長いこと、身体を動かしていなかった、ということが今になってずいぶん意識させられる。昨日、俺は身体を動かすんだ、と思って、体育館に行って1時間ほどだがジャグリングやらなんやら練習をした。夜は清々しく眠れた。そもそも、以前は新しいベッドが身体に合っていないから眠れないんだと思っていたのだが、身体が十分に疲れていないから眠れていなかったのではないか、と思う。身体がしっかり疲れて、そのおかげでしっかり眠って、それによってなんだか清々しい気分になる、という感覚を忘れていたのだった。数年前までは、何も身体を動かしていないとそれだけで罪悪感を感じていた。なんだか最近忙しいというか、デスクワークばかりで、これが自分のデフォルトのようになっていたのだけど、そうではない自分のことを時々インストールする、というか、流れに逆らうような心持ちで生活をしてみる。のも、いいだろうな、と思う。身体が何を感じているのか、もっとよく聞いてあげないとな、と思う。
2022年7月22日金曜日
2022年7月20日水曜日
怖さに向き合おうか
2022年7月19日火曜日
質については問わない。でも、質は問う
はるばる会う人がいいのだ
いろいろな変化を早いスパンで欲する体質である。飽きっぽいとも言える。
僕は旅の何を好きでいるのか。ひとつには、明らかな変化を感じられること、である。場所、出会う人、匂い、光、音、ひとつひとつが違うと感じられると幸福だ。身体に総体として訪れる違和の感触が欲しい。結局、「違う場所に居る」という体験そのものを欲しているんだ。俺は違う場所に居るんだな、と生々しく思えればそれでいい。
そして、やっぱり人なんだよ。僕は会いたい人がいる場所に行くんだ。はるばる、というのもいいよね。はるばるを求めている。はるばるは、人との出会いの高揚感を倍増させるんだよ。はっとするんだ。この人ははるばる来たのだ、と思う時、すごくいい感じがしないか。
中学生の頃、友達が宇宙に行ってきたメダカの子孫をくれたことがあった。夢があるよな。そういうことなんだ。宇宙に行ってきたメダカ、って、別にそれだけで、他のメダカと何が違うわけでもない。でも、はるばる宇宙から来たのがいいのだ。
2022年7月17日日曜日
生活のすべてが栄養なんだ
2022年7月16日土曜日
猫は週休何日か
猫を見ていると、彼らは常にリラックスしているようでもあるし、同時に常に警戒しているようでもある。特に野良猫なんか、ぐでんと気を抜いて横になっていると思っていたのに、ちょっとこちらが一歩進んだだけで、ピクっと耳が動いて、次の一歩で、目を開いて前足を少し身体に寄せ、次の一歩で、立ち上がってさっさと塀の裏に行ってしまう。どんなにだるそうにしていても、「今日は休みの日だから天敵は回避しないでいいや」とか、ない。特に曜日によって動きが違う、ということがない。猫は「一日」という単位で休んでいないんだ。ただ、休みたいと感じた時に、適宜休んでいる。猫が休むのは、「土曜日だから」とか「今日は半休とったから」とかそういう理由じゃないのである。眠いから唐突にパソコンの上で寝るし、寝転がりたいから、歩いている最中にいきなり寝転がる。
この呼吸が人間としても自然にあってるんじゃないか。いや、他の人のことはわからないけど、僕はそういうふうに生きるのがいいんじゃないか、そう思う。
そう信じたいから、言い訳として、僕は猫のことなんか書いている。
誰かに時間の拘束を受ける形で雇われていないので、いつでも仕事を開始して、いつでも仕事をやめることができる。でもそのせいで不安になることがある。周りを見ると、一週間のうち、たとえば5日間なら5日間しっかり働き、なんなら少し無理をして、その上で、「これだけ頑張ったから、私には休む権利がある」という充足というか、何か、義務から解放された感じ、それを祝福するように、土曜日、日曜日を過ごす人がいる。僕はそれを心底羨ましいなと思う。心配事なく、よーし、目一杯好きなことをするぞ、という決意の元で、実際に目一杯好きなことをやってみせるってなんて素敵だろうかと思う。
でもそこで、猫のことを思うのだ。僕はついつい「思い切り休める一日」を持ちたいみたいな妄想をするわけだけど、「一日」という単位に縛られるのが、実はちょっとズレてるんじゃないか? と思うわけだ。動ける間はガンガン動いて、休みたくなったら、休みたい時間だけ、というか必要な時間だけ休んで、またガンガン動いて、でいいじゃん、と思うのだ。それがたまたま一日という単位と被るのか、そうではないのか、という違いなだけなんじゃないか。
