2022年9月29日木曜日

全部やる日記 11

 僕はどうにも、いつも何かを焦っている、という感覚が拭えなくて、これはでも、原因もはっきりしていて、つまり何かを生み出したい、という焦りなのである。そのくせ、怠けること、というか、今やりたいと思ったことをすぐに実行に移すことが大好きなので、持続性のあるアクションからしか生まれないものというのを生み出すことができなくて、何かを継続して修練して、ちゃんとみんなから認められ、お金になり、楽しそうにしている他の人を見ると余計に焦る、という構造なのである。僕は自分の中で起きているこの構造自体に気づいているんだけど、でもそれをうまい向きに方向づけてやることができずにいるのである。
 僕は今、いつもの桜木町のスターバックスに来て、文字起こしを延々やっている。もちろん断ることだってできるんだけど、でも僕はなんとなく、来た仕事は全部受けるのが好きなのだ。それに、これを断ったところで、他にお金を稼ぐ道を今のところ持ち合わせているわけでもないし、終われば達成感があるのでやっている。配達仕事は、際限がない気がして、(ま、早い話飽きて)配達車両を自転車に切り替え、時々運動がてらやるぐらいでいいや、と思っている。自転車に切り替えて一週間経つが、一回もやっていない。
 とにかく、俺は全然本質的なことを進められていないなぁ、という焦りがある。これが焦りであるうちはいいんだけど、段々とこれが落ち込みに変化していくこともまた僕は知っていて、だからそうなる前に、何か、前に進むことでこれを上書きしないといけない。
 さて、ここで僕がぶつかっている難しさとは何か。この「文章を書きながら何かを探る」という作業も、いわば現実逃避なんだけど、でもそれはただ画面を見て、スクロールしてどうでもいい動物の動画とかよくわかんない芸人の動画とかを見てぼーっとしているよりは幾分マシか、ぐらいに思って、とりあえずやってみる。
 僕は、何かハッと目が覚めるような発見をいつでもしていたいと思っている。それは、外部の世界に見つけるというよりは、今までに行ったことがないようなところに行きたい、という欲ではあるものの、何か自分の内部から出てきたものに「なんてものが出てきたんだろう、すごいな」とびっくりしたい、ということである。そのためには、自分がしていることに、いつだって量と、質が伴っていないといけないんだけど、どちらが先立つか、と言えば量であろう。だから、最近少し停滞気味だけど、僕は毎日のように絵を描いているわけである。さっき、いつも絵を描くためのハガキ大のケント紙を入れている箱を見たら、かなり満杯に近くなっていた。思えば、休止していた期間はあるが、ほぼ二年間、毎日のように絵を描いている。だから、そりゃあいっぱいになるはずなのだ。数えてないけど、500枚以上にはなっただろう。
 でも、だ。僕はこれによって、何かが進歩していると思えない。本気でやる人はこの100倍以上やっているだろう。
 僕はどうしたら進歩をするのか。絵の教室に行ったらいいのか、デッサンのワークショップでも受けたらいいのか。
 もちろん、すでに確固たる技術を持った人に習いにいけば、そりゃあ技術は上がるんだろうけど、僕は何か、それは結局「きっかけづくり」に過ぎなくて、自分自身が納得するような絵を描くには、やっぱり最終的には自分が部屋にこもって、絵を描くしかないじゃないか、と思っている。だから、だったら最初っから「人に習う」という工程をすっ飛ばして、他人のきっかけ待ちをせずに、自分でバシバシ見つけたいものを見つけて行ったらいいんじゃないか、と思うんだけど、でも、それも難しいのだ。
 なんで難しいか、それは、怖いからだ。何度も書いていることだけど、僕は、明らかに「これをやらないとダメだ」と論理的に頭でわかることがあっても、それを始めることを躊躇してしまうクセがある。それはなぜかといえば、やるべきことの量があまりに膨大であることに気がついて、そして、もう手遅れである、ということに気がついてしまうのが怖いからである。
 これは仕事にも言える。1分でも早く始めれば1分早く終わることを、そのなすべきことの量の膨大さに気づいてしまうことが怖くて、結局やらずにどんどん先延ばしにしてしまうのである。
 僕はこの文章、つまりこの日記を書き始めるのにも、ずいぶん決心が必要だった。それは、僕は今文字起こしをしなければならないからだし、文字起こしの期限はほとんどが明日までで、その分量があと音声で3時間分くらい残っているので、これはやっぱり、今頑張ってやらないと終わらないからである。そして、まぁ、別に明日に回してもいいんだけど、これを後回しにしてしまうと、他の、僕が受けもっている、5個だか6個だか7個だか、自分でもいくつあるのかわからない仕事群をやることが後回しになることも意味していて、そうするとますます僕は、その他のことをする時間がなくなるであろうことを恐れて、それで、とりあえず文字起こしを、その恐怖から逃れるためのせめてもの現実逃避として、やる、というようなところがある。
 ここでまた思いを馳せる。じゃあ、文字起こしをスッキリやらないでいいや、一旦、これは断って、自分がもっと打ち込みたいと思っている創作の方をやろう、と思ったとして、僕は果たして集中できるのだろうか、ということである。
 多分僕は集中できず、なんだか悶々としてなんとなく手近にあるものを消費し、本を読んだりケータイを見たり、猫を観察してりして過ごし、それで中途半端な時間だけをそれにかけて、結局何も成さないだろう。これもわかっているのだ。もう30年生きてきて、このようなことは何十回もくり返しきたからすぐにわかる。僕はあんまり自分の人生にこれ以上の期待ができないような状態でもあるのだ。けど、野望は、それこそ1時間に一つ、いや、もっと頻繁に、現れては消える。素敵な家に住んで、面白いことをいっぱいやりたいぞう、と。その具体的な中身が、1日ごと、半日ごと、いや、1時間、いやいや、5分ごとに、本当に違うんである(これって、でも、きっと多くの人がそうなんだろうな)。そして、ああ、でも今目の前のことやるしかないんだよ、と、このように、毎日堂々巡りをしている。
 いつだって、何も考えずに、ただ行為の中に没頭できたらいいのに、と思う。そのためには何が必要なんだろうか、と僕はそのことばかり考えている。さっさと、本質的な、行為の方に没頭したいのだ。 
 そのためにはやっぱり、内容なんてなんでもいい、質なんてどうでもいい、と思うことがまず大事なのだ。現にこの文章は、もう前後の論理も、脈絡も、誤字脱字も、論旨も、読みやすさも、親切さも、読ませたい相手も、なんもかんも、とにかく意識なんかしないで、ただ何かをキーボードを打って画面に焼き付けるという行為にだけ没頭したいという思いを具体的な形にするためだけに行っている。ここまで書くのに、10分もかかっていないのだ。
 僕はこれぐらいの勢いで、自分の本だって書けたらいいのに、と思っている。どんどん作品を生み出して、読者も追いつけないぐらいのスピードで、ものをたくさん生み出して、でも読んだら面白いものを書けたらいいのに、と思っている。
 なんだか、今までまともなものを全然生み出してないじゃないか、みたいな気分になることだって、あるわけだけど、でも、そう言っている間に、いや、こういうふうに思った、ということをこうして文字にして書くとか、あるいは漫画にしてもいいし、絵にしてもいいし、なんらかの別のものに昇華することでそれは何か人に触れてもらえるものになる、ということもまた真実である。
 「失敗と、それによる無駄」を極度に恐れている自分がいる。

