2022年9月19日月曜日

全部やる日記 9

 朝から天気が悪く、タリーズには行かず。 家で文字起こしの仕事を進めようとするのだが、とんでもなく眠くて、ほとんど進まない。空気に押しつぶされるような感じがする。猫もなんだか落ち着きがなく、ロフトに登ったり降りたりを繰り返している。断続的に仕事をしながら、途中、耐えきれずベッドに突っ伏して、気づいたら一時間ほど寝ていた。
 このままでは一日が終わってしまう、と思って、猫を置いてとりあえず家を出る。みなとみらいまで行こうと思ったが、生活綴方に寄ったら、話したい人たちがいたので、少し話をして、それから結局綴方の本屋の二階で仕事をしていくことにした。
 小指さんの新作『人生』を買う。本を買うのは嬉しいね。
 猫をどうにかして慣れさせたいなぁ、と思っている。やっぱり、逆にしばらくかまわない方がいいのかな、と思う。餌だけ、自分の手から上げて、美味しいものをいっぱいあげて、あとは放って置いて、向こうの方からくるのを待ったらいいかもしれない。
 ぽんちゃんは自分が思い描いていたような猫ではなくて、でもそれは動物だから当然で、いや、もう少し僕も考えて連れてくることもできたのだろうけど、でももう過去に戻ることはできないし、ただ僕は今の状況を受け入れて、ここからどういうステップを踏んでいくと面白い、穏やかで幸せでいい感じになりそうか、ということだけを考えている。
 一度部屋の隙間を塞いでみて、あまり隠れられないようにしてもいいのかもしれない、と思っている。それで、ちょっとずつ距離を縮めてみる。焦らない、焦らない。

2022年9月18日

2022年9月18日日曜日

全部やる日記 8 

 朝はやっぱりタリーズへ。のそのそと起きる、という感じ。のそのそ。スッキリ、でもパッと、でもなく、のそのそ。眠気が頭から離れない。家が悪いのか? 僕は今なんだか引っ越しがしたい。僕が悪いのか? 日当たりが悪いせいか? なんとなく、壁から漂う匂いがいけないのかもしれない。なんだろうね。ベッドが悪いのか?
 僕はとにかく解放感がない場所にいると鬱々とする。そりゃあみんなそうだ、当たり前だと思う。でもそうじゃない人もいるのかもしれない。窓なんか最小限でいい、暗いところで一人作業をしている方が落ち着く、という人もいるのかも。
 とにかく、そう長くない人生だから、なるべく居心地の良い場所で過ごしたいと思う。
 でも僕はこういう時に、今まで、「いい方向への変化」をなるべく早急に、と焦っていたけど、それもやめようと思っている。特に、お金と手間がかかることに関する決断をするには、慎重すぎるくらい慎重でもいい、と思っている。どうせ、本当にいい決断の時にはそれがすぐわかるだろうからだ。ちょっと無理して変化の方に行こうとして、失敗ばかりしてきた。変化したい、と思ったら、本当に大きな、本気の変化のために、黙って知恵と資金を貯めておくのが正解だろう、と僕は思っている。
 昼までタリーズにいて、急に思いついて席を立って浅草に行く。展示を見に。同世代の作家・荒牧悠さんの、「荒牧 悠 "こう (する+なる)” ― phenomenal # 02」。Twitterで少し話題になっていて、見ておいた方がいいような気がして、見ることを決めたら、予約を取ってその2分後に電車に乗った。
 浅草駅から結構歩いた。久しぶりの浅草駅は、人が多くて少し落ち着かない雰囲気だった。人力車がたくさんいた。まるでそれが主要な交通手段であるかの如く、人を乗せた大きなリヤカーが道を走り回っていた。
 展示では、荒牧さんと話した。一時間ほど滞在して、細かい話までたくさん聞いた。ジャグリングの話もした。荒牧さんがディアボロも買ってみて試した、ということを聞いて、すごい実験精神だなと思った。
 展示自体すごく良かった。こういう風に心地のいい空間は、とても好きだなと思った。家もこれぐらい心地がよかったらいいんだけど。

