2022年9月11日日曜日

全部やる日記 1

僕は日記を書くことで、自分を励ましている。僕が欲しいのは仲間である。思いついたことを気楽に吐き出せる相手を探している。でもそれは別に相手が人でなくてもいいので、むしろ人でない方がいいのだとすら思う。猫でもいい。こうして、日記でもいい。僕はいつでも何か書きたいことはあって、でも書けない、ということがたくさんある。それについて僕は何度も書いてきているんだけど、つまりそれは、質ばっかり気になってしまっているときに、何も書けなくなる。質が悪いものを作ってはいけない、という気持ちに邪魔をされて何も作り出すことができない、ということが起きている。

文章を書くときには、肩の力を抜いて、スーと流れるような書き方をしている方が、明らかに気持ちがいい。気持ちよく書けていれば、別にその文章自体が後でどうなろうとどうでもいいじゃないか。そういう文章があっていい。それとは別に、今取り組みたいと思っている文章も、別で書いたらいい。むしろ、そういうふうにして、一つ何かを達成した、と思えると、人は心からの自信を手にして、もう一つのことも勢いでやっちゃえるようにできている。だから1日の初めに何かを達成するのは大事だ。今日はもう10時半になってしまったけど、こうして1日を、何か好きなように文章を書く、という経験で始めるのはいいことだろう、と思っている、それがどんな質のものでもいい。ただ、何かを書いて発表する、という一連の流れに意味がある。ラジオ体操と一緒である。ただそれで1日を始める、ということ。それによって、次の行動がとてもスムーズになるのだ。絵を描くことだって一緒である。意味なんかないし、それが成果につながらないといけないわけではない。成果につなげたいと思っていることは、それとはまた別にやる、ということで何かが本気で生み出される、という気もしている。日課のようなものには、他人から見た時の面白みがなくたっていい。

まぁ、ラジオ体操を見るのも時々は面白いし、そこにいくといつもラジオ体操をやっている、ということが人を励ますことだってあると思う。

どうも僕は、「本当は優先順位としては一番にやらなければいけないことがあり、真っ先にそれをやらねばならないのだが、二番目、三番目にやりたいこともあって、むしろそちらの方が断然、やりたいことである」という状況に弱い。そういう状況に陥ると、一応、一番にやりたい方をやり始めるのだけど、結局二番、三番がやれていないということが気になってしまって、一番にも集中できない、そして二番目三番目もどんどん放置されていく、という状況になる。いいことがない。

邪魔しているのはいつでも恐れだ。恐れさえなければ、何かを作ることは無限の楽しみを提供してくれるはずで、でも恐れがない、という状況は待っているだけだと訪れない。それで、システマチックに何か、自分で仕組みを構築するしかない。つまり、擬似的に「恐れがない時間」を作り出すしかない。

僕は今、この日記とは別で、最近うちにきた猫についての文章を書いている。一体それがどこに向かうのかはよくわからないし、まだまだ僕はそういうふうに、文章を書いてそれをまとめる、最後に本にする、という作業には慣れていないので、手探りであるのも仕方がないことである。とりあえず何も考えずに技を繰り出してから、徐々にそれを、実際の現実に適応させていく、というのが僕のいつものやり方である。ゲームをしていたって、僕はいつもそうだ。考えて考えて、適切な一手を打つ、ということができない。とにかくトライ&エラーを膨大な量こなして、なんとか先に進んでいく、というやり方で進んでいる。だから、細かく行き届いた技術を身につけるのは苦手である。でもそれが僕である。あまり小賢しくやることができない。ただ愚直だ。というより、愚かだ。ノリで押し切ることしかできない。でもまずそこを認めるところからしか始まらない。下手だし、つまらないし、ただ欲望しかないけれど、でもそれでいい。何も期待しない。ただ、快感に従って動くことだけは、自分に嘘をつかない。反射神経で動く。動いた中から、技術を抽出していく。パターン認識をする。それが僕の学び方である。外国語で体験してきたのも、多くは、そういうことであるかもしれない。たくさん聞いていたら、意識的に解ろうとする前に、わかられていく。とにかく、飛び込んでいくしかない。わからないところに飛び込んで、そこで1年でも2年でも5年でも10年でもいい、もがいているうちに滑らかになる。でも何でもかんでも、ひとまずは、全然うまくいかない、とショックを受けるところから始まる。でもそれを楽しめているかどうかが、続くかどうかの分かれ目だ。自分の才能なんていうものに微塵も自信を持ってはいけないが、適応能力には自信を持っていい。適応することができる、ということは、これまでの30年間において、僕は身体をもって知っている。

とにかく、恐れを捨てて、評価されることから外れて、自分が書きたいという気持ちだけをぶつけた文章がある、ということ。そんな絵がある、ということ。そしてそんなジャグリングもある、ということ。そこから、徐々に「それ以外」を見つけていく。初めからうまくやろうとしないこと。そして初めを過ぎても、永遠に、うまくやろうとしないこと。

うまくいく時は、どうせわかる。ああ、これはうまくいくな、と確信があるときに、ここ一番の集中力を出してその目標を捉えるようにすれば、必ずうまくいく。でも、その時までは極めて適当でいい。むしろ、適当でないと、つまり他者から見た評価を一旦脇においておかないと、そこに辿り着かない。「作りたい」のならば、とりあえず大半を駄作として切り捨てるつもりで、つくるという行為に埋没しながら、その中で光明を探すのみである。海に潜りたいのならば海に潜る。危険なところに行ったら、察知する能力がある。恐れを感じない範囲を広くしていきたいのならばまず飛び込む。

僕は今でも、時々自分でお金を稼いでいることが、ふと、子供の頃の自分から見たら、随分と立派なことに見えるんだろうな、と思うことがある。こうして僕も成長してきたのだ。でもそれは特別頑張ったのではなくて、勝手にそういうふうになっていった。幼いとき、僕は両親にずっと頼りっぱなして、自分で自分のお金を稼ぐなんていうことは微塵も考えていなかった。本当に成長している時、その瞬間は自分ではわからない。状況に対応しようと、身体が自然に組成を変えて、それは、単に肉体的な身体ということだけではなくて、精神も含めた身体が、適応していってくれる。それが自然な成長というものである。だから、あまり考える必要はない。本当に考える必要がある場面では、身体は自然に考えてくれる。それを信じる、ということが飛び込むということだ。一発で正解を出せると思っていることの方が思い上がりなのである。

文章を書くことに関して僕がよいと思う部分は、聞き手を必要としないこと。聞き手がいると、自分が言いたいことをフルで言うことはできない。まれに、自分が言いたいことを素で全部言えるようなパートナー、のような人に会うことだってないではないが、それでも、いつでも、話を聞いて欲しい瞬間にそこにいるわけではない。いないことの方が圧倒的に多い。

僕は、人と話をしていて、もちろんその人の話が面白いことだってあるのだが、自分の考えていることを知りたいとも思っている。それを線上に並べて、一体自分がどういう存在であるのか、ということを外部的な刺激に変換して、それを味わいたいと思っている。それが互いに満たされているときに、互いを仲間だと思えるような感じがする。そういう意味で、僕は仲間が欲しい、自分がよくわかるような面白い仲間が欲しい、と思ってもいるし、逆に、別に仲間なんか、関係ない、ここで一人で自分に対峙することが一番の表現だ、とも思う。

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