2022年1月7日金曜日

(7)ただそこにある状態 くあるとどーら - 15分で書けること

久々にフィンランド語の教科書を取り出してきて、朝ごはんを食べながら眺めていた。

フィンランド語をそれなりに熱心にやっていたのがもう1年ぐらい前のことになる。当時は、薄い教科書の20課すべてを、1課ずつ自分でカメラに向かって解説する、というのをやっていた。だから、毎日30分ぐらいはこの言葉に向き合っていた。それが時間として多いかと言われれば多くはない。それでも毎日何かをやる、というのはそれだけで「大したこと」になっちゃうのである。結果的に。

というのも、僕の場合には(か、あるいはみんなそうなのかもしれないけど)毎日やらないこと、というのは、大体において「ほとんどやらないこと」であることが多いから。結果的に、それはなんだかしおれた結果しか残らない。それで、毎回「あーあ」とか思っている訳である。

質を問わずに毎日やる、というだけでいいのだろう。毎日やっていれば、一日一回はその課題について何かしら頭を使う。

そして、その「常にそのことが頭の片隅にある」という状態がいいんだ、とふと思った。

外国語学習のアプリを毎日ぽちぽちやって、200日ぐらい継続していたこともあった。でもやっている最中は、「なんだ、こんな、これっぽっち毎日やったってしょうがないや」みたいな思いに囚われていた。結局それはやめてしまった。

けど、今もしまだそのアプリぽちぽちを続けていたらどうだったろう、と思う。中身は大したことがないかもしれないけど、僕はとにかく、500日間ぐらい、毎日フィンランド語が頭のどこかにある状態で過ごしていたはずなのだ。

(6)スタインバーグ くあるとどーら - 15分で書けること

有楽町に行った。というより、銀座に行った。見たい展覧会があったから。ソール・スタインバーグPM Juggling 板津さんと一緒である。いつもの感じだ。こういう行事があるのはいいね。

スタインバーグのインタビューもいくつか見た。とてもいい。

2022年1月5日水曜日

(5)元気 くあるとどーら - 15分で書けること

何か充実を感じられることをしたい、と思うのだけど、その「何か」がなんなのかよく分からなくて、とりあえず目先の課題をやってしまう、ということがよくあるよね。

1年という大きな時間の単位でも感じることだし、1日、1時間という小さな時間の単位でも感じることである。

じゃあそれがいけないのか、というと別にそんなことはなくて、それでいい。

でもどこか、恐ろしいような気もしている。

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今日は朝6時に起きて、絵を描いたり、掃除をしたり、メルカリにたくさん出品して、それがすぐ売れて配送に行ったりして、朝ご飯だかお昼ご飯だか分からないご飯を食べて、それから少しだけ配達をして、綴方に行って仕事をした。

何かに思い悩むっていうのは、それだけ熱中することが少ない、っていうことなんだろうと思う。熱中には何が必要か、っていうと、それは単に「元気」なんじゃないか、という気もする。

2022年1月4日火曜日

(4)とにかく何も考えないで発信すること くあるとどーら - 15分で書けること

15年くらい前に、自分でタグ打ちでホームページを作っていたころを思い出すと、とにかく僕は、「いい評価」のことだけを考えていて作っていたんじゃないか、という気がする。その時自分が感じたことを、いい、と思ったそのままの形で放出する、ということをしていた気がする。で、みんなこれをいいって言ってくれるんじゃないかなぁ、と想像しながらものを作っていたのだ。

本来はそれが健康な姿だろうと僕は思う。文章を書くにしても絵を描くにしても、曲を作るにしても、写真を発表するにしても、とにかく今自分が感じたことにだけ正直であればいいのであって、戦略的にそれを操作するのは、どうも僕の場合、あまり意味がないっていうか、それは別の人がやってくれ、という感じなのである。

とにかく僕は僕で勝手に自分が作りたいものを作るし、言いたいことを言うから、あなたはあなたで、一番言いたいことをどんどん言っていこう、と、そういう感じでいいじゃないか、と思う。