 展示だけ見て、僕はあんまり人混みが好きじゃないし、休みの日の東京なんてのは特に好きじゃないので、さっさと帰ってきた。ちょうどピッタリのタイミングで待ち合わせをしていたLさんと会った。白楽の中華を食べながら、仕事の打ち合わせをした。帰り、もう少しだけ話そうかな、という気になって、カフェ居酒屋のにゃらやに一緒に行った。一周年だ、というので、日本酒をふるまってもらった。シンクに皿が溜まっていたので、その皿も洗った。
 後で思い出したけど、僕がお酒を飲んでいるその間に、白楽ではドッキリヤミ市というイベントをやっていて、ギリヤーク尼ヶ崎さんも来ていたのだった。見にいけばよかった、としばらく後悔したが、こういう「あれをやっておけばよかった」という後悔に耐性をつけたい。「逃したもの」については考えなくていい。今持っているものと、これから持ちたいものについてだけ、それを少しでも良くしていこう、と考えるだけでいい。今の状況から、どっちに足を向けたらより良い方に行くのか。そういうことを考える。ただ、自分が今何を目指して進んでいるのか、それをしっかりと見据えよう、という気でいる。

 結局、外で起きていることを一切無視して、僕は家で文字起こしをして、少しだけ本の執筆を進めた。
 書き方について少し何かが見えた。これを待っていた。僕は、文章のための文章じゃなくて、状況を思い浮かべて、ただそれを描写していって話をするのが得意、というか、それがやりたいことで、一番ワクワクすることだったんだ、と思い出した。僕は漫画を描きたかった。それを文章でやりたいと思っている。
 読んだ人からの感想も時々もらうんだけど、早く続きが読みたい、と言ってくれる。素直に、僕は別に「本質的なこと」とか書かなくていいから、面白いものを書けよ、と自分に言っている。いいんだ、そんな、高尚なこと書かなくて。

2022年9月17日

2022年9月17日土曜日

全部やる日記 7

  朝遅め。相変わらず猫のぽんちゃんは警戒をしているようだけど、少し家の様子には慣れてきている感じもする。安心した目つきを見ることが多くなった。怖がって押し入れに引っ込んでから、再び外に出てくるまでの時間がほんの少し短くなった感じがする。ととん、と物入れから降りてくる時の音を聞くと嬉しくなる。出てきてすぐに構おうとすると、えっ、という顔をする。しばらくは放っておく。
 タリーズへ。日記をさっと書き、絵を描く。
 お昼は「加とう」の親子丼。ここは鴨せいろも美味しい。どれを食べても美味しいし、手頃な値段だ。そのまま少し歩いて、ドトールへ。シェイクを飲んで、少しだけ岸根公園で陽を浴びる。今日は妙に暑い。そして電車で、新百合ヶ丘に行って、映画『マルケータ・ラザロヴァー』を見る。映画館でやっているうちに見ておきたかった。始まって一時間は、一日動いてすでに眠かったこともあって、ほとんど寝ていた。響く不協和なコーラスに、「ああ、こういうタイプの映画か」と思い、予想はしていたけれど案の定退屈な気分になる。
 だが、本編が始まる前に予告が流れていたアリス・ギィという女性の映画監督の話を見て、この人が、それまで事実を記録するのが主だった映画に物語を持ち込んだ、というようなことを聞いて、映画が辿ってきた歴史について考えながら見ると、また違った印象だった。映画って、本来的にはもっと自由な表現形式なんだよね、と思った。
 三時間弱の映画内容。半日見ていたように感じた。一つの世界に入り込む、という意味では面白く、稀有な体験だった。じゃあもう一度見るのか、人に薦めるのか、と聞かれると、人には薦めないが、もう一回見てもいいかもしれない。意識が飛ぶ。
 サイゼリヤでワインとピザとパスタを食べて、帰った。安くて美味しい。
 不安で作れない、という日々が続いているけど、それは逆で、作っていないと不安だ、の裏返しであるような気がしてきた、というか、そうだと思うことにした。作っていないと不安だ、と思って、作り続けている方がまだ健康であるような気がしている。

