思い立って、インスタグラムでライブ配信した。
ヘッドストール(ボールを頭に乗せる技)を練習しながら喋った。3分でやめるつもりが22分喋った。できるときはなるべく何かテーマを決めて喋ろうと思った。
今日も8時ぐらいに起きた。
翻訳して、ご飯を食べて、家事をして。
俺は誰かに語りかけたいんだ、と思う。
※※※
僕は「外国語を話す友達」と「日本語を話す友達」とを、かなり分けて捉えていると思う。だがこれはよくないんじゃないかと時々思う。外国の人だと、親しい友達でも「実際のところ、本性をよく知ることができない対象」として見てしまっているんじゃないか、と不安に感じる時がある。特にエッセイを書くときに。それは悪いことではないのかもしれない。結局のところ、育った文化や、環境や、言葉や何もかもが違う人と似通った環境で育ってきた人とを、一緒のくくりにする、ということがおかしいのかもしれない。
僕と外国の人の間にはれっきとした区別があるはずだから、それを改めて感じたからといって、どうということはないのかもしれない。「外国人」は、「外国人」として付き合っていけばいいのかもしれない。
しかし外国を「外」とばかり思っていていいんだろうか、とねじれた悩みを抱えている。外国の人と友達で居られることをどこか「特別だ」と思う自分がすごく嫌だ。
しかし海外で起きたことなんかを面白く書こうと思うと、どうしても場所や人が、今まで知っていたものとどれだけ離れているか、どれだけ変なのか、というようなことを軸に話すことが多い。つまり「外」について語っている感じがするから、面白いわけである。でもそうすると、自然と少し誇張してハッキリ書きすぎてしまったり、まさか本人に読まれまい、というような前提でものを書いたりする。これが、なんだか、いいのかなー、と、後になって考え込んでしまうことがある。
※※※
【FB投稿をここにも残しておく】
もう皆さん、星野源の動画の件はご存知と思いますけど、何で本当にこうも安倍さんの周辺ってスカポンタンなんでしょうね。あ、星野源は全然悪くないですよ。星野源ラブ。頑張れ。大丈夫、みんな応援してるから。
ちなみに知らない方がいたらと思い顛末を記すと、星野源が「うちで踊ろう」という動画をインスタグラムでアップして、今気持ちが落ちている人を励ます意図もあってだと思うんですが「誰か伴奏つけてくれないかな?」というようなことを書いたんですね。
そしたら日本中の人から(他国からももちろん来た)伴奏をつけたり一緒に踊ったりする動画が次々出てきて、いいねいいね、ってやっていたんですよ。
そしたら安倍首相が(っていうか官邸、官僚が、だろうな)今朝、くつろいでる動画とコラボさせて流したんですよ。
いや、アンタが一緒になって休んでることを強調してどうするんだよ!(笑)
「僕が先頭に立って指揮をとる、必要な人とモノを動かす、君たちは危ないから大人しくしていてくれ」って言われて、「はい」って言って、どうするのかなぁ、って見てたら紅茶飲んでリモコンプチプチ押して休んでるのおかしいだろ!
それなりに真っ当な国家元首を演じたいわけでしょ。
この認識のラインって流石に真っ当だと思うんだけど…(笑)
ユーモアを出すタイミングと方法完全に履き違えてるよ。
もちろん休むのは構わないし、総理大臣だって人間なんだからくつろいで欲しいし、もちろんそこがダメだってんじゃなくて(当然だよそんなの)ただ、これことさら今強調することじゃないだろ。
これ、憤慨するのもバカらしいよ。
稀代のスカポンタン事件だよ。
平和すぎて真剣に考えるのバカらしくなるよ。
収入激減した人たちは必死になって人生の舵をきってるのに。
なんか、うーん、でもこれも複雑な問題でもあるな、本当に。
いや、上で率いて行く人間が「まぁそんなに暗い顔してないで」って明るい雰囲気をつとめて作り出そうとする、っていうそのこと自体は別にいいんだよ。でも、今回のはタイミング完全に間違えてるよ。
あと星野源をここで責めるのは、俺は全くお門違いだと思います。星野さんは別に社会に対して引き算してない。
「国のトップと、それ以外とで、見える景色にあまりにも断絶がある」っていうことに尽きると思う。
結局、星野源のことも、多分、関係者たちは割と簡単に
「まぁまぁ、みんな、なんだかんだで大変そうだけど、何とか持ちこたえてくれているし、この辺りでほっこりするところでも見せてあげよう!」と、そんなに悪びれずにやってるんじゃないか、って思うんだよ。
まともに景色が見えてたら普通あのアイデアにたどり着かないよ。
あの人らがおかしいっていうよりは、きっと上を選ぶ全体のシステムが全体的に、圧倒的におかしいんだよ。
2020年4月12日日曜日
狂ったようにつくりたいよね(てーてん観測)
今日は比較的早く起きた。
8時半ぐらいかな。僕としては早い。
昼まで仕事をして、ふじくんを待つ。
相変わらず、水曜日と土曜日には必ず会って、イタリア語(と英語)をやっている。
生産的か、と言われると、どうなのだろう。
何もつくってないしな。
そう、僕はつくりたくてつくりたくてしょうがないはずなんだ。
みんなそのはずなんだ。
本当は何かをつくりたくてしょうがないんだ。
「何者かになりたい」なんてこと、本当は絶対にないとおもう。
