2022年7月7日木曜日

作品を提出すること、自分が自分に取りたい態度

  昨日発行したメルマガに関して、2人の友人から、好意的な感想が直接LINEで届く。嬉しかった。

 昨日の内容は、態度を明確に言葉で語ったものだった。しかし、今回はたまたまそうだったけど、そういった内容でなくても、つまり、「明示的に態度を語った文章」ではなくても、何かをパッケージにして人に差し出す場合には、常にそこに「つくり手の態度」が自動的に含まれる。

 どこで差し出すのか、いつ差し出すのか。発表をする時点で表れる態度がそのひとつ。態度が作品の内容として明示されていなくても、受け手は相手の態度を勝手に想像する。

 たとえば深夜にいきなりメールが届いたら、その事実自体、好むと好まざるとにかかわらず、なんらかの印象を与える。深夜に送ってもいいと思っている、それぐらい信用している、緊急で伝えたいことがある、あるいはやりたいと思ったことはすぐにやる人間である、するべきことが昼間に終わらない人である、たとえばそういう自由な想像を、受け手に促す作用がある。noteでやるのか、ブロガーでやるのか、Facebookでやるのか、紙の本でしかやりとりをしないのか、そういうこともすべて態度である。

 そして日々をどのように積み上げた上で、その作品が提出されているか、という、一朝一夕には操作ができない要素も、不可避に織り込まれている。それも態度である。どう向き合っているのか、ということ。

 作品には必ずその前後の脈絡がある。つくり手の生活がある。それを見せるか見せないか、見せるとしたらどこまで見せるのか。自身の生活を伝える際に、どれぐらいのフィクション性を織り交ぜるのか。そういった態度まで、すべては作品(このウェブサイトも例外ではない)を取り巻く、態度表明の手段である。

 見られていない部分以外も、本当は筒抜けなのだ、と直感する。作品を発表するという行為には、つねに「態度の表明」がモロに含まれている。

 でも、他人に見られているから日々緊張せよ、と言いたいのではない。他人を意識せよ、というのではない。他人を意識して表明する態度を決めていたら、惑うだけになる。じゃあ何か。

 僕は言いたいのは、作品を通じて一番態度を見せつけられる相手は自分自身なんじゃないか、ということだ。一番先に現れるオーディエンスは、自分なんだ。

 だから正直であれ、と僕は思う。作品に持たせる緊張感というのは、自分に対して見せつけてやるための緊張感なんだ、と思う。最後には、自分がどうするか、でしかないのだ。だから僕はここで、作品が帯びる態度というものを、「自分が自分に取りたい態度」である、と定義する。

 どんどん発表していくことは、自分への態度を明らかにするという行為なのである。それは、彫刻家のはしもとみおさんなんか見ていても、やっぱりそう思う。でももちろんこれは、僕の勝手な解釈だ。実際に、はしもとみおさんがどういう考えなのかはわからない。

 でも、まさに言いたいのはそういうこと。どう頑張ったって鑑賞者は個々に勝手に解釈しちゃうのだ。あとは「自分がその態度に満足するかどうか」の方がよほど大事だ。僕は、主にインターネットと本、それといくつかの展覧会を通じて知った、はしもとみおさんの作品に触れて、そう勝手に受け取っているだけ。

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