2022年9月16日

2022年9月16日金曜日

全部やる日記 6

 相変わらず朝はタリーズ。自転車とバイクをおいているスペースの横で工事をしていた。自転車を取り出しにくかったが、ぐるっと回って車体を出す。十時半ごろカフェに到着。日記を書く。前日の夜に、絵を完成させようと思っていたのに忘れていた。途中まで描きかけだった絵を完成させる。
 そのまま、本の内容を書く作業に移行する。イメージとして、何か文章を隣に置いておいた方がいい、と思って、内田洋子さんの『十二章のイタリア』を手元に携えておく。石堂書店で前日に逗子に行く前に買ったものだ。これを買った時に、このところ、本を買わなくなっているなと思った。本屋に出入りが多いから、本を買っているし、読んでいるような感覚に陥ってしまう。文庫本を手頃な値段で買って、電車で片手で読んでいると、こういう種類の満足感って久しく感じていなかったな、と思う。
 それほど文字数としては進まなかったけど、核ができたような感じもあるし、そんなこともないような気がするが、とりあえず進める。思い出しながら書いている時の自分は今の自分である、という事実を内包しながら書き進めることができている感じがある。まぁ、どうなるかな。
 適当なところで終わらせて、迷っていたけれど桜木町までカブで走って、YDCの練習へ。行くと友達の子供が三人いて、その子たちどずっと追いかけっこをしたりおんぶしたり抱っこしたりをしていたら二時間半の練習時間が終わった。ジャグリングよりも、子供と遊ぶ方が楽しいなと思った。
 帰ったら、猫は相変わらずまだ僕のことを少し警戒している。

2022年9月15日

2022年9月15日木曜日

全部やる日記 5

 朝九時起床。猫の水を交換し、餌をあげる。朝はお腹が空いているからか、シャンシャン、と袋を振ってエサの音をさせると、すぐに出てくる。でもあくまでゆっくりと出てくる。警戒心を解くことはない。押入れの空いた隙間からにゅっと顔を出して、身体は出さない。その状態で、周りのにおいを嗅いだり、部屋を隅から隅まで眺めたりして、危険がないかどうかを長い間確認する。僕が急に動くと、顔が変わる。すぐに逃げられるように、姿勢を低くする。
 本当は僕は「ほーれほれぽんちゃん、よーしよし」となでさすりたい。身体を抱き上げ、だるんと下がった脚をふりんふりんと揺らしたいが、それはできない。いや、できないこともないが、それをやるとハーッと歯を剥き出しにして威嚇され、しばらく奥から出てこなくなるので、やめておく。
 自転車でタリーズに行って日記を書く。翻訳も少しだけ。一度家に帰ってご飯を炊き、レトルトを温めてカレーを食べる。眠くなったので、少しボールジャグリングをして気を逸らす。三つで思うままにジャグリングをするんだけど、僕はバッククロスもまともにできない。
※※※
 今日は鎌倉の方に行って、中学一年生(彼は学校にはほぼ行っていないが)のRに英語と数学を教える日だ、とわかってはいるのだが、気合を入れて準備をする気が起きない。でも、その方が却っていいんじゃないか、と思う。面倒くさいのではなくて、ただ、気合を入れて付け焼き刃で内容を準備するんじゃなく、今までの自分の経験をただ自然に流していく、空気のようにその場に充溢させる、という方が、僕の伝達の術として合っているような気がしたからだ。
 僕はこの仕事を頼まれてから数日後に、中学生用の英語と数学の参考書を買いに行った。合計で七〇〇〇円した。どんな内容をやっているのか確認し、それに合わせてカリキュラムのようなものを作ろうとした。本を開いて、内容を読んで、ふむふむ、と思ってから白い紙を前にして、さて、と思ってペンを持って、手が止まった。
 手をつけるまでは至極簡単だと思っていたことが、一筋縄ではいかないことがわかった。
 英語をやるのに、どういう導入をしたらいいのか。音から入るのがいいのか。じゃあ、あいさつと簡単な会話でも教えたらいいのか。その前に、基本的な文法くらいはやったほうがいいだろうか。文法をやると言っても、どういう順序でやったらいいか。中学生ではまず、代名詞、be動詞、三単現のs、SVO、なんて順序でやるが、本当にこの順序でいいのか。これが王道だというだけで、もっといきなり海に突き落とすような方法の方が面白いんじゃないか。
 そもそも僕は、なんでこの人に英語を教えるんだろうか。
 具体的な教授の内容から逸れ、僕の思考は、勉学をする理由の方に向いていった。
 これを教える理由がはっきりしていないと、何をどういうふうに教えるかの方針が立たない。英語を話せる人にするべきだからか。受験がうまくいくようにすべきだからか。それとも、暇潰しのようなものか。義務教育だから、という理由づけだって、そもそも義務教育というものがなぜ存在するのか、その理由がいまいち自分なりに納得できない。歴史的な偶然でそうなっているに過ぎない。
 僕が英語を教える、ということで背負っているのは、どう生きるか、ということを人とぶつけ合うことだと思った。大袈裟なことではなくて、意識していなくても、何かを教える、人に技術を伝える、というとき、原理的にそういう構図を含んでいる。人は具体的な内容ではなくて、むしろそれを支える骨組みを教えている。具体的な内容は、実のところ、自分で会得する以外にない。もしそのことに無意識であるとしたら、そういうことに無意識である、という姿勢を含めて教えていることになる。

