2022年9月29日木曜日

全部やる日記 11

 僕はどうにも、いつも何かを焦っている、という感覚が拭えなくて、これはでも、原因もはっきりしていて、つまり何かを生み出したい、という焦りなのである。そのくせ、怠けること、というか、今やりたいと思ったことをすぐに実行に移すことが大好きなので、持続性のあるアクションからしか生まれないものというのを生み出すことができなくて、何かを継続して修練して、ちゃんとみんなから認められ、お金になり、楽しそうにしている他の人を見ると余計に焦る、という構造なのである。僕は自分の中で起きているこの構造自体に気づいているんだけど、でもそれをうまい向きに方向づけてやることができずにいるのである。
 僕は今、いつもの桜木町のスターバックスに来て、文字起こしを延々やっている。もちろん断ることだってできるんだけど、でも僕はなんとなく、来た仕事は全部受けるのが好きなのだ。それに、これを断ったところで、他にお金を稼ぐ道を今のところ持ち合わせているわけでもないし、終われば達成感があるのでやっている。配達仕事は、際限がない気がして、(ま、早い話飽きて)配達車両を自転車に切り替え、時々運動がてらやるぐらいでいいや、と思っている。自転車に切り替えて一週間経つが、一回もやっていない。
 とにかく、俺は全然本質的なことを進められていないなぁ、という焦りがある。これが焦りであるうちはいいんだけど、段々とこれが落ち込みに変化していくこともまた僕は知っていて、だからそうなる前に、何か、前に進むことでこれを上書きしないといけない。
 さて、ここで僕がぶつかっている難しさとは何か。この「文章を書きながら何かを探る」という作業も、いわば現実逃避なんだけど、でもそれはただ画面を見て、スクロールしてどうでもいい動物の動画とかよくわかんない芸人の動画とかを見てぼーっとしているよりは幾分マシか、ぐらいに思って、とりあえずやってみる。
 僕は、何かハッと目が覚めるような発見をいつでもしていたいと思っている。それは、外部の世界に見つけるというよりは、今までに行ったことがないようなところに行きたい、という欲ではあるものの、何か自分の内部から出てきたものに「なんてものが出てきたんだろう、すごいな」とびっくりしたい、ということである。そのためには、自分がしていることに、いつだって量と、質が伴っていないといけないんだけど、どちらが先立つか、と言えば量であろう。だから、最近少し停滞気味だけど、僕は毎日のように絵を描いているわけである。さっき、いつも絵を描くためのハガキ大のケント紙を入れている箱を見たら、かなり満杯に近くなっていた。思えば、休止していた期間はあるが、ほぼ二年間、毎日のように絵を描いている。だから、そりゃあいっぱいになるはずなのだ。数えてないけど、500枚以上にはなっただろう。
 でも、だ。僕はこれによって、何かが進歩していると思えない。本気でやる人はこの100倍以上やっているだろう。
 僕はどうしたら進歩をするのか。絵の教室に行ったらいいのか、デッサンのワークショップでも受けたらいいのか。
 もちろん、すでに確固たる技術を持った人に習いにいけば、そりゃあ技術は上がるんだろうけど、僕は何か、それは結局「きっかけづくり」に過ぎなくて、自分自身が納得するような絵を描くには、やっぱり最終的には自分が部屋にこもって、絵を描くしかないじゃないか、と思っている。だから、だったら最初っから「人に習う」という工程をすっ飛ばして、他人のきっかけ待ちをせずに、自分でバシバシ見つけたいものを見つけて行ったらいいんじゃないか、と思うんだけど、でも、それも難しいのだ。
