、とおもう。そんなつもりじゃない、ということまで伝わる。ということも、ある。人を前にして、そこでは言えないこと、というのがある。これは、別にそこに嘘がある、ということではなくて、それこそが、対面で話すことの正しい力学であって、面と向かっていると言えないだろう、ということ、は、それはそれでいいのである。
少し早く起きて文を書いている。
「仕事をする」という言い方を改めたくて、いろいろ自分の中で試行錯誤している。
「仕事」という言葉に誇りを持っていたり、これはとても気持ちのいい響きだ、と感じている人もいるだろう。それは知っている。僕自身にもそういう時がある。
ただここでは僕が、今、この、2020年10月15日木曜日午前8時33分に感じていることを書く。
「仕事」という語を使う時、多くの場合それは「嫌なこと」を、それ以外の「嫌じゃないこと」と隔離する意図で使われている感じがする。しかし誰だって嫌なことなんてしたくないじゃないか。わざわざ「さあ、これから嫌なことをするぞ」と自分に言い聞かせてから始めるなんて、愚行じゃないか、と思う。対外的に、これから何するの、と言われて「あ、仕事しようかなと思っている」と言うのは構わない。ここでいう「仕事」はあくまで記号で、記号として機能しているうちはまだいい。しかし「仕事だ」と言って残念そうな顔をしたくない。「仕事」を、とにかく、諦める理由の言葉として使用する症状が蔓延しているのは、どう考えても、社会的損失じゃないか。そこに、自分の力で抗うことを密かに諦めている匂いがする。そこに自分の健康との断絶があるようにも感じる。どうも、ここに流れているのは、気持ちのいい流れじゃないな、という感じがする。気持ちよくない流れよりは、気持ちいい流れの方が、いい。いいよね。
「仕事」という語には、絶対、本来、そんな風ではなかったと思うんだけど、自分ではいかんともし難いことにペースを乱されている感じが付きまとう。他人にペースを握られる、ことを意味しているような節がある。他人にペースを握られると、不安になり、心配になり、鬱々とし、やるせなくなり、怒りが湧く。
自分の裁量で管理する「仕事」がいいんだろうね。他者が制限をかけるのであれば、先回りして、自分から制限を設置しにいく方がいい、ということを思う。それが気持ちいい、と思えていれば、最高じゃん、と思う。
※※※
久々に加藤典洋さんの『言語表現法講義』冒頭を読む。ああ、俺は、この本と、この著者に出会って、文章を書くということに対する態度を一変させたのだった、と思い出した。
「わかったら、何がわかったのかを、考えなさい。」(『言語表現法講義』p.204)