2022年9月10日土曜日

キジトラネコのぽん 1

 家に猫がきた。

 「ぽん」という推定八歳のメスのキジトラ猫である。ぽんというのは、僕がつけた名前だ。タヌキのように地味な柄で、しっぽが極端に短い。まるでポンポンのような形をしている。僕は里親募集の写真を見て、すぐに「ぽん」という名前をつけた。

 その猫に実際に会いに行く時には、頭の中ですっかりその名を呼び慣れていた。だから家に来てキャリーケースから恐る恐る猫が出てきた瞬間、僕は、ぽんちゃん、と呼んだ。初めてその名を聞いた猫は、少し不安な声で「にゃー」と言った。

 以前にも(三ヶ月くらい前の話だ)一週間だけ、二匹の猫が家にいたことがあった。オレンジのぶち模様で、すらりとした、人懐こい、かわいい猫の親子だった。でも、いろいろと噛み合わないことがあって、結局この二匹は元の飼い主のところに帰っていった。高知県から飛行機で僕が連れ帰ってきた猫だった。帰りもJALの飛行機に乗って帰っていった。父親に車を出してもらって、羽田空港の貨物エリアまで行って、キャリーを預けて見送った。

 猫を飛行機に乗せた日、僕は久しぶりに、父と二人きりでコーヒーを飲んで話をした。空港の最上階にあるカフェの窓から飛行機を眺めて、今年七十歳になる父は、ちょっと楽しそうにしていた。

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 ぽんちゃんは、前に僕の家にいた猫に比べると、そこまで人好きではない。以前の猫は、家に着いてキャリーのドアを開けた瞬間に目の前に人を見つけてすり寄ってくるような、人間が大好きな猫だった。

 ぽんは違う。怖がりな猫だ。顔にもそれが表れている。警戒心の強い顔つきをしている。家に着いてキャリーを開けると、目をまんまるく見開いて、ヤー、と鳴きながら、そっと出てきて、しばらく匂いを嗅ぎながら探検をした。そして三分もたたないうちにベッドの下にモゾモゾと隠れてしまった。

 たいていは暗がりに隠れている。ロフトに置いている荷物の隙間か、押入れの下段にある、大きい道具箱の上がお気に入りのスペースだ。どちらもちょうど猫の身体がすっぽり入る空間だ。陽光が差している間は、トイレと食事の時以外、このスペースより外に出てこない。

 今日で、ぽんが家に来てから十日が経つ。

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 ぽんがきた最初の日のこと。僕はカブにまたがり、予約した時間である朝の九時半に横浜市の動物愛護センターに向かった。愛護センターは、家からそれほど遠くなかった。家を出て二十分ほどで到着した。菅田町という少し田舎っぽい町の高台にあった。何も考えずにGoogleマップに打ち込んだ住所に辿り着いて、僕は以前にもこの施設の前を通ったことがあると思い出した。その時はバイクで配達仕事をしていた。その建物に至るまでの道沿いには古い住宅ばかりが並んでいて、昭和か、よくて平成前半ぐらいで時が止まっているような印象だ。そこにいきなり、現代的で綺麗な建物が現れる。不思議な佇まいだ。一体なんの施設だろう。宗教施設かな、と初めて訪れた時は訝しく思っていた。でも、謎が解けた。ここは方々から信徒が集まる場所ではなくて、保護された動物たちが集まるシェルターだったのだ。

 猫の譲渡のために手続きをしている最中に職員の方に聞いてみると、十年ほど前にできた、まだまだ新しい施設とのことだった。大きくて白い建物の前には、広い芝生がある。僕が行った時には、女の人が、その芝生で小さなトイプードルと一緒に遊んでいた。施設全体は木々に囲まれていた。山の中を切り開いて作ったような、自然に囲まれた場所だ。犬のしつけを学べるホールや講義を行えるスペースもある。ただ単に保護動物を収容する場所ではなかった。愛玩動物との接し方について、総合的に教育や支援を提供している施設だった。

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 以前家に迎え入れた猫がいなくなってから、しばらく「猫はいいかな」という気持ちでいた。猫のいる生活が楽しくもあり、また辟易してもいた。猫を飼うのは初めてだった。世話の方法もあまりよくわからなかった。夜鳴きをしていたり、スピーカーをチョイチョイと触って床に落としたり、上に乗ってきたりするものだから、頻繁に目を覚まし、寝不足にもなった。ワンルームに猫がいるって、なんだか大変だなと思った。それも二匹も。

 しばらく猫はやめておこう、猫カフェでも行こう、と思っていた。しかし、インターネットで猫の動画を見たり、実際に猫と触れ合ったり、友人が猫を飼い始めたりするのを見るにつけ、やっぱり家に猫がいたら楽しいのだろうな、と強く感じるようになってきた。

 そしてある日突然、僕は猫をもらってくる気になった。その時僕はカフェにいて、そこから愛護センターに電話をかけた。腰の低い、穏やかな声をした中年の男性が電話に出て、あいにく譲渡の担当が不在でして、またかけ直します、と丁寧に言われた。一時間ぐらいして電話がかかってきた時、僕はバイクで配達をしていた。配達が終わったタイミングでこちらから電話をかけると、今度は若い女性の声だった。僕は、大口商店街の脇道を入って手帳を広げ、欲しい猫の特徴や、都合のいい日を伝えていた。