ただ自分が心底ワクワクするようなものを作り出すことに熱中したいだけだ。
それは、自分の頭が「好きだ!」と恋した方向に世界を操作して、それを自分の知覚が確認できるようにする、というおこないのこと。
夜ご飯は、隣のホアさんとふじくんとでラーメンを食べにいった。
近所のラーメン屋。
先日二郎系を食べたホアさんは、このいたって普通のラーメンやさんのラーメンに対し「こっちの方が、美味しいね」と言っていた。
僕もそう思う。
夜9時からジャグラー、ショーグンと電話した。
最近どうですか?と。
少し気分が落ち込んでいた、のかな。
ひとしきり盛り上がって、「続けるーズ」というしょうもない名前の団体を発足した。
僕はこういう命名にかけては自信がある。
いいよね、「続けるーズ」。いい、いい。悪くない。
なんでも続ければいい。
何かを続けなくても死にゃあしない。結果なんか出さなくたって、断じて死なない。断じて。自分なんか高めなくたって、息の仕方と食べ物の食べ方ぐらい誰もが知っている。全部余計。
だからつくりたいものをつくり続ける。
このブログだってそう。
書いた時点でもう自分に対するコミュニケーションは終わってるんだ。
あとはあなたが受け取ってください。
つくりたいものを好きなだけつくろう。
つくるものつくって、笑顔で生きよ。
※※※
「僕はほら、用意周到だからもう今の時点でこんなに危機感を感じていますよ」と言っているように見えることを承知で書く。
先ほどの小さな地震が心底怖かった。
コロナコロナと言っている間に地震が来てもおかしくない、本当に。
そしてこう書いておきながら、「まぁでも来ないだろう」と思っている自分もまたいる。よくわかる。
だが僕は本当に怖がりなので、もしかしたら、本当に、大地震がきて、もう、全然立ち直れないようになってしまうかもしれない、とも本気で考える。
でも、「まぁでも万が一の時でも僕は死なないだろうし、地震で様々なものが崩壊しても、いずれは平穏な時がくる」と考えているのもよくわかる。
よくわかってるんだぞ、俺。
こうして平和にブログを書いていられるのも今のうちかもしれない、という予兆はする。しかし同時に、僕はこうやってなんの予防線だか知らないが、予防線としてこういうことを書いているんだろう、と思う。
まぁ、あとはどうしようもないから、自分は運がいいと思い込んでることは全然否定せずに、まぁでも万が一なんかあったら、と少しでも準備すればそれでよろしい。
もともと「平穏」なんてない。
※※※
「つくりたくてしょうがない」と書くと、余計に何かをつくりたくてしょうがなくなってくる。
つくりたいな、つくりたいな。
日々の仕事だって、それを何かを作る作業であると本気でおもいこめ。
「記録」を作ったっていいさ。「価値」を作ったっていいさ。「文章」を作っているのだっていいさ。
もし作業そのものが創造的じゃないと思えるなら、作業はそのまんまでいいから、それを「自分が語れるお話というもの」にしちゃえばいいのさ。そういうキャラクターになりきればいい。
キャラクターづくりは、創造という行為に密接に結びついている。
仕事に打ち込む自分づくり、とは役作りなのだ。
なので、とことんおかしい役を演じよう。とことんバカを演じよう。「創造性」なんかまるで気にしていない、大事なことなんかわかっていないやつを演じよう。
その役を演じられるならば、本当の自分は、それを外から見ている、ということになる。
常に狂った人の「外」にいることになる。
自覚があれば、それだけでよろしい。
他人には言わなくて十分、よろしい。
僕は、何を作ろうかな。
「作品」っていい言葉だ。
品を、作るのだ。
遠慮なんかなく、狂ったように仕事を作品にしていきたいね。
そして、そのつくったものは、自分でニコニコと誇れるものであれ。
8時半ぐらいかな。僕としては早い。
昼まで仕事をして、ふじくんを待つ。
相変わらず、水曜日と土曜日には必ず会って、イタリア語(と英語)をやっている。
生産的か、と言われると、どうなのだろう。
何もつくってないしな。
そう、僕はつくりたくてつくりたくてしょうがないはずなんだ。
みんなそのはずなんだ。
本当は何かをつくりたくてしょうがないんだ。
「何者かになりたい」なんてこと、本当は絶対にないとおもう。
ただ自分が心底ワクワクするようなものを作り出すことに熱中したいだけだ。
それは、自分の頭が「好きだ!」と恋した方向に世界を操作して、それを自分の知覚が確認できるようにする、というおこないのこと。
夜ご飯は、隣のホアさんとふじくんとでラーメンを食べにいった。
近所のラーメン屋。
先日二郎系を食べたホアさんは、このいたって普通のラーメンやさんのラーメンに対し「こっちの方が、美味しいね」と言っていた。
僕もそう思う。
夜9時からジャグラー、ショーグンと電話した。
最近どうですか?と。
少し気分が落ち込んでいた、のかな。
ひとしきり盛り上がって、「続けるーズ」というしょうもない名前の団体を発足した。
僕はこういう命名にかけては自信がある。
いいよね、「続けるーズ」。いい、いい。悪くない。
なんでも続ければいい。
何かを続けなくても死にゃあしない。結果なんか出さなくたって、断じて死なない。断じて。自分なんか高めなくたって、息の仕方と食べ物の食べ方ぐらい誰もが知っている。全部余計。
