2022年9月12日月曜日

全部やる日記 2

 朝8時からタリーズコーヒーに来ることに成功した。落ち着く。ヴァイオリンやギターやピアノを使った、不思議な音楽が流れている。RPGの、平穏な村で流れるような音楽。周りにはほとんど人がいない。平日の朝はこんなもの。一昨日の土曜日は、昼が近づくにつれてほぼ満席になっていた。

 昨日の夜、落ち込んでいたのでSと電話をした。色々とヘナヘナした愚痴を聞いてもらっている間に、スケジュールを固定した方がいい、という話になった。僕は今、どこに出勤をする必要もない。フリーランスの立場だ。いいときもあるし、悪いときもある。悪い、というのは、「細かい決定に至るまで、いちいちすべて自分でその決断を下さないといけないこと」である。そして、その決断の条件として「今はこういう気分だからこうしよう」というように自分のコンディションを勘定に入れていると、疲れる。自分で全部決められるのは、一見いいことのようでいて、決定を下すことに精神的なリソースを割かなければいけないが故に、とても疲れるのだ。そうやって無意味なことで疲れると、余計に落ち込む。悪循環に陥る。

 一例として、僕は朝起きた時、家ではうまく集中して仕事をすることができない。だから、まず「どのカフェに行くか」を決めることに時間を割く。でもそのために一時間も二時間もダラダラする時がある。すると十時近くなって、あーあ、俺は今日何もできないや、という落ち込んだ気分になってくる。それだけでゲンナリしてしまう。そんなのは嫌なのである。でも自分でいちいち決めているとそういうことになるのだ。かといって、行く場所を一つのカフェにだけ決めていると、なんだか飽きてしまう。だから僕は、コインを投げて、表ならタリーズ、裏ならむさしの森珈琲にいくことにした。昨日の夜、コインを三回投げたら三回とも表だったので、タリーズに来た。

 いや、でも、来てみて思うのだけど、毎日ここで朝ごはんを食べる、ということを一度徹底してみてもいいのかもしれない。少し嫌になるくらい自分を縛ってみるのもいいかもしれない。どうせ、本気で変えたい時には、いつだって簡単に変えられるのだから。

 とにかく、大事な仕事以外に自分のリソースを使いたくない、というのが本音である。

 ひとまずこれからお昼まで、ここで仕事をしようと思う。僕はこのブログも仕事だと思って書いている。「仕事である」と断言することで、緊張感を保っている。自分のコンディションを整える作業であり、文章を書くという運動の練習である。早寝早起きをして、毎日同じように文章を書いて、絵を描いて、ジャグリングをして、そんな生活ができていれば、至極健康でいられるだろう。

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 このところ、落ち込んだ気分がなぜか続いている。今までの経験からして、心が沈む時というのは決まって疲労がある時だ。早く寝て、早く起きるだけで、きっと気分は良くなる。むずかしい話ではない。知っている。わかっている。でも昨日も、寝たのは夜中の一時だった。そして、朝の五時半には目が覚めた。あまりこういうことはない。少し不安になる。普段は、一度寝付いたら、何があろうと六、七時間は問題なく寝ていられる。でもここ最近は朝方に一度目が覚めることが続いている。猫を飼い始めたせいだと僕は考えている。

 猫は夜中でも構わず、いや、夜中になったのを機に、のそのそと部屋を歩き回る。引き戸だって開ける。時々にゃ、にゃ、にゃ、と小声で鳴いたりする。トイレに行って、ザリザリ、と砂をかける音がする。猫と暮らすということは、猫と生活圏を共有するということである。ひょっとすると、僕にはもう少し大きい部屋が必要なのかもしれない。時々、賃貸のウェブサイトを見ている。半分本気で、引っ越しを考えてもいる。家賃の安くて広い場所に住めたら、と思う。

 僕はこの日記で、文章を書く練習をする、と決めた。言うまでもないことだが、文章を書くことも練習が必要である。あらゆる芸と一緒である。大舞台に出る前に、息をするように練習をしているフェーズがあって、それをただ自然体で見せること。そういう在り方に憧れがある。僕はそういう人を見た時にこそ、感銘を受ける。腹を括って、一日一時間はこの日記を書くことに費やしてみたい。同じように、ジャグリングだって僕は、本当は最低一時間ぐらいやってないといけない。この要請はどこから来ているのか。他人ではない。誰にも言われていない。それは僕自身の内側からくる要請である。しっかりやれウイルス・陽性。日々意味のあることを積み重ねている、という実感が欲しい。でもこういうことを言ってしまうのも、優しくないよね、と思う。「意味のあることを積み重ねていなければ」という言明は、「意味のあることを積み重ねていない人間はダメだ」という価値判断を暗示しているからである。意地悪だ。でも、一方でやはり「前に進んでいたい、積み重ねたい」という、確かな実感もあるんだから仕方がない。

 僕はなんでも、いつかは自分の思い通りになると思い上がっている。

 本当の意味でのウケる、愛される、ということは、つまりリスペクトである、と最近考えている。表面的に何か面白いことをしたから面白い、というのとは別のレイヤーに、その人の舞台上でのパフォーマンスを見て、その裏に存在する膨大な時間と、探究心と、深く関わっているからこそ見出せる視点を感じた時に、自然な拍手が出てくる。賞賛せずにはいられない、参りました、そんな感覚。

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 この日記は、自分との対話である。公開することに意味があるだろうか? 僕は、意味がある、と信じる。自分を励まし、自分を知るための文章である。同時に、他人にとっても、励ましや、自己を知るための鏡になっていればいい。

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