 そこでようやく、プロとして何かを教えている人は、要するにこういうことをいつも考えているんだ、と思った。自分で真剣にそういう立場になるまで、分からない感覚だった。これは悩む。難しい仕事だ。それでも、どこかでこの考察に線を引いて、ストップし、具体的な内容を教える、という行為に徹底しなければならない。それが教える人間の責任である。どこに思考を止める線を引くか、それを感じてもらうのが教師の任務だと思った。
 結局、以前プリントアウトした簡単な英語の文章以外には何も準備をせずに向かった。
 いつもと違って、リビングではなくて部屋で教えた。僕はもう、自分の人生をそのままそこに流し込むような意識で、俺は英語と二十年近く付き合ってきてるんだから、その話をすればいいんだ、と思って、気楽に臨んだ。文章を僕が読み上げて、この意味、わかる? と、ヒントを出しながら、クイズみたいな形で進めていった。僕自身も、知らない言語に相対した時、一番面白いのは兎にも角にも、「その内容がわかった時」だ。それをやることにした。細かいことは後からいくらでも直せる、と思って。包含している文法事項を細かくやること、などはあとでもいいと思った。これは、うまく行った。変にこわばって準備をするからいけなかったのだ。ただ、自然に身につけてきたことを発表すればいい。僕も自然に楽しめるし、相手が面白くなさそうにしていたら、瞬時に提供するものを変えらえれる。僕が普段人と話す時と同じようにやればいいんだ。その場限りの即興だから、先がどうなるか分からなくて面白い。日常生活で、自分が決めた内容に沿って話す、っていうことはない(あるいはそういう人もいるかもしれない。会話が苦手だからそういう戦略をとっている人もどこかにはいると思う。とりあえず僕は違う)。
 これは、ジャグリングを人に見せるにあたっても、大事なことだと思った。僕が憧れてきた表現者たちは、生活こそが表現を支える基盤である、ということを十分に了解している人たちだった。そして、見せる時には、それを自然体で見せている。どんな舞台でも、それを奪われないのだ。失敗がないように見えるのは、そういうことだ。予定したものをきっちりやる、という意識ではいない。僕だってそうありたい。予定をこなすのは、息が詰まってしまう。
 もし準備をするのならば、それは、何かに向けた準備ではなくて、日々の生活そのものが、準備でありたい。僕はそういう体験を何度もしてきているはずなのだ。TOEICなんか、五年くらい前に受けたことがあったけど、何も準備しなくたって無茶苦茶簡単だった。テストなんか意識しないでいい。発表の場なんか意識しないでいい。もっと長い目で見るんだ。囚われない方がいいのである。一生懸命準備しようとすればするほど、身体がこわばってうまくいかない。まずは柔らかくなることから始めるんだ。
 