だからつくりたいものをつくり続ける。
このブログだってそう。
書いた時点でもう自分に対するコミュニケーションは終わってるんだ。
あとはあなたが受け取ってください。
つくりたいものを好きなだけつくろう。
つくるものつくって、笑顔で生きよ。
※※※
「僕はほら、用意周到だからもう今の時点でこんなに危機感を感じていますよ」と言っているように見えることを承知で書く。
先ほどの小さな地震が心底怖かった。
コロナコロナと言っている間に地震が来てもおかしくない、本当に。
そしてこう書いておきながら、「まぁでも来ないだろう」と思っている自分もまたいる。よくわかる。
だが僕は本当に怖がりなので、もしかしたら、本当に、大地震がきて、もう、全然立ち直れないようになってしまうかもしれない、とも本気で考える。
でも、「まぁでも万が一の時でも僕は死なないだろうし、地震で様々なものが崩壊しても、いずれは平穏な時がくる」と考えているのもよくわかる。
よくわかってるんだぞ、俺。
こうして平和にブログを書いていられるのも今のうちかもしれない、という予兆はする。しかし同時に、僕はこうやってなんの予防線だか知らないが、予防線としてこういうことを書いているんだろう、と思う。
まぁ、あとはどうしようもないから、自分は運がいいと思い込んでることは全然否定せずに、まぁでも万が一なんかあったら、と少しでも準備すればそれでよろしい。
もともと「平穏」なんてない。
※※※
「つくりたくてしょうがない」と書くと、余計に何かをつくりたくてしょうがなくなってくる。
つくりたいな、つくりたいな。
日々の仕事だって、それを何かを作る作業であると本気でおもいこめ。
「記録」を作ったっていいさ。「価値」を作ったっていいさ。「文章」を作っているのだっていいさ。
もし作業そのものが創造的じゃないと思えるなら、作業はそのまんまでいいから、それを「自分が語れるお話というもの」にしちゃえばいいのさ。そういうキャラクターになりきればいい。
キャラクターづくりは、創造という行為に密接に結びついている。
仕事に打ち込む自分づくり、とは役作りなのだ。
なので、とことんおかしい役を演じよう。とことんバカを演じよう。「創造性」なんかまるで気にしていない、大事なことなんかわかっていないやつを演じよう。
その役を演じられるならば、本当の自分は、それを外から見ている、ということになる。
常に狂った人の「外」にいることになる。
自覚があれば、それだけでよろしい。
他人には言わなくて十分、よろしい。
僕は、何を作ろうかな。
「作品」っていい言葉だ。
品を、作るのだ。
遠慮なんかなく、狂ったように仕事を作品にしていきたいね。
そして、そのつくったものは、自分でニコニコと誇れるものであれ。
2020年4月11日土曜日
まだまだ寒いね(てーてん観測)
あいも変わらずずっと家。
起きたのは遅かった。10時ぐらいだったかな。
iPadでウェブブラウジングして、やる気になったら翻訳に取り掛かる。
昼ごはんはラーメン。
一ヶ月ぐらい前だったか、近所のコープで好きなラーメンの麺だけが安売りしていたので、それを5袋だか買ってきていたのがまだあるのだ。最近は、スープを自分で調合する。中華スープの素と醤油で結構いい味になる。そこにワカメと適当にゴマを振ったり、その時にあるものを入れれば出来上がり。
しかしなんだってこんなに時間があるのに、自分がやりたいと思っていることをまだまだ実行できないでいるね。粛々と見直して、直していくしかないね。つまり今12時過ぎまで起きている、まさにこのことが問題なのだ。
気持ちにはあまり変化なし。
むしろ少し緩んできた感がある。
ニュースを取り入れる量を減らした。
それでもあまり困っていない。
夜、隣に住むベトナム人のホアさんが誕生日だったので、お菓子を買って届けに行った。
ベルを鳴らすと、暗い部屋からホアさんが出てきた。
ゲームしていたらしい。
ありがとう、と喜んでくれたが、今まで、祝ってくれたの、二人、という。
え、今日、ってこと?と聞いたら
そうではなく、人生で、ということらしい。
家族でもあんまり祝わないんだそうで。(彼が日本語でちゃんと言いたいことを伝えられていたのなら、そういうことになる)
「ベトナムでは、誕生日はあまり気にしない」のだそうだ。
一番祝うのは、お正月、だって。
ふうん。
二人でアパートの廊下に並んでコーヒーだけ飲んで、また部屋に戻る。
お風呂にお湯をためてはいる。
同じことの繰り返しだ。
いい繰り返しが、いいな。いい繰り返しが、いい。
2020年4月10日金曜日
夜半のおもい書き(てーてん観測 2020年4月10日)
『「イギリス社会」入門 日本人に伝えたい本当の英国』(コリン・ジョイス 著)という本を読んだ。
ボリス・ジョンソンが英国ではどう捉えられているのかが気になってWeb検索をしていたら、著者であるジャーナリストのコリン・ジョイス氏の記事に突き当たったのがきっかけ。いつもお世話になっているバリューブックスから取り寄せた。