 なんで難しいか、それは、怖いからだ。何度も書いていることだけど、僕は、明らかに「これをやらないとダメだ」と論理的に頭でわかることがあっても、それを始めることを躊躇してしまうクセがある。それはなぜかといえば、やるべきことの量があまりに膨大であることに気がついて、そして、もう手遅れである、ということに気がついてしまうのが怖いからである。
 これは仕事にも言える。1分でも早く始めれば1分早く終わることを、そのなすべきことの量の膨大さに気づいてしまうことが怖くて、結局やらずにどんどん先延ばしにしてしまうのである。
 僕はこの文章、つまりこの日記を書き始めるのにも、ずいぶん決心が必要だった。それは、僕は今文字起こしをしなければならないからだし、文字起こしの期限はほとんどが明日までで、その分量があと音声で3時間分くらい残っているので、これはやっぱり、今頑張ってやらないと終わらないからである。そして、まぁ、別に明日に回してもいいんだけど、これを後回しにしてしまうと、他の、僕が受けもっている、5個だか6個だか7個だか、自分でもいくつあるのかわからない仕事群をやることが後回しになることも意味していて、そうするとますます僕は、その他のことをする時間がなくなるであろうことを恐れて、それで、とりあえず文字起こしを、その恐怖から逃れるためのせめてもの現実逃避として、やる、というようなところがある。
 ここでまた思いを馳せる。じゃあ、文字起こしをスッキリやらないでいいや、一旦、これは断って、自分がもっと打ち込みたいと思っている創作の方をやろう、と思ったとして、僕は果たして集中できるのだろうか、ということである。
 多分僕は集中できず、なんだか悶々としてなんとなく手近にあるものを消費し、本を読んだりケータイを見たり、猫を観察してりして過ごし、それで中途半端な時間だけをそれにかけて、結局何も成さないだろう。これもわかっているのだ。もう30年生きてきて、このようなことは何十回もくり返しきたからすぐにわかる。僕はあんまり自分の人生にこれ以上の期待ができないような状態でもあるのだ。けど、野望は、それこそ1時間に一つ、いや、もっと頻繁に、現れては消える。素敵な家に住んで、面白いことをいっぱいやりたいぞう、と。その具体的な中身が、1日ごと、半日ごと、いや、1時間、いやいや、5分ごとに、本当に違うんである(これって、でも、きっと多くの人がそうなんだろうな)。そして、ああ、でも今目の前のことやるしかないんだよ、と、このように、毎日堂々巡りをしている。
 いつだって、何も考えずに、ただ行為の中に没頭できたらいいのに、と思う。そのためには何が必要なんだろうか、と僕はそのことばかり考えている。さっさと、本質的な、行為の方に没頭したいのだ。 
 そのためにはやっぱり、内容なんてなんでもいい、質なんてどうでもいい、と思うことがまず大事なのだ。現にこの文章は、もう前後の論理も、脈絡も、誤字脱字も、論旨も、読みやすさも、親切さも、読ませたい相手も、なんもかんも、とにかく意識なんかしないで、ただ何かをキーボードを打って画面に焼き付けるという行為にだけ没頭したいという思いを具体的な形にするためだけに行っている。ここまで書くのに、10分もかかっていないのだ。
 僕はこれぐらいの勢いで、自分の本だって書けたらいいのに、と思っている。どんどん作品を生み出して、読者も追いつけないぐらいのスピードで、ものをたくさん生み出して、でも読んだら面白いものを書けたらいいのに、と思っている。
 なんだか、今までまともなものを全然生み出してないじゃないか、みたいな気分になることだって、あるわけだけど、でも、そう言っている間に、いや、こういうふうに思った、ということをこうして文字にして書くとか、あるいは漫画にしてもいいし、絵にしてもいいし、なんらかの別のものに昇華することでそれは何か人に触れてもらえるものになる、ということもまた真実である。
 「失敗と、それによる無駄」を極度に恐れている自分がいる。

