2022年9月15日木曜日

全部やる日記 5

 朝九時起床。猫の水を交換し、餌をあげる。朝はお腹が空いているからか、シャンシャン、と袋を振ってエサの音をさせると、すぐに出てくる。でもあくまでゆっくりと出てくる。警戒心を解くことはない。押入れの空いた隙間からにゅっと顔を出して、身体は出さない。その状態で、周りのにおいを嗅いだり、部屋を隅から隅まで眺めたりして、危険がないかどうかを長い間確認する。僕が急に動くと、顔が変わる。すぐに逃げられるように、姿勢を低くする。
 本当は僕は「ほーれほれぽんちゃん、よーしよし」となでさすりたい。身体を抱き上げ、だるんと下がった脚をふりんふりんと揺らしたいが、それはできない。いや、できないこともないが、それをやるとハーッと歯を剥き出しにして威嚇され、しばらく奥から出てこなくなるので、やめておく。
 自転車でタリーズに行って日記を書く。翻訳も少しだけ。一度家に帰ってご飯を炊き、レトルトを温めてカレーを食べる。眠くなったので、少しボールジャグリングをして気を逸らす。三つで思うままにジャグリングをするんだけど、僕はバッククロスもまともにできない。
※※※
 今日は鎌倉の方に行って、中学一年生(彼は学校にはほぼ行っていないが)のRに英語と数学を教える日だ、とわかってはいるのだが、気合を入れて準備をする気が起きない。でも、その方が却っていいんじゃないか、と思う。面倒くさいのではなくて、ただ、気合を入れて付け焼き刃で内容を準備するんじゃなく、今までの自分の経験をただ自然に流していく、空気のようにその場に充溢させる、という方が、僕の伝達の術として合っているような気がしたからだ。
 僕はこの仕事を頼まれてから数日後に、中学生用の英語と数学の参考書を買いに行った。合計で七〇〇〇円した。どんな内容をやっているのか確認し、それに合わせてカリキュラムのようなものを作ろうとした。本を開いて、内容を読んで、ふむふむ、と思ってから白い紙を前にして、さて、と思ってペンを持って、手が止まった。
 手をつけるまでは至極簡単だと思っていたことが、一筋縄ではいかないことがわかった。
 英語をやるのに、どういう導入をしたらいいのか。音から入るのがいいのか。じゃあ、あいさつと簡単な会話でも教えたらいいのか。その前に、基本的な文法くらいはやったほうがいいだろうか。文法をやると言っても、どういう順序でやったらいいか。中学生ではまず、代名詞、be動詞、三単現のs、SVO、なんて順序でやるが、本当にこの順序でいいのか。これが王道だというだけで、もっといきなり海に突き落とすような方法の方が面白いんじゃないか。
 そもそも僕は、なんでこの人に英語を教えるんだろうか。
 具体的な教授の内容から逸れ、僕の思考は、勉学をする理由の方に向いていった。
 これを教える理由がはっきりしていないと、何をどういうふうに教えるかの方針が立たない。英語を話せる人にするべきだからか。受験がうまくいくようにすべきだからか。それとも、暇潰しのようなものか。義務教育だから、という理由づけだって、そもそも義務教育というものがなぜ存在するのか、その理由がいまいち自分なりに納得できない。歴史的な偶然でそうなっているに過ぎない。
 僕が英語を教える、ということで背負っているのは、どう生きるか、ということを人とぶつけ合うことだと思った。大袈裟なことではなくて、意識していなくても、何かを教える、人に技術を伝える、というとき、原理的にそういう構図を含んでいる。人は具体的な内容ではなくて、むしろそれを支える骨組みを教えている。具体的な内容は、実のところ、自分で会得する以外にない。もしそのことに無意識であるとしたら、そういうことに無意識である、という姿勢を含めて教えていることになる。

 そこでようやく、プロとして何かを教えている人は、要するにこういうことをいつも考えているんだ、と思った。自分で真剣にそういう立場になるまで、分からない感覚だった。これは悩む。難しい仕事だ。それでも、どこかでこの考察に線を引いて、ストップし、具体的な内容を教える、という行為に徹底しなければならない。それが教える人間の責任である。どこに思考を止める線を引くか、それを感じてもらうのが教師の任務だと思った。
 結局、以前プリントアウトした簡単な英語の文章以外には何も準備をせずに向かった。
 いつもと違って、リビングではなくて部屋で教えた。僕はもう、自分の人生をそのままそこに流し込むような意識で、俺は英語と二十年近く付き合ってきてるんだから、その話をすればいいんだ、と思って、気楽に臨んだ。文章を僕が読み上げて、この意味、わかる? と、ヒントを出しながら、クイズみたいな形で進めていった。僕自身も、知らない言語に相対した時、一番面白いのは兎にも角にも、「その内容がわかった時」だ。それをやることにした。細かいことは後からいくらでも直せる、と思って。包含している文法事項を細かくやること、などはあとでもいいと思った。これは、うまく行った。変にこわばって準備をするからいけなかったのだ。ただ、自然に身につけてきたことを発表すればいい。僕も自然に楽しめるし、相手が面白くなさそうにしていたら、瞬時に提供するものを変えらえれる。僕が普段人と話す時と同じようにやればいいんだ。その場限りの即興だから、先がどうなるか分からなくて面白い。日常生活で、自分が決めた内容に沿って話す、っていうことはない(あるいはそういう人もいるかもしれない。会話が苦手だからそういう戦略をとっている人もどこかにはいると思う。とりあえず僕は違う)。
 これは、ジャグリングを人に見せるにあたっても、大事なことだと思った。僕が憧れてきた表現者たちは、生活こそが表現を支える基盤である、ということを十分に了解している人たちだった。そして、見せる時には、それを自然体で見せている。どんな舞台でも、それを奪われないのだ。失敗がないように見えるのは、そういうことだ。予定したものをきっちりやる、という意識ではいない。僕だってそうありたい。予定をこなすのは、息が詰まってしまう。
 もし準備をするのならば、それは、何かに向けた準備ではなくて、日々の生活そのものが、準備でありたい。僕はそういう体験を何度もしてきているはずなのだ。TOEICなんか、五年くらい前に受けたことがあったけど、何も準備しなくたって無茶苦茶簡単だった。テストなんか意識しないでいい。発表の場なんか意識しないでいい。もっと長い目で見るんだ。囚われない方がいいのである。一生懸命準備しようとすればするほど、身体がこわばってうまくいかない。まずは柔らかくなることから始めるんだ。
 
 2022年9月14日

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