「日本はここがダメ」ばかり読んだり聞いたりしていると、どうも気持ちが塞いでくる。できれば無視したいと思う。中には、「目をそらすな!ちゃんと国が何をしているのかを見ろ!」と言いたくなる方もいるだろう。僕もそう思う。そう思うんだけど、果たしてそれで深刻に考え、気分を落とすことがどこまで有効なのか、考える。やるせなくなったら、逆に「やけっぱちでつとめて冷静になって」やったらいい気もする。
僕が少し前まで感じていた政治に対する義憤とは、「まさか」と思うようなことを本当にやっているんだ、というたちのものだった。あらゆることが「まさか」に見えるんだよ。マスク2枚とかもね。政治の素人が普通に考えたら、やっぱり、おかしく見える。和牛に魚に、果ては布マスク2枚なんて、ちゃんちゃらおかしくて擁護の余地もないように思えた。
でもそこで、その「まさか」の原因を、それは上の人間が邪悪だからだ、と落ち着かせてしまったらダメだ。「良識から考えたらどう考えてもそう」「ロジカルに考えたらどう考えてもおかしい」と思えても、ぐっと我慢したほうがいい。それを放っておくと、どんどんどんどん、「悪い物語」が自分の頭の中でスタートしてしまう。それは、想像力が高いが故の「自分にとって一番合理的に思えるストーリー化」である。でもどこまで行っても、それは断片をつなぎ合わせた仮説でしかない。その「つなぎ」は全部自分が頭の中で作ってる。「私腹を肥やしたいからだ」「国民のことなど何にも考えていないのだ」と。
そもそも「因果関係」を言い当てるのは、とてもとても難しい。「どう考えてもおかしく」見えるのは、その裏にあるカラクリが、人ひとりの頭の中では、とてもじゃないが判断できないような複雑な要素が絡み合った結果だから、と考える。僕はこの判断を、妥当だと思う。利権がらみだ、という可能性も充分あるし、かたや、全体を俯瞰したら天才的な判断である可能性もある。(しかも政策を作ってるのって、首相じゃないですよね)
そしてそういう構造である以上、意見を言う人は「一見おかしく見えること」を提案するなら、それ相応の「わけ」を説明しないとうけいれられない。一番大事なのは、その「わけ」を詳しく述べるべく、戦略的にコミュニケートすることだ。
それがうまくいかないと、作戦がうまく機能しない。
なので、「これはおかしい!!」と思ったら、まずはコミュニケーションの不全を真っ先に疑うのがいいと思う。自分が受け取っている情報が不十分なのだ、あるいは、情報を発信する側の方法がうまくいっていないのだ、と。そこに「人の命をなんとも思っていないんだ」と、こちら側の推測をアプライした途端に、それは今度、「同じストーリーをたまたま共有するもの同士」にしか伝わらない情報になってしまう。右派だろうが左派だろうがなんだろうが。
これは、場合によっては、結構シビアな線だ。やっぱり嫌なものを見るとカッとするしさ。でもヘンに見えてしまうカラクリがあるんだ、と意地でも考える方が妥当であると僕は思う。そしてもしそこに、コミュニケーションの不全は特になくて、ただ自分の声が届いていないのだ、と分かったのであれば、「ここ、行き届いてないですよ」と「自分が本当に目撃しているもの」について、今度はこちらが、ウマいコミュニケーションで言うべきだと思う。
「遠くの情報」について感情を抱くというのは、まだまだ人類史では新しい体験なんだと思う。
怒りや悲しみや喜びという感情というのは、本来的には、手の届く範囲に人がいるときに一番効力を発揮する能力なんだと思う。手の届く範囲に困ってるやつがいたら、まずその人を自分が助けるもんな。だって、困っている人を見るのは悲しいし、困った人が自分に「助ける権利」を預けてくれるのはとても嬉しいから。それで、自分の力じゃどうしようもなくて、しかるべき助けてくれそうな機関があるのならば、冷静にどのような支援をしてくれるのかを調べ、そこで初めて、別で何か言うべきことが生まれると僕は思う。
もちろん感情が高ぶるのもすっごくよくわかるんだ。(僕こそ、すぐ安直な義憤を抱くし)現金が今すぐ逼迫した人の元へ渡ることが必要じゃないか、と思うもんね。しかしここには「弱い者を政府が救うべきなのか否か」という議論だって、ある。「お前もそんなこと言うのか!」と思われるかもしれないんだけど、でも、「弱い者も当然政府が救うべきである」というのも、一つの思想であると僕は思う。
僕個人は、「弱いものにとことん優しい政府」であってほしいと思う方だ。
弱い立場の人を死守することが、最終的に全体の強さを生むと思う。
少なくとも自然淘汰の考え方を人間の世界にも単純にアプライする気には全然なれない。それにたとえば政府が「国民主権」と言う建前で運営されている組織であるなら、当然、国民の権利を制限する要請をした時点で、それに見合う補填がある、というのはロジカルだ。
しかし政府は「個人」じゃない。お金に関していえば、これはリソースの配分機関である。あと「政府」と一括りに言っても、そこには何百人という人が働き、また省庁ごとに実は全然違った人たちがいるだろう。学校くらいの規模を想像してもそれはわかる。部活ごとに性格も全然違うもんね。
などなど踏まえて、全体を俯瞰すると、少なくとも素人が「判断の成否」を感情で安直に決めつけることはどうもできないなぁ、と思う。
(あと『弱い』と決めつけている人はそもそも本当に弱いんだろうか?)