 ※※※

さびねこのぽんが、少しずつ家に慣れてきているのがわかる。と同時に、なかなか慣れてくれないな、という焦りもある。なにしろ、以前うちにきた猫が、きた初日からお腹をみせてゴロンゴロンするような甘えた猫だったので、ついついそっちの方を基準にして、考えてしまうのである。
 家に帰ると、ぽんは、トコトコと隠れている場所から出てくる。ロフトの上にいたのならば、僕が玄関から部屋に入るや否や、とこん、とこんと梯子を降りてきて、こっちを伺いつつ下にくる。押入れにいたのならば、どどん、と物入れの上から降りてくる音がして、隙間からそっとこちらを伺いながら出てくる。そして、梯子や机に頭突きをしつつ、僕の足にもちょっとスリッとして、周りをぐるぐると歩き始める。餌が欲しいのかなぁ、と思って餌をあげる。食べる時もあれば食べない時もある。ぽんは、比較的カリカリを食べてくれる方だ、と思う。でも、ウェットフードをあげると特に喜ぶ。最近は、ウェットのおいしさに味をしめてしまったようで、カリカリをあんまり食べてくれないことも多い。それか、最近カリカリの種類を変えたので、それがいけないのかもしれない。
 そして初めのうちは、顎や額をなでなですると目を瞑ったりして少しは気持ちよさそうなのだが、それもしばらくすると、体に触ると「むっ」とした表情をするようになる。
 それでももう一回触ろうとすると、ぶんと前脚を振りかぶって、シャー、と威嚇してくる。
 僕はそれが怖くなってしまって、最初のうちはあまり気にせずワサワサと触っていたのが、だんだん迂闊に触れなくなってしまった。
 これはこれで、いいところに落ち着いたということなんだろうけど、僕としてはやっぱり寂しい、というか、少し悲しい気持ちになる。すぐそばにいて、毛繕いなんかしてくつろいでいるんだけど、なんだか僕はその猫に嫌われているんだろうか、という気分になってしまうのだ。
 もちろん、本当は嫌われていないのも知っている。昨日だって、そう、昨日は初めて、夜中に、呼んでもいないのに、僕が寝ている間、よっこいしょとベッドの上に上がってきて、足元で丸くなって寝ていた。むしろ、この猫は僕のことがどっちかというと好きな方なんだと思う。でも、やっぱり、時々は本気で殴られて、威嚇される、ということに、なんだか悲しさ、憤りを感じるのだ。普通こういうことってちょっと言いづらいと思うんだけど、僕はこれを吐露する相手がほとんどいないし、素直に感じたことを書くことが大事だろうと思うから、書いておく。こういう思いをする人だって、いっぱいいると思う。
 社会的に「こういう態度が望ましい」とされる(と、少なくとも自分が思っている)ものから無言で受ける圧力は、誰か他の人も、実は同じように感じていたんだ、とただ知ることですぐに解消するものだったりする。
 そして、自分なりの明るさに再び向かって行けたりする。
 ああ、僕はもっと自由になりたいな。

2022年9月25日日曜日

全部やる日記 10

 今週はほとんど、テニスの国際大会の手伝いをしていた。友人からの誘いで引き受けた。賞金を受け取りにくる選手たちに領収書を渡すだけの業務なんだけど、これが楽しかった。余った時間は、機材クルーの外国人から来たトラブル対応や、雑用係として会場を行ったり来たりしていた。僕はこうして現場で身体を動かすことが好きだ。そして、そこに窮屈さがない、ということがとても大事。規制の多いところにいると途端に悲しくなる。バッタみたいに、ぴょこん、ぴょこんとホップステップで移動して、違うところで仕事をしているのが好き。
 同時期に、3連休でジャグリング大会のJJFをやっていた。2007年に初めて参加してから、参加者としてだったり、海外ゲストのアテンドをしたりで密接に関わっていた時期もあった。今年は広報の翻訳業務という形で遠隔的に携わっているだけ。行ったら仲のいい人や、しばらくぶりの人にも会えるし、楽しいであろうことはわかっている。でもなんとなく今年はいいかなと思って、最終日に行こうと思えば行けたけれど行かなかった。それよりは、もっと個人的に仲のいいジャグラーとじっくり話をしたり、楽しいことをしたい。別にジャグリングをしなくてもよい。自分の中で何かが熟成される気配を感じるのが好き。
 そんなわけで今日は桜木町に行って、無印良品で少し秋服を揃えた。そのあと市役所のお気に入りのスターバックスに仕事をしに行ったが、連休だったこともあって座れず。結局妙蓮寺に戻る。野毛では、大道芸イベントもやっていたみたいだけど、それも行かずに帰ってきた。見たら楽しかったのだろう、それも知っている。懐かしい人にも会える。でも、なんとなくそういう気持ちにならなかった。
 大規模にジャグラーと交流するのは、年に一回、EJCに行くぐらいでいいかなと思っている。あんまり公演を見る気にもならない。なんでだろう。僕はそれこそ数年前まで、それなりの数の公演を見ていたけれども。僕は今、小さい規模で、本当に気の合う人たちだけで一緒に海でも眺め、ビールでも飲みながら話をする、というのがやりたい。やるならそれくらいでいい。レベルの高いジャグリングを見たい、という欲があんまりない。
 自分が心地の良い生活圏を維持することに興味がある。何か自分なりに納得できるものを生み出すまでは、あまり多くの人に会いたくない、ということもある。
 インターネットで情報が洪水のように流れてくる状況にも、やっぱり時々辟易する。
 普段生活をしているだけで、僕は初対面の人とどんどん話してしまう。あまり新しい出会いを特別なところで求めてもいない。もっと内面を向く時間を増やした方がいい、という自分なりの、身体からの指令なんだろう。あんまり波風を立てたくない、とも思っている。僕は今まで、あまりにもたくさん、人と関わりすぎてしまったと思っている。関わる分だけ、たくさんいい思い出も、悪い思い出もあって、それを処理しきれないでいる。
 どこか静かなところで隠遁しながら、時々、全然関係ない文脈のところで元気に跳ね回って、また帰っていく、というのがいいな。

