朝6時前に起きる。手洗いで洗濯する。布団干す。コーヒー淹れ、飲む。大体家事が終わったので、バイクで臨港パークまで。まだ8時ぐらい。暑すぎず、気持ちがいい。少しジャグリングをする。途中暑くなってくる。男女2人が仲良く波打ち際に腰掛けていて、これは横浜らしいなぁ、と思ってスケッチをする。写真ではなく、情景を見ながらのスケッチをしてこなかった。ああ、こういうことか、と嬉しくなる。こういうスケッチの方が、僕が何をいいと思ってこれを描いたのか、今見てもよくわかる。「思い出す装置」としてスピーディなスケッチはいいね。僕はこの歳になってようやくこれを知った。まぁ、これから先の人生、これで存分に遊んでみる。その後、ドトール。文字起こしなど。メールも返す。そのままちょこっとウーバーする。綴方に行ったら、ジャグラーのこーら君が来ている。一緒に蕎麦屋へ。これからの話などする。『偶然の装丁家』(矢萩多聞 晶文社)を買う。読んだことはあったが、実は手元に持っていなかった。かわいい絵とサイン入り。嬉しい。そのまま本屋の二階で仕事をする。もう一度ウーバー行くか迷っているところ。現在7時。まあ今日は文字起こしを終わらせてしまうかな。
※※※
自分が会ったことのない人のことを考える。僕たちは、お互いのことを全然知らない。そのほうが自然だ、というだけだが。インターネットで繋がっている、みたいに錯覚してしまうと、突然、実は全然繋がってなんかいなかった、お互いのことを知らなかった、という現実がドカン、と目の前に現れて、びっくりする。どこまでいっても、他人、とは、自分の想像の中に住んでいる人。
でも一方でね。僕が今まで会って来た人たちは、まだほぼ全員、この地球上のどこかにいるんだ、今もどこかで何かをしているんだ、と考えると、頼もしいような気分にもなる。まだ会ったことのない人たちも、とりあえず今地球のどっかにいる。
いるのかな?
マルクス・アウレーリウスの『自省録』とか読んでいても、古代ギリシャと自分の繋がり感じて面白いなーなんて思う。本の中では、今いる人も、いない人も、同じ地平に並んでいるね。岡本太郎の著作も読んでいるんだが、そこにいるようだしね。
ああ、でも、さっき知り合いに道端で会って、生身での言葉の交わし合いほど根源的なエネルギーの交換の欲求を満たすものもないな、とも感じたね。それは、つまり完全に想像の中の人間(や、あるいはそのほか全て)と会うのとは、全く異質の体験なんだな、と直感した。こういう時間を増やしたい。猫に会いに行くのだって、その一環だ。
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