 ※※※

さびねこのぽんが、少しずつ家に慣れてきているのがわかる。と同時に、なかなか慣れてくれないな、という焦りもある。なにしろ、以前うちにきた猫が、きた初日からお腹をみせてゴロンゴロンするような甘えた猫だったので、ついついそっちの方を基準にして、考えてしまうのである。
 家に帰ると、ぽんは、トコトコと隠れている場所から出てくる。ロフトの上にいたのならば、僕が玄関から部屋に入るや否や、とこん、とこんと梯子を降りてきて、こっちを伺いつつ下にくる。押入れにいたのならば、どどん、と物入れの上から降りてくる音がして、隙間からそっとこちらを伺いながら出てくる。そして、梯子や机に頭突きをしつつ、僕の足にもちょっとスリッとして、周りをぐるぐると歩き始める。餌が欲しいのかなぁ、と思って餌をあげる。食べる時もあれば食べない時もある。ぽんは、比較的カリカリを食べてくれる方だ、と思う。でも、ウェットフードをあげると特に喜ぶ。最近は、ウェットのおいしさに味をしめてしまったようで、カリカリをあんまり食べてくれないことも多い。それか、最近カリカリの種類を変えたので、それがいけないのかもしれない。
 そして初めのうちは、顎や額をなでなですると目を瞑ったりして少しは気持ちよさそうなのだが、それもしばらくすると、体に触ると「むっ」とした表情をするようになる。
 それでももう一回触ろうとすると、ぶんと前脚を振りかぶって、シャー、と威嚇してくる。
 僕はそれが怖くなってしまって、最初のうちはあまり気にせずワサワサと触っていたのが、だんだん迂闊に触れなくなってしまった。
 これはこれで、いいところに落ち着いたということなんだろうけど、僕としてはやっぱり寂しい、というか、少し悲しい気持ちになる。すぐそばにいて、毛繕いなんかしてくつろいでいるんだけど、なんだか僕はその猫に嫌われているんだろうか、という気分になってしまうのだ。
 もちろん、本当は嫌われていないのも知っている。昨日だって、そう、昨日は初めて、夜中に、呼んでもいないのに、僕が寝ている間、よっこいしょとベッドの上に上がってきて、足元で丸くなって寝ていた。むしろ、この猫は僕のことがどっちかというと好きな方なんだと思う。でも、やっぱり、時々は本気で殴られて、威嚇される、ということに、なんだか悲しさ、憤りを感じるのだ。普通こういうことってちょっと言いづらいと思うんだけど、僕はこれを吐露する相手がほとんどいないし、素直に感じたことを書くことが大事だろうと思うから、書いておく。こういう思いをする人だって、いっぱいいると思う。
 社会的に「こういう態度が望ましい」とされる(と、少なくとも自分が思っている)ものから無言で受ける圧力は、誰か他の人も、実は同じように感じていたんだ、とただ知ることですぐに解消するものだったりする。
 そして、自分なりの明るさに再び向かって行けたりする。
 ああ、僕はもっと自由になりたいな。

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