2022年9月19日月曜日

全部やる日記 9

 朝から天気が悪く、タリーズには行かず。 家で文字起こしの仕事を進めようとするのだが、とんでもなく眠くて、ほとんど進まない。空気に押しつぶされるような感じがする。猫もなんだか落ち着きがなく、ロフトに登ったり降りたりを繰り返している。断続的に仕事をしながら、途中、耐えきれずベッドに突っ伏して、気づいたら一時間ほど寝ていた。
 このままでは一日が終わってしまう、と思って、猫を置いてとりあえず家を出る。みなとみらいまで行こうと思ったが、生活綴方に寄ったら、話したい人たちがいたので、少し話をして、それから結局綴方の本屋の二階で仕事をしていくことにした。
 小指さんの新作『人生』を買う。本を買うのは嬉しいね。
 猫をどうにかして慣れさせたいなぁ、と思っている。やっぱり、逆にしばらくかまわない方がいいのかな、と思う。餌だけ、自分の手から上げて、美味しいものをいっぱいあげて、あとは放って置いて、向こうの方からくるのを待ったらいいかもしれない。
 ぽんちゃんは自分が思い描いていたような猫ではなくて、でもそれは動物だから当然で、いや、もう少し僕も考えて連れてくることもできたのだろうけど、でももう過去に戻ることはできないし、ただ僕は今の状況を受け入れて、ここからどういうステップを踏んでいくと面白い、穏やかで幸せでいい感じになりそうか、ということだけを考えている。
 一度部屋の隙間を塞いでみて、あまり隠れられないようにしてもいいのかもしれない、と思っている。それで、ちょっとずつ距離を縮めてみる。焦らない、焦らない。

2022年9月18日

2022年9月18日日曜日

全部やる日記 8 

 朝はやっぱりタリーズへ。のそのそと起きる、という感じ。のそのそ。スッキリ、でもパッと、でもなく、のそのそ。眠気が頭から離れない。家が悪いのか? 僕は今なんだか引っ越しがしたい。僕が悪いのか? 日当たりが悪いせいか? なんとなく、壁から漂う匂いがいけないのかもしれない。なんだろうね。ベッドが悪いのか?
 僕はとにかく解放感がない場所にいると鬱々とする。そりゃあみんなそうだ、当たり前だと思う。でもそうじゃない人もいるのかもしれない。窓なんか最小限でいい、暗いところで一人作業をしている方が落ち着く、という人もいるのかも。
 とにかく、そう長くない人生だから、なるべく居心地の良い場所で過ごしたいと思う。
 でも僕はこういう時に、今まで、「いい方向への変化」をなるべく早急に、と焦っていたけど、それもやめようと思っている。特に、お金と手間がかかることに関する決断をするには、慎重すぎるくらい慎重でもいい、と思っている。どうせ、本当にいい決断の時にはそれがすぐわかるだろうからだ。ちょっと無理して変化の方に行こうとして、失敗ばかりしてきた。変化したい、と思ったら、本当に大きな、本気の変化のために、黙って知恵と資金を貯めておくのが正解だろう、と僕は思っている。
 昼までタリーズにいて、急に思いついて席を立って浅草に行く。展示を見に。同世代の作家・荒牧悠さんの、「荒牧 悠 "こう (する+なる)” ― phenomenal # 02」。Twitterで少し話題になっていて、見ておいた方がいいような気がして、見ることを決めたら、予約を取ってその2分後に電車に乗った。
 浅草駅から結構歩いた。久しぶりの浅草駅は、人が多くて少し落ち着かない雰囲気だった。人力車がたくさんいた。まるでそれが主要な交通手段であるかの如く、人を乗せた大きなリヤカーが道を走り回っていた。
 展示では、荒牧さんと話した。一時間ほど滞在して、細かい話までたくさん聞いた。ジャグリングの話もした。荒牧さんがディアボロも買ってみて試した、ということを聞いて、すごい実験精神だなと思った。
 展示自体すごく良かった。こういう風に心地のいい空間は、とても好きだなと思った。家もこれぐらい心地がよかったらいいんだけど。