 2022年9月14日

2022年9月14日水曜日

全部やる日記 4

2022年9月13日
 朝から事務所(タリーズ)に。朝は集中できていたようである。昼になって、母が来るというので、妙蓮寺駅まで迎えに行く。生活綴方の前にあるイタリアンでランチ。母はワインを飲んでいた。妙蓮寺にはワインの専門店もあって、この町の様子をすごく気に入ったようである。いつもは車で来ちゃうけど、車で来るところじゃないね、歩いたほうが楽しいね、と言っていた。そのあと僕の家にきて、猫のぽんを見ていった。ぽんは見知らぬ人が来ると、警戒して押し入れの中で身を潜め、ご飯もあまり食べなくなる。母は気を遣って、少しだけちゅーるをあげて帰っていった。妙蓮寺とは反対側、白楽の方面へ歩いて帰って行った。後でメッセージをしたら、白楽はあまり面白くなかった、という。妙蓮寺の方が気に入ったらしい。でも、母はまだまだ元気だな、と思った。父も、今年七十になるけどまだ元気で、白髪は増えたけど、一般的な七十歳の像よりは若々しいと感じる。きっちりしているのが好きで、やっぱり保守的な感覚を持ち合わせている、と感じる。でも僕がこうして特に定職にもつかず、何をして生活しているんだかわからないふうでも、別段文句を言うわけでもなく、ただ何かあったら頼れよ、というような態度でいてくれるだけ。
 僕の兄は小学校の先生。もう十年以上、教師の道を歩いている。その兄に比べたら僕は道化である。ギグワークばかり。いや、コメディアンでもない自分を道化と呼称するのは、本筋の道化師にも失礼だろう。父は警察官、母は教師で、兄も教師で全員公務員、僕だけジャグラー、と自己紹介することがある。そのことについて父がどう思っているのか、ちゃんと聞いたことはない。母は、「上の子はしっかり者に育てて、下の子は自由な子にしたかったから、計画通りだ」と言っていたことがあった。
 そういえば、母とパスタを食べ終わって歩いている時、もしかしたら2月に台湾でパフォーマンスをするかもしれない、と言ったら、母は嬉しそうにしていた。こういうプレゼントだったらいっぱいしてあげたいなと思う。
 また、タリーズに戻る。コーヒーを頼む。何か集中してやろうとするのだが、一日の後半に差し掛かると創作的な作業というのはできないな。頭にも身体にも、処理すべき余計な情報が溜まりすぎている。『ラストナイト・イン・ソーホー』という映画をMacBookで観た。この映画は、映画館で観ようと思っていたもの。プロットの面白さは普通で、ラストが少し駆けであっけなさはあったが、全体の映像が良いと思った。序盤に主人公がコーンウォールからロンドンに越してきたところを見て、旅情をそそられた。
 全然仕事にはならず、諦めて家に帰って、今度は配達仕事に出る。あまり気合が入らなかった。最後の一本で、某寿司チェーンの食べ物を届けた時、「足りない物がある」とお客さんから電話が入り、僕はその時ローソンで焼き鳥を買って食べていたのだが、まだ近くにはいたので、再び店に帰り、事情を伝えてその食べ物を出してもらい、届け直した。
 システム的にいえば、これは完全なる僕の「無賃のサービス」だ。配達はもう終了しているので、その後に僕が何をしようとも、賃金にはならない。そして、渡した商品が足りているか足りていないか確認するのは、基本的にはレストラン側の責任である。点数があっているかぐらいは確認できないでもないが、正確な内訳はこちらは分からない。なおのこと、今回は自動でロッカーから受け取るケースだった。僕の方はパッと取って、それを届けるだけ。まぁ、確認しなかった僕の落ち度もあろうが、現実的には、毎度毎度、ちゃんと足りているかどうかを詳しく確認するのは容易ではない。大きいもの二点入ってるはずが一点、くらいならまだギリギリ気づけるが、大きめと小さめのものが混在する三点のうち、一点足りなかった、だと、直感的に気付くのは難しい。どれがどの商品で、本当に足りているか足りていないか、をすべて明確に判断するのは難しいのだ。なおのこと、今回足りていないのは小さな商品だったので、さすがにこれに気付くのは無理だった。だが、商品を届け終わって評価を見たら案の定、「ビジネスに対するプロ意識」がない、としてBAD評価を受けていた。
 僕としてはすごく不満なのだが、でも届けられたお客さんの方だって、憤っている。それもわかる。こちらのシステムの都合なんて知る由もないのだ。まぁ、仕方がないね。「誰が悪いのか」ということではなくて、ただ生じた感情を、自分の方で対応するだけ。離れるべき場所からは、こっちから離れるだけ。それだけでいい。あとは自分の持ち場で集中するだけ。
 帰ったら猫が窓辺で外を見ていた。
 

