先ほど、チェコ共和国で開かれる「ロストチュ・フェスト」というフェスティバルのウェブサイトを見ていた。僕は2017年にこのフェスティバルに参加したことがある。その時は日本人のジャグラーの友人2人と一緒だった。その直前にポーランドで開かれていたイベントのEJCから流れてきた人もたくさんいて(僕らもそうだった)、とても楽しかった。
今改めてウェブサイトを見て、楽しげな参加者たちが映る写真をスクロールしていると、やっぱり行きたくなってくる。ヨーロッパにいるときの夏の空気を思い出す。本当に、まるでその場で、匂いを嗅いでいるような気がしてくる。それはそれは美しい思い出である。
今年だって、別に行こうと思えばどこへでも行ける。ただ、高い。往復で20万円前後だ。これは、今までの感覚からすると、ずいぶん高い。
しかしいずれにしても今行くのは違う、と感じている。そりゃあ、行ったら楽しいだろう。でも、どこか消費的な旅行になってしまうとも思う。
そしてはっきり言えば、僕は今までどこか消費的な旅をたくさんしてきてしまったと思っている。
お金をやたらに払ってきた、というのではない。2018年にはフランス、イギリス、ポルトガル、フィンランドと4カ国を巡ってヨーロッパに45日間滞在したが、航空券、イベント参加費、宿泊費、食費全てトータルで20万円も使わなかった。だいたい、僕は人の家に泊めてもらうか、安いゲストハウスに泊まっていた。友達もたくさんできたし、宿にいた知らない人と仲良くなったりもした。旅のことを文章にして書いて、それを読んでもらった経験もたくさんある。
とはいえ、基本的に僕は持ち出しで旅行をしているわけで、お金以外にそこで得たものもたくさんあるとは言っても、やはりその金銭的な損失を埋めるためにやったのは全然関係ない仕事ばかりだから、それがバランスを欠く行為であるように思えていた。
僕はその部分が気になって仕方がないのだ。
すべてが血肉になっている、という実感を持って家に帰りたい。「ああ楽しかった」だけだと、最終的に空虚な感じが残る。国なんか出ないで、自分の持ち場で淡々と自分のことをこなしている人に対して、萎縮してしまうような気持ちになる。
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僕には夢がある。それは、どこの国に行くにしても、その国に行った時に通じる主要な言語を、大体不自由なく喋れる状態で出かける、ということである。もちろんその程度でその国や人を知ったことにはならないんだけど、対等に接するための道具を最低限持っていたい。そういう気持ちを動機にして、言葉を勉強したい。
言葉に限らず、今まで僕は、勉強や反省もそこそこに、中途半端な状態で海外にばかり行っていたなぁと感じる。外国に行きたい、という欲があまりに強すぎて、じっくり前準備と後の生産に取り組まないで、次々に出かけていた。
「行けるならなるべく多くの場所に行くべし」という強迫観念があった。
そこへきて、コロナ禍で実は僕はちょっとホッとしたんだ。ああ、これで、海外に行かなくても自分自身に言い訳が立つ。「何かを逃している不安」を埋めるための旅行をしなくて済む、と思ったのだ。
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