 展示だけ見て、僕はあんまり人混みが好きじゃないし、休みの日の東京なんてのは特に好きじゃないので、さっさと帰ってきた。ちょうどピッタリのタイミングで待ち合わせをしていたLさんと会った。白楽の中華を食べながら、仕事の打ち合わせをした。帰り、もう少しだけ話そうかな、という気になって、カフェ居酒屋のにゃらやに一緒に行った。一周年だ、というので、日本酒をふるまってもらった。シンクに皿が溜まっていたので、その皿も洗った。
 後で思い出したけど、僕がお酒を飲んでいるその間に、白楽ではドッキリヤミ市というイベントをやっていて、ギリヤーク尼ヶ崎さんも来ていたのだった。見にいけばよかった、としばらく後悔したが、こういう「あれをやっておけばよかった」という後悔に耐性をつけたい。「逃したもの」については考えなくていい。今持っているものと、これから持ちたいものについてだけ、それを少しでも良くしていこう、と考えるだけでいい。今の状況から、どっちに足を向けたらより良い方に行くのか。そういうことを考える。ただ、自分が今何を目指して進んでいるのか、それをしっかりと見据えよう、という気でいる。

 結局、外で起きていることを一切無視して、僕は家で文字起こしをして、少しだけ本の執筆を進めた。
 書き方について少し何かが見えた。これを待っていた。僕は、文章のための文章じゃなくて、状況を思い浮かべて、ただそれを描写していって話をするのが得意、というか、それがやりたいことで、一番ワクワクすることだったんだ、と思い出した。僕は漫画を描きたかった。それを文章でやりたいと思っている。
 読んだ人からの感想も時々もらうんだけど、早く続きが読みたい、と言ってくれる。素直に、僕は別に「本質的なこと」とか書かなくていいから、面白いものを書けよ、と自分に言っている。いいんだ、そんな、高尚なこと書かなくて。

2022年9月17日

2022年9月17日土曜日

全部やる日記 7

  朝遅め。相変わらず猫のぽんちゃんは警戒をしているようだけど、少し家の様子には慣れてきている感じもする。安心した目つきを見ることが多くなった。怖がって押し入れに引っ込んでから、再び外に出てくるまでの時間がほんの少し短くなった感じがする。ととん、と物入れから降りてくる時の音を聞くと嬉しくなる。出てきてすぐに構おうとすると、えっ、という顔をする。しばらくは放っておく。
 タリーズへ。日記をさっと書き、絵を描く。
 お昼は「加とう」の親子丼。ここは鴨せいろも美味しい。どれを食べても美味しいし、手頃な値段だ。そのまま少し歩いて、ドトールへ。シェイクを飲んで、少しだけ岸根公園で陽を浴びる。今日は妙に暑い。そして電車で、新百合ヶ丘に行って、映画『マルケータ・ラザロヴァー』を見る。映画館でやっているうちに見ておきたかった。始まって一時間は、一日動いてすでに眠かったこともあって、ほとんど寝ていた。響く不協和なコーラスに、「ああ、こういうタイプの映画か」と思い、予想はしていたけれど案の定退屈な気分になる。
 だが、本編が始まる前に予告が流れていたアリス・ギィという女性の映画監督の話を見て、この人が、それまで事実を記録するのが主だった映画に物語を持ち込んだ、というようなことを聞いて、映画が辿ってきた歴史について考えながら見ると、また違った印象だった。映画って、本来的にはもっと自由な表現形式なんだよね、と思った。
 三時間弱の映画内容。半日見ていたように感じた。一つの世界に入り込む、という意味では面白く、稀有な体験だった。じゃあもう一度見るのか、人に薦めるのか、と聞かれると、人には薦めないが、もう一回見てもいいかもしれない。意識が飛ぶ。
 サイゼリヤでワインとピザとパスタを食べて、帰った。安くて美味しい。
 不安で作れない、という日々が続いているけど、それは逆で、作っていないと不安だ、の裏返しであるような気がしてきた、というか、そうだと思うことにした。作っていないと不安だ、と思って、作り続けている方がまだ健康であるような気がしている。

