久々にフィンランド語の教科書を取り出してきて、朝ごはんを食べながら眺めていた。
フィンランド語をそれなりに熱心にやっていたのがもう1年ぐらい前のことになる。当時は、薄い教科書の20課すべてを、1課ずつ自分でカメラに向かって解説する、というのをやっていた。だから、毎日30分ぐらいはこの言葉に向き合っていた。それが時間として多いかと言われれば多くはない。それでも毎日何かをやる、というのはそれだけで「大したこと」になっちゃうのである。結果的に。
というのも、僕の場合には(か、あるいはみんなそうなのかもしれないけど)毎日やらないこと、というのは、大体において「ほとんどやらないこと」であることが多いから。結果的に、それはなんだかしおれた結果しか残らない。それで、毎回「あーあ」とか思っている訳である。
質を問わずに毎日やる、というだけでいいのだろう。毎日やっていれば、一日一回はその課題について何かしら頭を使う。
そして、その「常にそのことが頭の片隅にある」という状態がいいんだ、とふと思った。
外国語学習のアプリを毎日ぽちぽちやって、200日ぐらい継続していたこともあった。でもやっている最中は、「なんだ、こんな、これっぽっち毎日やったってしょうがないや」みたいな思いに囚われていた。結局それはやめてしまった。
けど、今もしまだそのアプリぽちぽちを続けていたらどうだったろう、と思う。中身は大したことがないかもしれないけど、僕はとにかく、500日間ぐらい、毎日フィンランド語が頭のどこかにある状態で過ごしていたはずなのだ。
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