客観的に見ようとすればするほど、「個人が感じる合理性と行政のレベルで感じる合理性というのはそもそも違うんだ」ということも浮かび上がってくる。
それがいかに自分なりの「正しさ」に基づいていても、「怒り」というのは、本来目の前に人がいるとき、それを相手に口頭で「おい、おめぇどういうつもりなんだ、説明してみろ」と是非を問えるときにのみ、効力を発揮するんだろう。そこに、個人の手で負える対話の道筋があるからだ。
システムとの対話は、持久戦だ。あと、一回直せばいいというもんでもない。どんなに暴走しても、修理の仕方は、どこが間違っているのかを見極めて、淡々と一個ずつ直すことだ。
身の回りの人に目を向けてから、それから、システムをじっくり修理してやるんだ。子供ができて、いい年頃になるときには、なんか、日本ってどんどんよくなってきてるねー、って言われたいもんだな。
あ、それで読んだ本に関して。へへ、今日はこれを言いたいんだったよ。
やっぱり僕は英語は英国風がいいな、と思ったり、イギリス周辺の文化が気になってきた。ロックとか、あまり興味ないのだが、なんというか、「英語が話されている国」っていう目でイギリスを見たことがなくて、つまりなんていうの、英語を「イギリス語」って言うと、なんかワクワクすんのよね。
でさあ、僕はfacebookで世界とつながり、イギリス人の友達にもいつでもイギリスのことを聞ける状態でありながら、あくまで対象としてイギリスについて知りたい、と思っているんだよね。これ、なんか、全然、前時代的やなー、って思う。ときどき僕は勘違いして、自分がそれなりに国際的であるとか、外国とのつながりがあると思いそうになるけど、やっぱり僕はすっごく日本人。でもたとえそれがどこか滑稽でも「知ろうとしている」という姿勢こそを保ち続けることが、「国際人」の資格だろう、と思うよ。うん。
ところで、僕はアマゾンで中古本を買う時は、選択肢にあれば必ず「バリューブックス」を選んでいる。理念が共感できて、本はきれいだし、納品書の裏に面白い読み物がついてきます。おすすめ。
ボリス・ジョンソンが英国ではどう捉えられているのかが気になってWeb検索をしていたら、著者であるジャーナリストのコリン・ジョイス氏の記事に突き当たったのがきっかけ。いつもお世話になっているバリューブックスから取り寄せた。
「日本はここがダメ」ばかり読んだり聞いたりしていると、どうも気持ちが塞いでくる。できれば無視したいと思う。中には、「目をそらすな!ちゃんと国が何をしているのかを見ろ!」と言いたくなる方もいるだろう。僕もそう思う。そう思うんだけど、果たしてそれで深刻に考え、気分を落とすことがどこまで有効なのか、考える。やるせなくなったら、逆に「やけっぱちでつとめて冷静になって」やったらいい気もする。
僕が少し前まで感じていた政治に対する義憤とは、「まさか」と思うようなことを本当にやっているんだ、というたちのものだった。あらゆることが「まさか」に見えるんだよ。マスク2枚とかもね。政治の素人が普通に考えたら、やっぱり、おかしく見える。和牛に魚に、果ては布マスク2枚なんて、ちゃんちゃらおかしくて擁護の余地もないように思えた。
でもそこで、その「まさか」の原因を、それは上の人間が邪悪だからだ、と落ち着かせてしまったらダメだ。「良識から考えたらどう考えてもそう」「ロジカルに考えたらどう考えてもおかしい」と思えても、ぐっと我慢したほうがいい。それを放っておくと、どんどんどんどん、「悪い物語」が自分の頭の中でスタートしてしまう。それは、想像力が高いが故の「自分にとって一番合理的に思えるストーリー化」である。でもどこまで行っても、それは断片をつなぎ合わせた仮説でしかない。その「つなぎ」は全部自分が頭の中で作ってる。「私腹を肥やしたいからだ」「国民のことなど何にも考えていないのだ」と。
そもそも「因果関係」を言い当てるのは、とてもとても難しい。「どう考えてもおかしく」見えるのは、その裏にあるカラクリが、人ひとりの頭の中では、とてもじゃないが判断できないような複雑な要素が絡み合った結果だから、と考える。僕はこの判断を、妥当だと思う。利権がらみだ、という可能性も充分あるし、かたや、全体を俯瞰したら天才的な判断である可能性もある。(しかも政策を作ってるのって、首相じゃないですよね)
そしてそういう構造である以上、意見を言う人は「一見おかしく見えること」を提案するなら、それ相応の「わけ」を説明しないとうけいれられない。一番大事なのは、その「わけ」を詳しく述べるべく、戦略的にコミュニケートすることだ。
それがうまくいかないと、作戦がうまく機能しない。
なので、「これはおかしい!!」と思ったら、まずはコミュニケーションの不全を真っ先に疑うのがいいと思う。自分が受け取っている情報が不十分なのだ、あるいは、情報を発信する側の方法がうまくいっていないのだ、と。そこに「人の命をなんとも思っていないんだ」と、こちら側の推測をアプライした途端に、それは今度、「同じストーリーをたまたま共有するもの同士」にしか伝わらない情報になってしまう。右派だろうが左派だろうがなんだろうが。