2022年9月16日

2022年9月16日金曜日

全部やる日記 6

 相変わらず朝はタリーズ。自転車とバイクをおいているスペースの横で工事をしていた。自転車を取り出しにくかったが、ぐるっと回って車体を出す。十時半ごろカフェに到着。日記を書く。前日の夜に、絵を完成させようと思っていたのに忘れていた。途中まで描きかけだった絵を完成させる。
 そのまま、本の内容を書く作業に移行する。イメージとして、何か文章を隣に置いておいた方がいい、と思って、内田洋子さんの『十二章のイタリア』を手元に携えておく。石堂書店で前日に逗子に行く前に買ったものだ。これを買った時に、このところ、本を買わなくなっているなと思った。本屋に出入りが多いから、本を買っているし、読んでいるような感覚に陥ってしまう。文庫本を手頃な値段で買って、電車で片手で読んでいると、こういう種類の満足感って久しく感じていなかったな、と思う。
 それほど文字数としては進まなかったけど、核ができたような感じもあるし、そんなこともないような気がするが、とりあえず進める。思い出しながら書いている時の自分は今の自分である、という事実を内包しながら書き進めることができている感じがある。まぁ、どうなるかな。
 適当なところで終わらせて、迷っていたけれど桜木町までカブで走って、YDCの練習へ。行くと友達の子供が三人いて、その子たちどずっと追いかけっこをしたりおんぶしたり抱っこしたりをしていたら二時間半の練習時間が終わった。ジャグリングよりも、子供と遊ぶ方が楽しいなと思った。
 帰ったら、猫は相変わらずまだ僕のことを少し警戒している。

2022年9月15日

2022年9月15日木曜日

全部やる日記 5

 朝九時起床。猫の水を交換し、餌をあげる。朝はお腹が空いているからか、シャンシャン、と袋を振ってエサの音をさせると、すぐに出てくる。でもあくまでゆっくりと出てくる。警戒心を解くことはない。押入れの空いた隙間からにゅっと顔を出して、身体は出さない。その状態で、周りのにおいを嗅いだり、部屋を隅から隅まで眺めたりして、危険がないかどうかを長い間確認する。僕が急に動くと、顔が変わる。すぐに逃げられるように、姿勢を低くする。
 本当は僕は「ほーれほれぽんちゃん、よーしよし」となでさすりたい。身体を抱き上げ、だるんと下がった脚をふりんふりんと揺らしたいが、それはできない。いや、できないこともないが、それをやるとハーッと歯を剥き出しにして威嚇され、しばらく奥から出てこなくなるので、やめておく。
 自転車でタリーズに行って日記を書く。翻訳も少しだけ。一度家に帰ってご飯を炊き、レトルトを温めてカレーを食べる。眠くなったので、少しボールジャグリングをして気を逸らす。三つで思うままにジャグリングをするんだけど、僕はバッククロスもまともにできない。
※※※
 今日は鎌倉の方に行って、中学一年生(彼は学校にはほぼ行っていないが)のRに英語と数学を教える日だ、とわかってはいるのだが、気合を入れて準備をする気が起きない。でも、その方が却っていいんじゃないか、と思う。面倒くさいのではなくて、ただ、気合を入れて付け焼き刃で内容を準備するんじゃなく、今までの自分の経験をただ自然に流していく、空気のようにその場に充溢させる、という方が、僕の伝達の術として合っているような気がしたからだ。
 僕はこの仕事を頼まれてから数日後に、中学生用の英語と数学の参考書を買いに行った。合計で七〇〇〇円した。どんな内容をやっているのか確認し、それに合わせてカリキュラムのようなものを作ろうとした。本を開いて、内容を読んで、ふむふむ、と思ってから白い紙を前にして、さて、と思ってペンを持って、手が止まった。
 手をつけるまでは至極簡単だと思っていたことが、一筋縄ではいかないことがわかった。
 英語をやるのに、どういう導入をしたらいいのか。音から入るのがいいのか。じゃあ、あいさつと簡単な会話でも教えたらいいのか。その前に、基本的な文法くらいはやったほうがいいだろうか。文法をやると言っても、どういう順序でやったらいいか。中学生ではまず、代名詞、be動詞、三単現のs、SVO、なんて順序でやるが、本当にこの順序でいいのか。これが王道だというだけで、もっといきなり海に突き落とすような方法の方が面白いんじゃないか。
 そもそも僕は、なんでこの人に英語を教えるんだろうか。
 具体的な教授の内容から逸れ、僕の思考は、勉学をする理由の方に向いていった。
 これを教える理由がはっきりしていないと、何をどういうふうに教えるかの方針が立たない。英語を話せる人にするべきだからか。受験がうまくいくようにすべきだからか。それとも、暇潰しのようなものか。義務教育だから、という理由づけだって、そもそも義務教育というものがなぜ存在するのか、その理由がいまいち自分なりに納得できない。歴史的な偶然でそうなっているに過ぎない。
 僕が英語を教える、ということで背負っているのは、どう生きるか、ということを人とぶつけ合うことだと思った。大袈裟なことではなくて、意識していなくても、何かを教える、人に技術を伝える、というとき、原理的にそういう構図を含んでいる。人は具体的な内容ではなくて、むしろそれを支える骨組みを教えている。具体的な内容は、実のところ、自分で会得する以外にない。もしそのことに無意識であるとしたら、そういうことに無意識である、という姿勢を含めて教えていることになる。

