2021年5月24日月曜日

ながいつぶやき(119)

もうずいぶん長いこと、人前でジャグリングをやっていない。
だからといって何かが衰えているのだろうか、というと、もともと別に僕は人前で何かを見せることについて無茶苦茶真剣に長期間取り組んだ、ということもないので、まぁおんなじようなもんか、と思う。

パフォーマンス依頼をいくつか打診されていて、悩んでいる。

2021年5月23日日曜日

ながいつぶやき(118)気兼ねをなくす

僕の仕事はインターネットにつながりさえすれば、どこにいてもできる。今この場でMacBookだけ持ってどっか行っちゃったっていい。でも、全然そうしようとしない。その理由について真剣に考える。

なんとなく頭に浮かぶ情景で説明してみる。

※※※

フィンランドはとにかくいいところ。なぜかと言えば、いい記憶ばかりがあるから。「悪い記憶が差し当たりない」ということが、すなわち「いい」ということだ。屋外でお風呂に入ったり、みんなでそこで裸でビールを飲んだり、そういうことが楽しかった。逆に、何か悪い思い出があったか、と言われると、本当にない。本当にないのだ。

2018年にフィンランドで2週間ぐらい過ごして、あの時、僕は今何をしてもいいんだ、という自由を感じた。自由とはなんであるか。

旅行に出ていると、もうどうしようもないことがある。30分後に横浜で待ち合わせだ、と言われても、どうしようもない。

そういったどうしようもないことだらけである、という状況で、僕は「もういいや、なんでも」と思う。

その、「なんでもいい」と心から思える、そのことこそが自由である。

今やりたい、と思ったことを、一切気兼ねなく行う、ということが自由である。

この「気兼ねなく」という部分が大事だ。

そこに、その純粋な「欲」以外が一切まみえない、ということだ。

そして僕はここで、気兼ねをなくす、というのは、どうも一個一個の「やらなければならないこと」をしっかり片付けることによってではなく、意識として、「俺は気兼ねなんかしないので」という姿勢を貫く、という、心のうごきによって、あらゆるものに先駆けて、まず感じるものなのだと思う。

涼しげな風の吹く大草原を前にして、「気持ちがいいからしばらく当たろう」と身体と心が感じる、その気持ち、それこそが自由であり、それ以上に有効な自由の定義なんてない。

2021年5月22日土曜日

ながいつぶやき(117)そういうことすら考えないくらいに

 長くなくても、ここでつぶやいちゃえばいい。

なんだって僕はいちいち言いたいことが長いのだ。でも、ここだったら、まぁ、それをその通りに言っちゃってもいいか、と思えるのである。

いろんなことで考えを巡らせている。でも、それってなんだか人生の豊穣である気もしている。大体、人間、何も考えていないとき、なんていうのがそもそもそうそうないのである。

で、今は何を考えているかというと、主にこれからのこと、である。

別に将来何をしたい、とか、大きいレベルではもうそういうことは思わないんだけど、(なんだか、自分は、もうやりたいことは大体やったような気がするから)なんとなく、今までの人生の方向性と違う方に行きたい、ということを思う。

いきなり、海外に飛んじゃう、とかもありだなぁ。

ここ最近ある人と話していて、僕は海外に行った時に、「なんでオレ、こんなことしているんだろう」と思う瞬間が好きなのだ、と言った。例えばそれは、フィンランドのサーカス学校の控え室みたいなところで、マットの上にあぐらをかいて、そこでパソコン画面に煌々と照らされて、文章を書いているときに感じること。

日本に俺がいなくて、別に誰とも連絡を取らなくても誰も困んねえんだ、と感じた。

何かに繋がれていないといけない、という感覚を、長期にわたって失いたい。

俺は、水に浮かぶあくたのようにフワフワしていればそれでいいんだ、ということを感じたい、いや、そういうことすら考えないくらいに、風に流されたい。

2021年5月19日水曜日

ながいつぶやき(116)

