2021年8月21日土曜日

ながいつぶやき(165)「思い出す装置」として

朝6時前に起きる。手洗いで洗濯する。布団干す。コーヒー淹れ、飲む。大体家事が終わったので、バイクで臨港パークまで。まだ8時ぐらい。暑すぎず、気持ちがいい。少しジャグリングをする。途中暑くなってくる。男女2人が仲良く波打ち際に腰掛けていて、これは横浜らしいなぁ、と思ってスケッチをする。写真ではなく、情景を見ながらのスケッチをしてこなかった。ああ、こういうことか、と嬉しくなる。こういうスケッチの方が、僕が何をいいと思ってこれを描いたのか、今見てもよくわかる。「思い出す装置」としてスピーディなスケッチはいいね。僕はこの歳になってようやくこれを知った。まぁ、これから先の人生、これで存分に遊んでみる。その後、ドトール。文字起こしなど。メールも返す。そのままちょこっとウーバーする。綴方に行ったら、ジャグラーのこーら君が来ている。一緒に蕎麦屋へ。これからの話などする。『偶然の装丁家』(矢萩多聞 晶文社)を買う。読んだことはあったが、実は手元に持っていなかった。かわいい絵とサイン入り。嬉しい。そのまま本屋の二階で仕事をする。もう一度ウーバー行くか迷っているところ。現在7時。まあ今日は文字起こしを終わらせてしまうかな。

※※※

自分が会ったことのない人のことを考える。僕たちは、お互いのことを全然知らない。そのほうが自然だ、というだけだが。インターネットで繋がっている、みたいに錯覚してしまうと、突然、実は全然繋がってなんかいなかった、お互いのことを知らなかった、という現実がドカン、と目の前に現れて、びっくりする。どこまでいっても、他人、とは、自分の想像の中に住んでいる人。

でも一方でね。僕が今まで会って来た人たちは、まだほぼ全員、この地球上のどこかにいるんだ、今もどこかで何かをしているんだ、と考えると、頼もしいような気分にもなる。まだ会ったことのない人たちも、とりあえず今地球のどっかにいる。

いるのかな?

マルクス・アウレーリウスの『自省録』とか読んでいても、古代ギリシャと自分の繋がり感じて面白いなーなんて思う。本の中では、今いる人も、いない人も、同じ地平に並んでいるね。岡本太郎の著作も読んでいるんだが、そこにいるようだしね。

ああ、でも、さっき知り合いに道端で会って、生身での言葉の交わし合いほど根源的なエネルギーの交換の欲求を満たすものもないな、とも感じたね。それは、つまり完全に想像の中の人間(や、あるいはそのほか全て)と会うのとは、全く異質の体験なんだな、と直感した。こういう時間を増やしたい。猫に会いに行くのだって、その一環だ。


いろいろ方向について迷いそうになったり落ち込みそうになったりするが、文章書いて絵描いて、とにかく頭がいっぱいになりそうになったら、作品を1個でも多く世に出し続ける以外に面白く過ごす方法ってないんだよ。悩むのは、毎日真剣に一編の漫画と文章でも書いてからにせよ、と切に思う。

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