 そこでようやく、プロとして何かを教えている人は、要するにこういうことをいつも考えているんだ、と思った。自分で真剣にそういう立場になるまで、分からない感覚だった。これは悩む。難しい仕事だ。それでも、どこかでこの考察に線を引いて、ストップし、具体的な内容を教える、という行為に徹底しなければならない。それが教える人間の責任である。どこに思考を止める線を引くか、それを感じてもらうのが教師の任務だと思った。
 結局、以前プリントアウトした簡単な英語の文章以外には何も準備をせずに向かった。
 いつもと違って、リビングではなくて部屋で教えた。僕はもう、自分の人生をそのままそこに流し込むような意識で、俺は英語と二十年近く付き合ってきてるんだから、その話をすればいいんだ、と思って、気楽に臨んだ。文章を僕が読み上げて、この意味、わかる? と、ヒントを出しながら、クイズみたいな形で進めていった。僕自身も、知らない言語に相対した時、一番面白いのは兎にも角にも、「その内容がわかった時」だ。それをやることにした。細かいことは後からいくらでも直せる、と思って。包含している文法事項を細かくやること、などはあとでもいいと思った。これは、うまく行った。変にこわばって準備をするからいけなかったのだ。ただ、自然に身につけてきたことを発表すればいい。僕も自然に楽しめるし、相手が面白くなさそうにしていたら、瞬時に提供するものを変えらえれる。僕が普段人と話す時と同じようにやればいいんだ。その場限りの即興だから、先がどうなるか分からなくて面白い。日常生活で、自分が決めた内容に沿って話す、っていうことはない(あるいはそういう人もいるかもしれない。会話が苦手だからそういう戦略をとっている人もどこかにはいると思う。とりあえず僕は違う)。
 これは、ジャグリングを人に見せるにあたっても、大事なことだと思った。僕が憧れてきた表現者たちは、生活こそが表現を支える基盤である、ということを十分に了解している人たちだった。そして、見せる時には、それを自然体で見せている。どんな舞台でも、それを奪われないのだ。失敗がないように見えるのは、そういうことだ。予定したものをきっちりやる、という意識ではいない。僕だってそうありたい。予定をこなすのは、息が詰まってしまう。
 もし準備をするのならば、それは、何かに向けた準備ではなくて、日々の生活そのものが、準備でありたい。僕はそういう体験を何度もしてきているはずなのだ。TOEICなんか、五年くらい前に受けたことがあったけど、何も準備しなくたって無茶苦茶簡単だった。テストなんか意識しないでいい。発表の場なんか意識しないでいい。もっと長い目で見るんだ。囚われない方がいいのである。一生懸命準備しようとすればするほど、身体がこわばってうまくいかない。まずは柔らかくなることから始めるんだ。
 
 2022年9月14日