2022年9月13日火曜日

全部やる日記 3

 昨日は朝からタリーズ。昼の一時に一旦家に帰る。猫に餌をあげ、シーツの洗濯をし、三十分昼寝をした。このままだらけた状態で、どこにも行けず四時半を迎えてはなるものか、と起き上がる。地区センターに、今夜の体育館の予約をとる電話を入れてから、再びタリーズへ自転車を漕ぐ。この新店舗は二年ぐらい前にできた。店内が綺麗だ。駅の中にあるせいか、イギリスとか、ドイツにあるような、今まで行ってきたヨーロッパのカフェを思い出す。家を出るときは嫌な気持ちでも、着いてみると気分は良い。そのまま5時まで机に向かう。

 一度帰宅し、ジャグリング道具をもって、綴方に行く。着いたところで、Beleafカフェから出てきた俳優のほのさんと、ご近所の綴方店番ベテラン砂田さんに会う。二人とも、バックパックに付いたディアボロに興味がいく。店番の中島さんに綴方で挨拶をしてから体育館に行こう、と思っていたら、店から柏井さんが出てくる。サプライズサプライズ。ツイッターを見ていて、そろそろ柏井さんに会えたらいいなぁ、と思っていた矢先だった。仕事先でうまく行っていないことがあるようで、ほのさんと二人で話を聞く。そこに店長のまさよさんが来て四人で話す。ほのさん、この日記を読んでくれたようで、僕にも元気ですか、と声をかけてくれる。

 こういう、ピンポイントで私的な部分を共有できる友人というのが大事だよね。根本的にはみんな一人だ。その時間を、それぞれが巨大な円の接点で共有している、これが心地いい。ベン図みたいに、ズズズ、と共通の部分を持ち始め、だんだんとその共有面積が大きくなっていって、半分ぐらい重なりあった時に、最終的に、古典的な家族に近づいていく。でも本当のところ、家族と言ったって別にそれほど多くのことを共有しているわけでもない。大半の時間は、人は一人でいる。

 柏井さんの話を聞いていて、それぞれが、それぞれの場所で、人に見えないところで、息が詰まったり、開放的になったり、暗く沈んだり、明るく笑ったりしているんだ、と感じた。そうだよね。人に会うときは皆、その場所の一部となる。風景であり、会話と、場所を構成する一要素になる。でも人に会っていない時、僕らは一人で、こころになる、と思う。自分が考えていることしか眼前にない。身体を失い、こころになる。でもだからこそ、そこで何かが生まれる胎動も聞こえやすいような気がする。身体を失っている時はいいものができる。こともある。他者もないが、自分の身体もない。ただこころがある。

 直前で声をかけたそいそいが体育館に遊びに来てくれる。二人でジャグリングを練習する。隣で「インディアカ」というバレーボールを羽根突きの羽根でやるようなスポーツを隣で練習していたお姉さんが、そいそいが回していたラバーを見て、「そのピザみたいなのはなんですか?」と聞いてくる。「ピザです」と答えた。

※※※

 今日は実に集中できている。やることが決まっているからだろうか。それとも、昨日よく動き、よく寝たからだろうか。多分どちらもである。やっぱりUberの配達を、自転車に切り替えようかと思っている。稼ぎは減るだろうが、でもいずれにしても配達仕事は減らして行き、なるべく近いうちに無くそうと思っているからちょうどいい。配達はスポーツである、と捉えて、それさえも創作のアシストにしてしまうつもり。この日記は、こうやって自分の予定を書き込むところなのだ。自分の希望を、具体的なプランに落としこむ場なのだ。ただ「こうだったらいいなぁと思う」と書いてそれで終わるのではなくて、具体的に実行したいことを、覚悟を持って書く場所でもある。こういうことって、自分の中での一貫性、つまり流れが大事で、僕がこういうふうに書いていることを読んで「なんだあいつ調子のいいことばっかり言って」と思う人もきっといるんだけど、そういう人のことを考えるよりももっと大事なことがあって、それは、自分の流れを止めない、ということである。