これは、場合によっては、結構シビアな線だ。やっぱり嫌なものを見るとカッとするしさ。でもヘンに見えてしまうカラクリがあるんだ、と意地でも考える方が妥当であると僕は思う。そしてもしそこに、コミュニケーションの不全は特になくて、ただ自分の声が届いていないのだ、と分かったのであれば、「ここ、行き届いてないですよ」と「自分が本当に目撃しているもの」について、今度はこちらが、ウマいコミュニケーションで言うべきだと思う。
「遠くの情報」について感情を抱くというのは、まだまだ人類史では新しい体験なんだと思う。
怒りや悲しみや喜びという感情というのは、本来的には、手の届く範囲に人がいるときに一番効力を発揮する能力なんだと思う。手の届く範囲に困ってるやつがいたら、まずその人を自分が助けるもんな。だって、困っている人を見るのは悲しいし、困った人が自分に「助ける権利」を預けてくれるのはとても嬉しいから。それで、自分の力じゃどうしようもなくて、しかるべき助けてくれそうな機関があるのならば、冷静にどのような支援をしてくれるのかを調べ、そこで初めて、別で何か言うべきことが生まれると僕は思う。
もちろん感情が高ぶるのもすっごくよくわかるんだ。(僕こそ、すぐ安直な義憤を抱くし)現金が今すぐ逼迫した人の元へ渡ることが必要じゃないか、と思うもんね。しかしここには「弱い者を政府が救うべきなのか否か」という議論だって、ある。「お前もそんなこと言うのか!」と思われるかもしれないんだけど、でも、「弱い者も当然政府が救うべきである」というのも、一つの思想であると僕は思う。
僕個人は、「弱いものにとことん優しい政府」であってほしいと思う方だ。
弱い立場の人を死守することが、最終的に全体の強さを生むと思う。
少なくとも自然淘汰の考え方を人間の世界にも単純にアプライする気には全然なれない。それにたとえば政府が「国民主権」と言う建前で運営されている組織であるなら、当然、国民の権利を制限する要請をした時点で、それに見合う補填がある、というのはロジカルだ。
しかし政府は「個人」じゃない。お金に関していえば、これはリソースの配分機関である。あと「政府」と一括りに言っても、そこには何百人という人が働き、また省庁ごとに実は全然違った人たちがいるだろう。学校くらいの規模を想像してもそれはわかる。部活ごとに性格も全然違うもんね。
などなど踏まえて、全体を俯瞰すると、少なくとも素人が「判断の成否」を感情で安直に決めつけることはどうもできないなぁ、と思う。
(あと『弱い』と決めつけている人はそもそも本当に弱いんだろうか?)
客観的に見ようとすればするほど、「個人が感じる合理性と行政のレベルで感じる合理性というのはそもそも違うんだ」ということも浮かび上がってくる。
それがいかに自分なりの「正しさ」に基づいていても、「怒り」というのは、本来目の前に人がいるとき、それを相手に口頭で「おい、おめぇどういうつもりなんだ、説明してみろ」と是非を問えるときにのみ、効力を発揮するんだろう。そこに、個人の手で負える対話の道筋があるからだ。
システムとの対話は、持久戦だ。あと、一回直せばいいというもんでもない。どんなに暴走しても、修理の仕方は、どこが間違っているのかを見極めて、淡々と一個ずつ直すことだ。
身の回りの人に目を向けてから、それから、システムをじっくり修理してやるんだ。子供ができて、いい年頃になるときには、なんか、日本ってどんどんよくなってきてるねー、って言われたいもんだな。
あ、それで読んだ本に関して。へへ、今日はこれを言いたいんだったよ。
やっぱり僕は英語は英国風がいいな、と思ったり、イギリス周辺の文化が気になってきた。ロックとか、あまり興味ないのだが、なんというか、「英語が話されている国」っていう目でイギリスを見たことがなくて、つまりなんていうの、英語を「イギリス語」って言うと、なんかワクワクすんのよね。
でさあ、僕はfacebookで世界とつながり、イギリス人の友達にもいつでもイギリスのことを聞ける状態でありながら、あくまで対象としてイギリスについて知りたい、と思っているんだよね。これ、なんか、全然、前時代的やなー、って思う。ときどき僕は勘違いして、自分がそれなりに国際的であるとか、外国とのつながりがあると思いそうになるけど、やっぱり僕はすっごく日本人。でもたとえそれがどこか滑稽でも「知ろうとしている」という姿勢こそを保ち続けることが、「国際人」の資格だろう、と思うよ。うん。
ところで、僕はアマゾンで中古本を買う時は、選択肢にあれば必ず「バリューブックス」を選んでいる。理念が共感できて、本はきれいだし、納品書の裏に面白い読み物がついてきます。おすすめ。
家にこもってばかりで一週間くらい。本が増えてきた。
2020年4月9日木曜日
コロナの定点観測 2020/04/08
朝おそめ。翻訳する。
最近は毎週水曜と木曜にふじくんが来て、イタリア語と英語の勉強をしている。イタリア語は、入門書全20課のうちの、第4課まできた。英語、PM ジャグリングのだいごさんも交えて、通話で、300個の例文を覚える、という作業を一緒にやっている。ここからどうやって派生していくか、だな。一時間半ぐらい話した。
語学の時間が終わると、(14時に始めて、17時半ぐらいまでやったかな)キーマカレーを作って、それから少しボードゲームする。「ニムト」と、「ナルハヤのつるぎ」。