何かを公開することに意味があるか、と言われると、それは実はない、ということが真実なのだろうけれども、意味があることのみが大切か、と言われると決してそんなことはない。

※※※

人のことを真剣におもう時、時間をかけることが大切になってくる。

自然だと思えるタイミング以外で、結論を出さない、ということも大切になってくる。

なぜなら、じっとしていることで、全体的に見ると、それなりに上手い方向に進むこと、というのがあるからである。

このことは、生まれてから30年くらい生きてきて割に最近気づいたことで、歳をとるのっていいな、と思うのはこういうことに気がつけるからでもある。

2021年5月18日火曜日

ながいつぶやき(115)

なんとなく気分が晴れないことって多いが、それは仕方がない。

※※※

英語を話していないな、最近。

外国語を口から発していない。

なんだか物足りない。

旅行が足りない。

自分の中で、錆び付いているパートが多いと感じるとどうもいけない。

でも同時に、人間、実生活に使う能力以外が衰えていく、というのは、必要なことだから怒るのであって、まぁ、しょうがないや、と思って、今取り組んでいることをとにかく無我夢中でやる、というのがいいかな。

というか、好きなことをやり忘れてる、って、これ、本当は好きじゃないんかな、と思ったりするよね。

2021年5月16日日曜日

ながいつぶやき(114)楽しいことがしたくて仕方がないのだ。

ここに記事を書くと、無意識に「何かやったぞ」という感情が手に入るので、その点はいい。

昨日から、少し仕事のことについて考えている。別に何か大きなきっかけがあったのでもないのだが、今受けている翻訳の仕事を少しお休みして、抜本的に生活を変えてみたい。

一番平たく言えば、今の生活に飽きが来た、ということである。

もっと楽しいことがしたくて仕方がないのだ。

ロバート・ハリスさんの著書を読んだことは大いに関係しているかも。

自分の能力を使うのならば、なるべく楽しい形で役に立てたいなと思う。

2021年5月15日土曜日

ながいつぶやき(113)自分の力で輝かせたい

ここもやったりやらなかったりだな。また毎日ペースに戻すぞ。

相変わらずどうにもバイクのことばかり考えている。いっそ思いっきりやったらいいじゃないか、という感じがしている。

例えば、2ヶ月間でUBERで50万円ぐらいガバッと稼いで、それを、好きなようにバイクに充てていい資金にするとかね。自分でゲームのルールを設定する癖をつけるのに、いいかも。

50ccの原付を安く仕入れて、自分で好きなように改造したいな。

今持っているC125というスーパーカブの高級車のようなものも、半年ぐらい細々と貯金して買って、買う前からカタログを飾ってみたり、インターネットで情報をこれでもかと収集したりして、いざ買って手元にある今も、大好きなんだけど、どこか完成されすぎていて、逆につまらないと感じる。

この間自分で後ろに乗っけるボックスを自作したりして気分を変えようとしたが、どうもそれだけでは気持ちが収まらないのだ。








ピカピカだと、なんだか面白くない。ちょっと気恥ずかしい、というのもある。

多少不便でも、不恰好でもいいから、自分自身のスタイルで、自分の力でモノを輝かせたい、と思うのだ。

…いっそ、このブログ、しばらくバイクのブログにしても面白いかも(笑)

2021年5月10日月曜日

ながいつぶやき(112)

一昨日の撮影について、続き。

 


撮影をしたのは、Power In da Performance という団体を主催する優和くん。

久々に外でジャグリングを撮って、なんだか、熱心にこういうことをしていた高校生ぐらいの頃を思い出しました。いいもんです。

2021年5月9日日曜日

ながいつぶやき(111) ながく考える

(この記事は、桜木町にあるお気に入りのドトールコーヒーで書いている。執筆は5月7日だが、明日の朝8時に公開)

朝6時に起きた。少なくともこのぐらいの時間には起きていないと、心の余裕が生まれない。

最近は9時、10時を過ぎて起きるような生活をしていたけど、これだと、気持ちのいい流れがこない。
昨日は、数日先のことまで手帳を見ながら予定を立てて、部屋を片付けて、明日の準備をしてから寝た。これぐらいして、初めて安心して寝られる。