しかし、かたや、こうやってなんかいい感じのことを言うだけなのは簡単なんだけど、それを人間として社会生活にある程度コミットしている状態で実現するには、工夫が必要である。ただ単に「好きに生きればいい」みたいなのは、作戦不足で、結局、虚しい願望で終わる。頭を使わないといけない。
いや、だって、例として、僕は今朝、7時には起きていたんだけど、朝のコーヒーを淹れながらiPadをいじっていたら、急に『アイアンマン』が見たくなったので、ちょっと冒頭だけ見ようと思ったら、気づけば一本全て観ていたのである(その前に『ミズ・マーベル』一話分も観ている)。これはその時々でやりたいことに集中したということになるのかもしれないけど、僕はその後、随分後悔している。これはなんでだろう。確かにやりたいことをやっているはずなんだけど、僕は不幸になっている。
真剣に取り組みたいと思っていることに、真剣に取り組んだか? というのが判断基準なのである。「やりたいこと」と言っても、いくらでもある。その中で、自分の方から積極的に世界に働きかけている感じがすることができた場合に限り、僕は充足を感じている。
2022年7月15日金曜日
ジェット噴射と動的平衡、「同じ」を保つために変化する
自身がどういう時に充実を感じるのか、ということについての個人的な研究をずっと続けている。というか、別にそんなふうにハッキリと思って日々生きているわけではないのだが、振り返るとそういうことを念頭に置いて日々動いている感じがする。俺はどうやったら落ち着くんだ、どうやったら集中できるんだ、どうやったら幸せだと思うんだ、と、トライアンドエラーの繰り返しで、これは一生続くのだろう。なんせ、一度作り上げたシステムが一生続けられるなんてことは、現実にはないからだ。いや、同じ「ような」システムが一生続くことがあるとは思うのだが、それは、たとえば同じスーパーカブという名称の商品でも、常に時代に合わせて細部を変えていたり、エンジンの効率を研究していたり、使用する原料を最適化するように、「同じ」を保つということは、実は「そのままでいい」というズボラな態度ではダメで、むしろ常に研究が要請される、地味な労力をかけてメンテナンスをしないといけない、大変なことなんだろうと思う。日々変化すること、やわらかくいることが、同一性を担保する。
今頭に浮かんでいるのは「動的平衡」という言葉でもある。あとは、機体の飛行みたいなイメージもある。ジェット噴射で大事なのは、そこで何かが燃えて、推進力になっているということであって、それが途切れない、というのがいい。あとは、うまいこと翼を微調整して、その噴射による推進を調整する。飛ぶためには、まずは燃やす。燃焼効率が悪いなぁ、と思うかもしれないけど、とにかく、燃やす。
昨日は配達を多めにやった。昼の時点で、定めていたノルマ分はほぼ終わっていたのだが、頑張れる時に頑張った方がいいんじゃないかという予感がして、10本多めにやった。結果としては、「期待されているより倍ぐらいの成果を達成している」というときは自信を持って満足を感じられるらしく、その後の動きが良かった。机を片付けて、紙とペンを置いて、じっと過ごしていても罪悪感がなかった。焦りを無くすための技術だ。ぎゅっと抑圧された状態があって、初めてバネが伸びる。自分が自分にどれぐらいの期待をしているか、そしてそれを上回るために、冷徹に時間を使うにはどうやって組んだらいいのか、それが具体的なテーマ。今日のところは、「とにかく時間で区切る」ということなのだろうな、と思っている。
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ちょっと関係ないけど思ったことがあって、僕がPM Jugglingの板津大吾さんと対談で話すと、自分でもいい感じだと思える言葉が出てくるのは、そこで他者に対して説明をしよう、なるべく開こう、自分とその周りでしか通じないようなジャーゴンも避けよう、安心はしているけど、小さな内輪ではない、海を探るような言葉にしよう、という意識が、自然に働いていたからじゃなかったか。自分が納得するために他の人と話をする、というのは立派な方法で、たとえばそれは、怒りが収まらない時に人に愚痴を言うと改善したり、悩みがあるときにただ聞いてほしい、という場合とも共通である。