それでお互いこれは合わないな、と思うのであれば、遠慮なく離れればいいのであって、別にそこで無理につながりを保つ、みたいな方が不健康なのである。

まぁ、一方で、Web上という誰でもみられるところにそういう文章を置いてみたりだとか、兎角誤配されたり誤読されたりするんだけども、まぁそれはしょうがないとしか言いようがないいな。

(3)遠くから眺める、シンガポールを思う くあるとどーら - 15分で書けること

一人で部屋にいる。

別の場所にいる、他の人のことを想う。

それはシンガポールを想うのと同じようなことなんじゃないか、と考える。

シンガポールに行ったら、僕は、その一面をみて、ああ、いいところだったな、と思って帰ってくる。

もちろんひとつの国の中には、いいところも悪いところもある。悪い奴がいたり、政治がよくなかったり、水が美味しくなかったりするだろう。

あるいは、食べ物が美味しくて、人が親切で、面白いイベントをやっていたりもする。

僕は、この後者の方、色々と楽しかった方の記憶を以て、ああ、シンガポールってやっぱりいいな、って想うわけである。

そういうこと。

他人が持つ経験や思考の深淵は絶対に覗けないし、そこにいいと悪いが混濁して存在しているのは知っているんだけど、僕が思い出すのは、たとえば陽の当たる部屋で、一緒に猫を膝に乗せて会話をした記憶とか、そういう方だってこと。

2022年1月2日日曜日

(2)長いことをする くあるとどーら - 15分で書けること

15分のプレッシャーを設定する、ということがいいようである。

実家からバイクで15分ほど走ったところにあるタリーズコーヒーで、『ダンス・バイブル』を読んでいる。「芸術としてのダンスという新しいジャンル」(本文p.1より引用)がたどってきた歴史を一覧できる、優れた本。

ジャグリングにはこういう体系的な歴史本は(少なくとも)日本語では存在しない。一度、アメリカ人のトム・ウォールさんが描いた本を邦訳しないか、という打診をもらって承諾はしたのだが、少し進めて、それから頓挫した。

たとえば一冊の本を邦訳したい、だとか、日記を毎日書いて充実したい、だとか、音楽を作って発表したい、だとか、「やりたいこと」のリストにはたくさんの項目が入っている。

でもじっくり考えて、道筋が見えてきたらやろうと思っていると、大概の場合はできない。ひとまず始めてみちゃう、ということでしか、物事は始まらないよね、とは思う。

それが受けいれられるかどうかが不安だ、という感情を持ってしまうと、そもそも始めることができない。

つまり続けることができないのは、感情が邪魔をしているからだ。「こんなことを続けても、それに見合った報酬は全然ないかもしれない」と感じている、ということなのだ。

逆にい追えば、それについて対策をしておけばいい、ということでもある。

それは、あるいは報酬を感じられるような到着地点の設定を先にはっきり決めてしまう、ということかもしれない。あるいは、行為そのものの没入の快楽をしっかりと感じること、かもしれない。


2022年1月1日土曜日

(1)休憩をスキップ くあるとどーら - 15分で書けること

九州の旅について書ききっていないが、文章を再開。文章を書く力も、やっていなければどんどん鈍る。

さて、では何について書くか、ということで小一時間悩む。

絵でやっているようなことをこちらで再現できないかと考えてもいる。言葉の音のイメージを、そのまま置く。でも別に継続してやるようなことじゃないな。

※※※

たおわたれ

明らかに広いと思えるような空間というのは、それほどたくさんは見つからないわけだが、それでも「大きなもの」という価値で測られる図式がある。それほど多くのことを経験したにしては小さすぎる、と思えるようなわか者であれば、想定内のろくでなしであるという資格はないとは言えない。しかし、苦しみの中に依って立つ経験があってもいいじゃないか。そうじゃないか、と問うた人がいたのだ。そこまで言うならしょうがないけど、やや口実を探しているようでもあった。

暮れに覚えたまさかりごとを、八つ目に増やして到達したぞ、そうだろう、きっとそうだろう。きっと朦朧とした意識であっても、やぐらみこしをグッと持ち上げるのではないだろうか。

※※※

絵を描いているときに頭の中にあるイメージは、たとえば上の、こういう感じに近い。
意味はわからないが、浮かんだものを形にして、記憶の断片を寄せ集めて、バランスがいい、と思うように整えるだけ。