2022年9月13日火曜日

全部やる日記 3

 昨日は朝からタリーズ。昼の一時に一旦家に帰る。猫に餌をあげ、シーツの洗濯をし、三十分昼寝をした。このままだらけた状態で、どこにも行けず四時半を迎えてはなるものか、と起き上がる。地区センターに、今夜の体育館の予約をとる電話を入れてから、再びタリーズへ自転車を漕ぐ。この新店舗は二年ぐらい前にできた。店内が綺麗だ。駅の中にあるせいか、イギリスとか、ドイツにあるような、今まで行ってきたヨーロッパのカフェを思い出す。家を出るときは嫌な気持ちでも、着いてみると気分は良い。そのまま5時まで机に向かう。

 一度帰宅し、ジャグリング道具をもって、綴方に行く。着いたところで、Beleafカフェから出てきた俳優のほのさんと、ご近所の綴方店番ベテラン砂田さんに会う。二人とも、バックパックに付いたディアボロに興味がいく。店番の中島さんに綴方で挨拶をしてから体育館に行こう、と思っていたら、店から柏井さんが出てくる。サプライズサプライズ。ツイッターを見ていて、そろそろ柏井さんに会えたらいいなぁ、と思っていた矢先だった。仕事先でうまく行っていないことがあるようで、ほのさんと二人で話を聞く。そこに店長のまさよさんが来て四人で話す。ほのさん、この日記を読んでくれたようで、僕にも元気ですか、と声をかけてくれる。

 こういう、ピンポイントで私的な部分を共有できる友人というのが大事だよね。根本的にはみんな一人だ。その時間を、それぞれが巨大な円の接点で共有している、これが心地いい。ベン図みたいに、ズズズ、と共通の部分を持ち始め、だんだんとその共有面積が大きくなっていって、半分ぐらい重なりあった時に、最終的に、古典的な家族に近づいていく。でも本当のところ、家族と言ったって別にそれほど多くのことを共有しているわけでもない。大半の時間は、人は一人でいる。

 柏井さんの話を聞いていて、それぞれが、それぞれの場所で、人に見えないところで、息が詰まったり、開放的になったり、暗く沈んだり、明るく笑ったりしているんだ、と感じた。そうだよね。人に会うときは皆、その場所の一部となる。風景であり、会話と、場所を構成する一要素になる。でも人に会っていない時、僕らは一人で、こころになる、と思う。自分が考えていることしか眼前にない。身体を失い、こころになる。でもだからこそ、そこで何かが生まれる胎動も聞こえやすいような気がする。身体を失っている時はいいものができる。こともある。他者もないが、自分の身体もない。ただこころがある。

 直前で声をかけたそいそいが体育館に遊びに来てくれる。二人でジャグリングを練習する。隣で「インディアカ」というバレーボールを羽根突きの羽根でやるようなスポーツを隣で練習していたお姉さんが、そいそいが回していたラバーを見て、「そのピザみたいなのはなんですか?」と聞いてくる。「ピザです」と答えた。

※※※

 今日は実に集中できている。やることが決まっているからだろうか。それとも、昨日よく動き、よく寝たからだろうか。多分どちらもである。やっぱりUberの配達を、自転車に切り替えようかと思っている。稼ぎは減るだろうが、でもいずれにしても配達仕事は減らして行き、なるべく近いうちに無くそうと思っているからちょうどいい。配達はスポーツである、と捉えて、それさえも創作のアシストにしてしまうつもり。この日記は、こうやって自分の予定を書き込むところなのだ。自分の希望を、具体的なプランに落としこむ場なのだ。ただ「こうだったらいいなぁと思う」と書いてそれで終わるのではなくて、具体的に実行したいことを、覚悟を持って書く場所でもある。こういうことって、自分の中での一貫性、つまり流れが大事で、僕がこういうふうに書いていることを読んで「なんだあいつ調子のいいことばっかり言って」と思う人もきっといるんだけど、そういう人のことを考えるよりももっと大事なことがあって、それは、自分の流れを止めない、ということである。

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