少しお酒も飲む。普段はあんまり一緒にお酒飲んだしないんだけどね。
ジャズを聴きながら。
なんだかえらいおしゃれだな。
最近とみに、ふじくんと政治の話をする。まぁ、具体的な内容というよりは、「ほとんど勉強してない素人である以上、俺たちは政治に対してどういう態度を取るべきか」という話になりがちだけどね。
EJCのことを思い出してる。
最近は毎週水曜と木曜にふじくんが来て、イタリア語と英語の勉強をしている。イタリア語は、入門書全20課のうちの、第4課まできた。英語、PM ジャグリングのだいごさんも交えて、通話で、300個の例文を覚える、という作業を一緒にやっている。ここからどうやって派生していくか、だな。一時間半ぐらい話した。
語学の時間が終わると、(14時に始めて、17時半ぐらいまでやったかな)キーマカレーを作って、それから少しボードゲームする。「ニムト」と、「ナルハヤのつるぎ」。
少しお酒も飲む。普段はあんまり一緒にお酒飲んだしないんだけどね。
ジャズを聴きながら。
なんだかえらいおしゃれだな。
最近とみに、ふじくんと政治の話をする。まぁ、具体的な内容というよりは、「ほとんど勉強してない素人である以上、俺たちは政治に対してどういう態度を取るべきか」という話になりがちだけどね。
EJCのことを思い出してる。
2020年4月8日水曜日
コロナの定点観測 2020年4月8日
ほぼいちにち家にいて、パソコンで翻訳。
この記述を、例えば20年後の俺はどう見ているのかな。楽しみだね。何をしてるんだい。落ちぶれてるのかい。全然違うことをして、楽しんでるのかい。それとも、20年先に僕はいないのかな。
途中、玉ねぎとひき肉、カレー粉、豆乳、卵、メンチカツ、ハムカツを買ってきた。交通費も何もとにかくお金がかからないことと、家にいてなんだか食べるくらいしか刺激がないことで、食べ物にかけるお金が増えてきている。
100円のメンチカツですら、今まで買うの、少しためらっていたからね。
本当は、コンビニにお菓子と新聞を買いに行こうとしたのにね。八百屋とコープに行ってしまった。八百屋、いつも通りだ。コープ、いつも通りだ。少し人が多かったかな?でも品数も普段通り。
いちにち合計500mも歩いていない気がする。こんなことは、今までなかった。何か運動をしなきゃ。
というわけで、逆立ちを鍛えている。あと、柔軟している。ベターっと、だね、みんなに次会う頃には、ベターっと、逆立ちでスラーっと、なっているから覚悟しておれ。
以下ランダムな雑想。
-もっとひどい経済状況にあったり、犯罪が多かったりする世界はごまんとある、ということも頭に入れておきたい。「日本はこんなにひどいんだ」とも思うが、同時に、「日本にいて今のところ三食飯が食えている」ということはまだまだ揺るがない。
-人間は、かくも「物語」を勝手にこしらえるものなんだな、と思っている。僕は、コロナのニュースを聞くたびにいちいち壮大な「世界」、あるいは「日本国」という頭の中だけに存在するものを想起し、そこに事件をプロットしている。「このままだと大変なことになる」というのは、いう権利を十分に保持すべきことでありつつ、でも、まぁ頭の中で起きていることでしかない、ということにも自覚的であるべきだろう。あと、言葉って全部妄想ですね。妄想と呪力だ。それが切実な時もあるんだけどね。
-『ストリートの思想』という本を読んでいる。
「こうした二項対立の擬似的な政治から逃れる方法は、安易な問題設定から逃れて、自律した政治の空間を先に作り、そこでさまざまな政治的事象について語り始めることである。二項対立から逃れそれに先んずること、それがストリートの思想の可能性なのだ。」(p.200-201)とある。自律した政治の空間、ってのは憧れる言い方だな。
-語学ブログを始める。
2020年4月7日火曜日
コロナの定点観測 2020年4月7日
久々にこちらに戻ってきた。
ええとね、ツイッターで、見たんだ。フヅクエ、というカフェを経営してらっしゃる方が書いていた。
今こそ日記をつけるタイミングだ、と。
一週間前に書いたことが、遠いと。
あー、確かに、書いておけばよかったな、と思う。
まぁ、ひとまず今日から書いていく。
今日もほぼ一日中家にいた。朝7時くらいに起きて、本を読んだり仕事をしたり。
一度外出し、髪を切りに行った。
それと、スーパーのATMに用事を済ませに行ったりはしたか。
でも、そんなもの。あ、そうだ、パン屋にでも行こう、と思って、バイクでパン屋まで行ったが、10時から15時までの営業で、そのまま帰ってきたのだった。
そうだな、ほんのすこし前の22日まで、大学時代の友人と4人で出歩いてたな、ということをまず書いておこう。ギリギリでそういうことができた。
まぁ、もうすでに危ない、ということは言われていたんだけども、特別な罪悪感や危機を感じる、と言うこともなかった。まぁ、クラスター感染、と言うことは散々言われていて、友人の1人が数日前にリスクの高いところにいたと言うので、家から追い出されたような形になっていたが。
それでさ、今少しだけ怖い想像をしている。
それは仮に明日、関東を大地震が襲ったらどうしよう、ということである。
こんなことは、怖くなってしまうから言いたくないし、人によってはこれを読んだだけで、生活するのが嫌になってしまうかもしれない。