思い返せば、小さいころは、かなり入念に明日の準備をする人間だった。今でもその頃の気持ちは残っていて、本当は、できる限りあらゆることの予定をしっかり考えて立て、何かを選択するにも十分に吟味してから選び取りたいと思っている。ただ、それ自体にものすごくい時間がかかってしまうことを知っているので、その全てが簡単にクラッシュを起こして、もういいや、アドリブで、となる。

今やりたいと思っていることを全てやるなら、選択肢の吟味に時間がかかることを受け入れてそれに見合った時間を確保するか、あるいは選択のスピードを今の10倍ぐらい速くしなければならない。アクションゲームくらいの感覚。

後者で行こう、と何年も思っているが、それは自分の肌には合わないのだろう、と薄々感じてきている。

2021年5月8日土曜日

ながいつぶやき(110) しゅうかん、いっしゅうかん

日々の習慣は、やらない期間が一週間も空いてしまうとなかなか復帰できない。

これをやる理由がわからなくなっちゃうからだ。

あるひとつの習慣を続けるには、その行為を始めるとき、何も考えずにいきなり始めることが肝心である。考える暇もなく、とりあえずやる、ということである。しかし、一週間も時間が空いてから、さあ、と突然その習慣を復活させようとすると、どうしても、なんでこんなことしてるんだっけ、別にやらなくても生きていられるんだけど、などと思いをめぐらし始めちゃうので、元の生活には、戻りづらくなる。文章を書くよりもやるべきことがあるんじゃないか、とも思う。1日15分文章を書くだけ、と言ったって、それなりの負担だからね。

つまり習慣を保つには、その行為自体の価値の是非については(少なくとも行為の最中には)考えないこと、これがかなり肝要になるということである。

今日から、再びこの場所を再開させようと思って、書いている。
今のところ、この場所の意義は、わかりやすい文章を書くための練習にしようと思っている。
筋力トレーニングのようなものだ、と思えば、意味がないことも、毎日続けることも、スジが通っている感じがする。

そして一回そのスジを確認できれば、あとは無批判にやっていくだけである。

結局のところ、文章を書くことには、特に重要な意味がないのは知っている。
でも、やっている最中は、意味があると思ってやっている、というその塩梅がいい。

学校に行くのと同じ。
とにかくそれが義務だ、と思い込むことで、続くのである。本当は学校なんてフィクションで、義務なんかじゃない。
でも、そのことを了解した上で、やっぱり、無批判に続けるのが習慣というものである。
会社も、本屋も、事務所も、本当はない。集団の妄想であると言える。
どうしてもやめられない習慣は、個人の妄想だ。それでいいのだ。

2021年5月1日土曜日

ながいつぶやき(109)ナビでいくのは簡単だけど

昨日は PMジャグリングのだいごさんに会いに世田谷までバイクを走らせた。数日ぶりに天気が良くて、絶好のバイク日和。少し日に焼けた。

ジャグリングをしながら、色々と面白い話ができた。

バイクに乗るときに、ナビでいくのは簡単だけど、そうじゃないんだよね、という話から、ジャグリングの話にも共通点を見出す。

自分の頭の中に地図を描いて、きっとこういうことではないだろうか、と道筋を考えて行くこと、ドキドキしながら答え合わせをすること。

そもそもの行先と、その解決方法を自分で考えながらそれを試行錯誤するときの心の持ちようについて、である。


帰り、なんだかこのまま帰るのはもったいないと思い、もう宮ヶ瀬ダムの方にまで行ってしまうか、とか思ったが、途中で疲れてやめて、大和駅近くの巨大な図書館に行く。スターバックスが併設されていて、とてもいい雰囲気であった。そこで仕事をする。

一旦自宅に帰って、綴方へ。考えることと、気持ちのいい話と、場所の移動がたくさんある日が好きだ。