2022年7月16日土曜日

猫は週休何日か

 猫を見ていると、彼らは常にリラックスしているようでもあるし、同時に常に警戒しているようでもある。特に野良猫なんか、ぐでんと気を抜いて横になっていると思っていたのに、ちょっとこちらが一歩進んだだけで、ピクっと耳が動いて、次の一歩で、目を開いて前足を少し身体に寄せ、次の一歩で、立ち上がってさっさと塀の裏に行ってしまう。どんなにだるそうにしていても、「今日は休みの日だから天敵は回避しないでいいや」とか、ない。特に曜日によって動きが違う、ということがない。猫は「一日」という単位で休んでいないんだ。ただ、休みたいと感じた時に、適宜休んでいる。猫が休むのは、「土曜日だから」とか「今日は半休とったから」とかそういう理由じゃないのである。眠いから唐突にパソコンの上で寝るし、寝転がりたいから、歩いている最中にいきなり寝転がる。

 この呼吸が人間としても自然にあってるんじゃないか。いや、他の人のことはわからないけど、僕はそういうふうに生きるのがいいんじゃないか、そう思う。

 そう信じたいから、言い訳として、僕は猫のことなんか書いている。

 誰かに時間の拘束を受ける形で雇われていないので、いつでも仕事を開始して、いつでも仕事をやめることができる。でもそのせいで不安になることがある。周りを見ると、一週間のうち、たとえば5日間なら5日間しっかり働き、なんなら少し無理をして、その上で、「これだけ頑張ったから、私には休む権利がある」という充足というか、何か、義務から解放された感じ、それを祝福するように、土曜日、日曜日を過ごす人がいる。僕はそれを心底羨ましいなと思う。心配事なく、よーし、目一杯好きなことをするぞ、という決意の元で、実際に目一杯好きなことをやってみせるってなんて素敵だろうかと思う。

 でもそこで、猫のことを思うのだ。僕はついつい「思い切り休める一日」を持ちたいみたいな妄想をするわけだけど、「一日」という単位に縛られるのが、実はちょっとズレてるんじゃないか? と思うわけだ。動ける間はガンガン動いて、休みたくなったら、休みたい時間だけ、というか必要な時間だけ休んで、またガンガン動いて、でいいじゃん、と思うのだ。それがたまたま一日という単位と被るのか、そうではないのか、という違いなだけなんじゃないか。

 しかし、かたや、こうやってなんかいい感じのことを言うだけなのは簡単なんだけど、それを人間として社会生活にある程度コミットしている状態で実現するには、工夫が必要である。ただ単に「好きに生きればいい」みたいなのは、作戦不足で、結局、虚しい願望で終わる。頭を使わないといけない。

 いや、だって、例として、僕は今朝、7時には起きていたんだけど、朝のコーヒーを淹れながらiPadをいじっていたら、急に『アイアンマン』が見たくなったので、ちょっと冒頭だけ見ようと思ったら、気づけば一本全て観ていたのである(その前に『ミズ・マーベル』一話分も観ている)。これはその時々でやりたいことに集中したということになるのかもしれないけど、僕はその後、随分後悔している。これはなんでだろう。確かにやりたいことをやっているはずなんだけど、僕は不幸になっている。

 真剣に取り組みたいと思っていることに、真剣に取り組んだか? というのが判断基準なのである。「やりたいこと」と言っても、いくらでもある。その中で、自分の方から積極的に世界に働きかけている感じがすることができた場合に限り、僕は充足を感じている。

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