でも、これは厳然たる可能性として横たわっている。
2011年を体験している僕らはわかっているはずである。
だからさ、僕はこうも思うんだ。
日常に「戻る」という思いを抱くのはやめておこう、と。
別に悲観論ではない。
ただ、「災害はあってはならない異常だ」みたいには、絶対に考えないようにしよう、と言うことである。
およそ自然を相手取って、「あってはならない」ことなんてない。
無差別にただ「起こる」のが自然災害である。
それを身体的に受け入れられるように、精神を整えておく。
次は、新しい日常のあり方が立ち現れてくるんじゃないか、と本気で思う。
でもかといって、3.11の後散々心が動かされたけれども、なんだかんだで「日常に戻った」というような思いもあり(もちろん、「なんともなくなった」なんてことは断じてないのだが)結局後で、「思いつめすぎだったね」というようなことを、言う、かもしれない。
でもやっぱりなぁ、もうね、少なくとも「もとどおり」にはならないんだよ。
今は少なくとも、そういう気分でいる。
さて以下は、これから毎日、後で忘れそうな、今の日付でどれぐらいの意識でいるか、ということを書いておく。
・2週間ぐらい前までは、まぁ、言うても5月ごろには終わっているだろう、というなんとなくの楽観視があったと思う。
・少なくとももうこの数日では、「ああ、これは夏まで続くんじゃないかな」と言う気がすごくしている。そして、もう一ヶ月も経ったら、「頼むから今年中で終わってくれ」くらいの意識に変わっているかもしれない。
・5月の京都のジャグリングイベント、なんらかの形でできるんじゃないか、と言う気がしている。
・7月のEJCに関しても、そういえば、2週間ぐらい前まで、「まぁとはいえ夏のイベントは流石に影響を受けないだろう」と思っていたように思う。
ええとね、ツイッターで、見たんだ。フヅクエ、というカフェを経営してらっしゃる方が書いていた。
今こそ日記をつけるタイミングだ、と。
一週間前に書いたことが、遠いと。
あー、確かに、書いておけばよかったな、と思う。
まぁ、ひとまず今日から書いていく。
今日もほぼ一日中家にいた。朝7時くらいに起きて、本を読んだり仕事をしたり。
一度外出し、髪を切りに行った。
それと、スーパーのATMに用事を済ませに行ったりはしたか。
でも、そんなもの。あ、そうだ、パン屋にでも行こう、と思って、バイクでパン屋まで行ったが、10時から15時までの営業で、そのまま帰ってきたのだった。
そうだな、ほんのすこし前の22日まで、大学時代の友人と4人で出歩いてたな、ということをまず書いておこう。ギリギリでそういうことができた。
まぁ、もうすでに危ない、ということは言われていたんだけども、特別な罪悪感や危機を感じる、と言うこともなかった。まぁ、クラスター感染、と言うことは散々言われていて、友人の1人が数日前にリスクの高いところにいたと言うので、家から追い出されたような形になっていたが。
それでさ、今少しだけ怖い想像をしている。
それは仮に明日、関東を大地震が襲ったらどうしよう、ということである。
こんなことは、怖くなってしまうから言いたくないし、人によってはこれを読んだだけで、生活するのが嫌になってしまうかもしれない。
でも、これは厳然たる可能性として横たわっている。
2011年を体験している僕らはわかっているはずである。
だからさ、僕はこうも思うんだ。
日常に「戻る」という思いを抱くのはやめておこう、と。
別に悲観論ではない。
ただ、「災害はあってはならない異常だ」みたいには、絶対に考えないようにしよう、と言うことである。
およそ自然を相手取って、「あってはならない」ことなんてない。
無差別にただ「起こる」のが自然災害である。
それを身体的に受け入れられるように、精神を整えておく。
次は、新しい日常のあり方が立ち現れてくるんじゃないか、と本気で思う。
でもかといって、3.11の後散々心が動かされたけれども、なんだかんだで「日常に戻った」というような思いもあり(もちろん、「なんともなくなった」なんてことは断じてないのだが)結局後で、「思いつめすぎだったね」というようなことを、言う、かもしれない。
でもやっぱりなぁ、もうね、少なくとも「もとどおり」にはならないんだよ。
今は少なくとも、そういう気分でいる。
さて以下は、これから毎日、後で忘れそうな、今の日付でどれぐらいの意識でいるか、ということを書いておく。
・2週間ぐらい前までは、まぁ、言うても5月ごろには終わっているだろう、というなんとなくの楽観視があったと思う。
・少なくとももうこの数日では、「ああ、これは夏まで続くんじゃないかな」と言う気がすごくしている。そして、もう一ヶ月も経ったら、「頼むから今年中で終わってくれ」くらいの意識に変わっているかもしれない。
・5月の京都のジャグリングイベント、なんらかの形でできるんじゃないか、と言う気がしている。
・7月のEJCに関しても、そういえば、2週間ぐらい前まで、「まぁとはいえ夏のイベントは流石に影響を受けないだろう」と思っていたように思う。
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