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 施設に行って、まずはタヌキのような柄をした猫、つまり、ぽんちゃんを一番最初に見せてもらった。「猫の家」と書かれた、小さな小屋のような建物の中に入って右側の部屋で、そのサビネコは佇んでいた。低めのキャットタワーの箱の穴から顔を出して、こちらをじっと見ていた。

 規則で定められているらしく、白衣を着てから中に入る。こちらを見ているその猫には、怯えている様子はなかった。でも喜んでいるようでもなくて、ただこちらを見ていた。僕はゆっくりと手を近づけた。猫はより目になって、ふんふん、と指先の匂いを嗅いだ。そして半目びらきで、目を合わせてきた。さわれそうだったので、頭とほっぺたを、手の甲でそっと撫でた。猫は目を瞑って、されるがままになっていた。

 僕はその猫の頭を触った時、瞬時に、叡智と、経験の積み重ねのようなものを感じた。僕よりも何か厳しいことを経験してきた人に対峙した時のような気持ちになった。箱はL字型で、頭と反対の側も穴になっていた。その穴からは、写真で見た通り、ポンポンの尻尾がついたおしりが突き出ていた。今度はそちら側から、背中の方を撫でてみた。特にいやがる様子はなかった。背中に触った時、明らかに歳をとっていることがすぐに了解された。硬い背骨の感触がはっきりとわかる。

 僕は今まであまり老いた猫を撫でたことがなかった。触れ合ってきたのは、六歳ぐらいまでの、比較的若い猫だ。それくらいの歳の猫を撫でたり抱き上げたりした時に真っ先に感じるのは、肉の柔らかさだ。でもこの目の前の猫の身体は、どちらかというと、その人生の後半に足を踏み入れた生き物の手触りをしていた。

 そのあと僕は、もう一匹の候補だった二歳のメスの三毛猫も触らせてもらった。その猫は、最初のキジトラネコとは対照的に、元気いっぱいだった。にゃーおにゃーおと鳴き盛って、僕が手のひらから餌をあげようとすると、怒ったような声をあげて手を甘噛みしてきた。可愛いけれど、少し元気すぎるような気がした。建物を移動して、生後半年くらいまでの子猫も、何匹も見せてもらった。とても、とても可愛かった。

 子猫はすぐ貰われていくんですよ、と案内をしてくれている所長さんが言った。この所長さんは、最初に電話に出てくれた穏やかな中年男性だった。どれぐらいの頻度で譲渡希望が来るんですか、と聞いてみたら、平日なら二、三人はいらっしゃいますね、と言った。それぞれの猫の特徴についての説明を聞きながら、僕は大きなケージに入って並んでいる子猫たちを見て歩いた。そのうちの一匹に、心が通じそうな見た目をした、白黒の子猫もいた。ああ、この猫だったら、きっと僕と仲良くなるだろうな、と思った。それは明らかな直感だった。

 でも僕は、さっきの所長さんの言葉を思い出した。きっとこの猫も、すぐに貰われていくのだ。そして、それが僕でなくてもいいような気がした。もちろん、とても可愛いかった。小さくて、まんまるで、好奇心いっぱいの目をしていて、とんでもなく愛くるしかった。今すぐ連れ帰って、おもちゃで一緒に遊び、ちゅ〜るをあげたいなと思った。

 でもこの子だったら、どこに行ったって愛されるだろうと思った。

 僕はもう一度、「猫の家」にいるさっきのサビネコ、触ってもいいですか、と言った。所長さんも、譲渡担当のお姉さんも「もちろんです、長い付き合いになりますからね、どうぞゆっくり選んでください」と言った。僕は再び猫の家に戻り、右側にいるサビネコに声をかけながら、部屋に入っていった。そして再び、背中を触ってみた。やっぱり、年老いた手触りだった。猫は、特に何も反応しなかった。

 僕は一体、猫に何を求めているんだろう?

 最後の決断をしようと思って、不意に、猫を家に迎える明確な理由がよくわからなくなった。ただ、猫が欲しい、という思いで僕はここに来た。愛くるしい動物を自分に懐かせたいんだろうか。それとも、仲間が欲しいんだろうか。それとも、他の理由なんだろうか。よくわからなかった。

 猫を選ぶための明瞭な基準なんて、特になかった。

 僕はもう一度、今度は猫の頭を撫でた。

 猫は、おとなしかった。

 「この猫にします」と僕は言った。所長さんは、「そうですか、とてもありがたいです、どうもありがとうございます」と、頭を下げた。キャリーに入れて持っていきますので二階で手続きをしていてください、と言った。僕はお姉さんと一緒に階段で二階に上がって机の前に座り、書類を読み、サインをした。手続きが終わる頃に、所長さんが猫の入ったキャリーを持ってきてくれた。よいしょ、と持ち上げてから、机にそっと置いた。「おい、よかったな」と所長さんは言い、窓になっている部分をコツンと叩いた。猫は少し不安げな声で「らーお」と言った。

 僕は嬉しかった。キャリーの蓋に頭を押し付けて外を眺めている猫を見て、笑顔になった。僕はさっきこの猫を触った時の手触りをもう一度思い出していた。これからこの猫と一緒に暮らすんだ。

 僕はお礼を言って、建物を出ると、カブのエンジンをかけた。

 こうして僕の家に、キジトラ猫のぽんが住むことになった。

(キジトラネコのぽん 2 に続く。  2022年9月10日

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